第68話 闘技場の外にて

 ●○●


「逃げるぞ」

「はい」


 俺が端的に告げれば、ミッフェルは心得たりとばかりに俺の外套を手に取る。悠長に袖を通しているような暇はない。コイツには、そのまま持ってきて貰おう。

 ふと円形闘技場を見下ろせば、旦那は闇を捏ねてなにかを作ろうとしているところだったが、なにが出来あがるにしたってろくな事にはならん。これ以上ここに留まっていては、逃げ遅れちまいかねん。

 後ろ髪引かれる思いがなかったわけではないが、それでも俺はミッフェルが開いた扉から室外へと出る。


「来て良かった。お前もそうだろ?」

「はい……」


 カツカツと、せっかちな足音を響かせて歩きながら、俺は背後のミッフェルに問う。重々しい口調で頷く側近の返答に、俺も満足気に頷いた。

 まぁ、それにしたって観覧席にまで斧をぶん投げたうえ、【結界術】の障壁すらぶち抜くパワーには俺もビビったが。旦那の力を侮っていたわけではない。そんじょそこらの力自慢以上のパワーがある事も、以前の邂逅で知っていた。

 だがそれも、俺なんかからすれば、漠然と『強い』というのがわかる程度で、正直どのくらい強いのかという点を見誤っていたのだ。それは、旦那を過大に評価している自覚のある俺ですら、そうなのだ。

 こうしてセオという物差しが隣にあって初めて、旦那の――ひいては【ハリュー姉弟】の強さというものを、実寸大で理解できた。恐らく、会場中の連中が同じ気分だろう。


「ボス、シューリーのボンボンです」

「バカ、んなもんに構っている場合か。一刻も早く、この会場から抜け出すのが先決だ! 縋り付いてきたら蹴り飛ばして構わん」

「了解」


 物事にはいつだって優先順位というものが存在する。先程までなら構うだけの意義があった盆暗とのつながりも、この状況に際してはかなぐり捨てられる程度の価値しかない。あの旦那が大暴れしているような現場から、お荷物抱えて逃げ果せられるなどという楽観は、寿命を縮めるだけだ。


 幸いというべきか、俺とミッフェルは阿鼻叫喚を背後に背負いながらも、無傷で闘技場からの脱出に成功した。直後、同じように脱出を図る一般客で出入り口が塞がれ、多くの観客が脱出不能になっていたのを思えば、やはり俺の判断は間違っていなかったのだと実感した。


「ボス、もう一服どうです?」

「……貰う。お前もどうだ?」

「いただきやす……」


 十分に闘技場から距離を取った俺たちは、その全景を見上げつつ細巻シガリロに火を付けた。癖で髪を結ぼうとしたが、一連のゴタゴタで解くのも忘れていたと苦笑する。


「あー……。美味うめぇ……」

「ですね……。生を実感できます……」

「命あっての物種だぁな……」


 二人で煙草を吹かしながら、染み染みと語り合う。


「ボスが、殊更にショーン・ハリューを恐れる理由を実感しました。あれはもう一種の災害です。なんであれ、手を出す方が間違いです」

「だろう? 嵐を御そうなんざ、愚者の思考よ。なまじ人の形をしてるから、皆そこを誤解すんだ」

「はい……。セオとまともな戦闘にならないのもむべなるかな。人と人との尋常な闘いになんて、端から望むべくもなかったんですね……」

「ハハ……。違ぇねぇ。闘技場好きのお前さんからしたら、物足りねぇステージだったかも知れねえがな」

「闘技場の戦闘としてはそうですが、先にも述べた通り、ボスの側近としては見れて良かったですよ。ショーン・ハリュー、そしてグラ・ハリューのヤバさってのを実感できましたから」

「だなぁ……」


 俺はまだまだ寒さの残る、春の夜の空に向かって紫煙を吐き出しつつ、実感の篭った同意を口にする。もう白くならなくなった息は、煙草の煙だけを残して夜の闇に溶けていく。

 ショーン・ハリューがとんでもないのは、既に俺たちにとっては共通認識だ。そしてそれは、同時にグラ・ハリューという存在の凄味を際立たせる。


「【死神姉弟】かぁ……。言い得て妙だわなぁ……」


 アレは単なる箔や示威などでなく、周囲に『障るな危険』だと知らせる為の異名なのだ。みだりに触れれば、特大級の災いが降りかかる。まさしく異教の神々のような存在だ。

 彼らの異名の由来を、実感させられた気分だ……。


「うん? 呼んだ?」

「旦那ッ!?」

「……ッ!?」


 俺とミッフェルは慌てて細巻を捨て、足で踏み消す。ざわざわと騒がしい雑踏の中から聞こえてきた声の方を見れば、まるで通りがかりとでも言わんばかりの様子で、件の災害ショーン・ハリューが佇んでいた。

 俺とミッフェルは、即座に背中に定規でも入れたように直立姿勢を取る。背筋には、ぶわりと冷たい汗が噴き出し、これでもかとばかりに鳥肌が立つ。

 いまも悲鳴が木霊している闘技場から、騒動の元凶である旦那が離れている理由など、問うような真似はしない。聞くだけ野暮だし、下手に聞いてこれ以上精神に負荷をかけたくない。


「ちょうどいいや。いまからデラウェアの拠点をいくつか潰してこようと思うんだけど、案内をお願いできる?」

「は、はい。そいつぁ構わんのですが、既に動いているこっちの組織との合流は、どのくらいになりやすか?」

「んー、まぁそこは流れで? ピンチになったら手助けはするけど、そうでないなら好きにしてて構わないよ。折角大暴れできる機会なんだし、乱暴者たちの本領発揮の機会にまで、無粋な口出しをするつもりはないさ」

「きょ、恐縮です……」


 勘弁してくれ……。それはつまり、俺とミッフェルはアンタに付き合って、夜通し襲撃にお供するって事じゃあねぇか!? たった三人で!

 それで身の危険を覚えるってワケじゃねぇが、それはそれとして気苦労が絶えねえ状況は、間違いねえ……。

 見れば、ミッフェルも青い顔をしていたが、良くできたお付きであるコイツが、ここでケツ捲るなんて事ぁない。……ないよな?


「さて、じゃあお互いに一夜の祭りに興じようか。楽しくなってきたねっ!?」


 意気揚々と歩き出す少年の背を、俺とミッフェルはトボトボと付いて行く。この先でなにが起こるのか、わかっていながらも逃げる事は叶わない。

 一度手を出してしまった俺たちは、この災害が通り過ぎるのを頭を低くしてやり過ごす他に、身の安全を保つ術がないのだ。


「そうそう。一連の騒動が落ち着いたらさ、闘技場の利権って君たちで確保するんだろう? 僕らの取り分は、一割でいいからね?」

「へ、へぇ……」


 ちゃっかりしてやがる……。こういうところはホント、ハリュー姉弟の弟の方って感じだ。

 いやまぁ、こんなデッカい利権を宙ぶらりんにしておくなんて事ぁあり得ない。である以上、俺たちで確保するってのも間違いないんだが……。


「一年に一、二度なら闘技場で見世物になってあげてもいいよ? 経営に一枚噛むなら、こっちの利益にもなるしね」

「それは……」


 下手をすれば、今夜の騒動を知る観客がパニックを起こしかねん。いