1-4 変化


 幾本もの流水の線が、浴室の床を叩く。雨音にも似たシャワーの音が、砂音は苦手だった。

 

 部活後、カフェのバイトも終えて遅くに帰宅した彼は、シャワーを浴びながら流れる水の音に思考を重ねていた。

 その脳裏に浮かぶのは、いつも決まった映像だ。止まないシャワーの音、水浸しの床、赤く染まった浴槽――。


 もう何度も、何度も脳内に再生されたその光景に、目を逸らす事も逃げ出す事も出来ずに、砂音は真正面からそれを受け止め続ける。

 

 彼の意識を引き戻したのは、室外からの携帯電話の着信音だった。

 はっとしてシャワーを止めると、砂音は脱衣所に戻り、タオルを引っ掴んで手早く身体の水滴を拭う。もう片方の手で服と共に置かれていた自身の携帯電話を掬い上げた。


 呼び出し表示は、〝母〟。

 画面を操作して通話に応答すると、聞き慣れた実家の母親の声が耳に飛び込んできて、砂音は何だかホッとした。


「もしもし。……うん、うん、さっき帰ってきたとこ。大丈夫、元気にやってるよ。そっちは? ……皆元気? それは良かった」


 相槌を打ちながら、砂音は片手で着衣を始めた。高校に入ってから一人暮らしを始めた彼は、実家からの仕送りとバイトで生計を立てているのだが、心配性の母親はこうしてよく連絡をくれるのだ。


「煮物? ……ちょっと待って」


 何とか下だけ穿いた中途半端な状態で、室内を闊歩する。キッチンに備え付けられた小さな冷蔵庫を開いて中を確認すると、改めて母へと返事をした。


「前に貰ったやつが結構残ってるから、まだ大丈夫。うん、ありがとう」


 それから、煮物……母の手料理で想起された顔があった。


「そうだ、母さん。今日ね、朱華ちゃんに会ったんだよ。……そう、小学生の時、一緒だった。よく家にも来てくれたよね。一緒に夕飯した」


 本日、偶然の再会を果たした幼馴染の話題を出すと、母も覚えていたようで嬉しそうに乗ってきた。


「うん、元気そうだったよ。最近転校してきたんだって。凄い偶然だよね。……そうだね。うん。また一緒に食事出来るといいよね。分かった、伝えとく」


 そこで通話を終えようとして、ふとまた思い出して砂音は続けた。


「あ、そうだ、亀蔵かめぞうも元気? 変わりない? ……良かった。あれからまた大きくなった? へぇ!」


 亀蔵とは、時任家で飼われているイシガメの名前だ。マンションに引っ越す際連れて行くか迷ったのだが、庭の池で鯉達と一緒に悠々自適に暮らしているのを狭い水槽に閉じ込めてしまうのはかえって不憫に思ったので、泣く泣く実家に置いてきたのだ。

 愛亀の成長を聞いて、砂音は温かい気持ちになった。


「そういえば、亀蔵をくれたのも朱華ちゃんだったよね」


 あれは、夏休みの事だった。砂音は朱華や友達と一緒に、近所の神社で行われた夜祭に出向いたのだ。

 そこの屋台に、金魚すくいならぬ亀すくいというものがあった。小さな亀が沢山平たい水槽で泳いでおり、それを金魚すくいと同じ要領でブイで掬うというものだ。

 愛らしい亀に惹かれて見ていると、他の友達が砂音の視線の先を追って、言った。


「すげえ、めっちゃ亀いる!」

「こういうのって、売れ残ったやつどうなるんだろうな」

「そりゃあ、あれだろ。〝さっしょぶん〟じゃね? こんなにたくさん飼えねーだろ」


 〝殺処分〟……その物騒な単語に、砂音はギョッとした。次いで蒼白になる。

 そのまま友人達が別の屋台に向かおうとする中、砂音は、


「ごめん、俺あとから合流する」


 と断って、その場に残った。

 このままだと亀達が殺されてしまう! 子供心にそう考えて、少しでも多くの亀達をおうと思った。

 朱華にはそんな砂音の行動はお見通しだったらしい。彼女だけは彼と一緒に残ってくれていた。

 しかし――。


「音にぃって、運動神経いいくせに、変な所鈍臭いっていうか不器用だよな」


 朱華にそう呆れられるくらい、砂音の亀すくいは成功を見なかった。度重なる失敗に、お小遣いを殆ど突っ込んでしまい、砂音は打ちひしがれた。


「ごめんね……俺には君たちを助けられない」


 亀達に申し訳なくて、しゅんと萎れる砂音に、朱華は溜息を吐いてから腕を捲り、


「おっちゃん、あたしもやる」


 そう宣言して、屋台の店主にお金を手渡した。

 まさか朱華までやってくれるとは思っていなかった砂音は、驚いて彼女の方を見た。彼女はそっぽを向いたまま、何も言わない。

 そうしてブイを手に、真剣な目をして亀すくいに挑んだ。結果、彼女は一匹の亀を見事に掬い上げたのだった。


「凄い! 朱華ちゃん!」


 喝采する砂音に、朱華は無言で戦利品の亀を突き出した。


「くれるの?」

「……音にぃがやってんの見て、あたしもやりたくなっただけだし。亀が欲しかった訳じゃねーし」


「一匹だけだけど」と言い訳のように口の中でごにょごにょと漏らす彼女に、砂音は破顔した。


「ありがとう、朱華ちゃん! 朱華ちゃんは亀達のヒーローだね!」

「何だそりゃ」

「あ、ヒーローは男性だっけ。それじゃあ、ヒロインかな。朱華ちゃんは、俺のヒロインだね」


 すると、彼女は一気に顔を真っ赤にしてしまった。


「ひ、ヒーローでいい!」


 ――あれ、怒らせてしまったかな。そういえば、朱華ちゃんはあんまり女の子扱いされるのは好きじゃなかったんだっけ。

 砂音はそんな風に解釈して、内心反省したものだった。


「朱華ちゃんは、俺のヒーローなんだよ」


 懐かしさに、思わず携帯電話にそう零すと、母からは疑問符が返ってきた。


「ううん、何でもない。それじゃあ、そろそろ切るね。母さん達も、身体に気を付けて」


 向こうからの受け答えを最後に、砂音は今度こそ通話をオフにした。温かい気持ちのまま、残りの着衣もちゃんと済ませ、ドライヤーに手を掛ける。

 そこで、再び携帯が鳴った。今度は電話ではなく、メッセージの方だった。


 通知画面に表示された名前に、砂音の笑みが消える。

 メッセージは一言。


 『今度は、外で会いたい』


 昼休みに会った女生徒だった。顔も名前も知らなかった、初対面の他クラスの人。

 空き教室で交わした後暗い行為の記憶が、瞬時に優しい思い出を覆い尽くす。

 表情を失くしたまま、砂音は返信を打つ。


 『いいよ』


 簡素な言葉の後、一度送信ボタンを押して付け加える。


 『君がそう望むのなら』


 送信して、画面を閉じた。携帯を置いて呟く。


「……大丈夫」


 ――俺は、大丈夫だから。

 自分に言い聞かせるように、砂音は何度も口の中でその呪文を転がした。



 ◆◇◆



「あー、遅くなっちまった」


 アパートの扉を開くと、真っ暗な玄関に靴を脱ぎ捨て、手探りで廊下の電気を点けた。

 薄ぼんやりした蛍光灯に照らし出される、一日の終着点。学校とコンビニバイトでの蓄積疲労を感じつつ、その細い道を進むと、すぐにリビングに辿り着いた。


 改めてそこでも照明を灯しながら、朱華は手荷物を乱雑に置き、棚の上に視線を投げた。


「――ただいま、オヤジ」


 そこに飾られた位牌と遺影に軽く挨拶をするのが、彼女の日課となっていた。

 生きていた頃は、こんな風に気軽に話す事も無かったのにな。……そんな事を思い、皮肉な笑みを浮かべてしまう。


「オヤジ。今日さ、学校で音にぃに逢ったよ。……まぁ、オヤジはあんま知らないか」


 何となくそのまま話し掛けながら、数年ぶりに偶然の再会を果たした幼馴染の顔を思い浮かべた。昔と同じ、温かく包み込むような、あの笑顔――。



 ◆◇◆



 あのさ、音にぃ。あたしはあの頃、音にぃと一緒の時間が、ずっと続けばいいのになって思ってた。


 だけど、時間は残酷で。誰の上にも平等に変化を連れて来る。

 どれだけ変わらない事を願っても、留めようもなく、流されて。


 あの頃と変わらない音にぃの優しい笑顔に安心しながらも、あたしはちょっと後ろめたさも感じていたよ。

 だって、自分はもう、あの頃とは変わってしまったから。


 沢山の人を傷付けて、自分も傷付いて。この手はもう、汚れてしまった。

 純粋で綺麗な音にぃの傍に居られる資格なんて、もう無い。


 なんて、自分の事ばっかりで。

 この時、音にぃも同じように悩んでいたかもしれないなんて事――全く、考えもしなかったんだ。

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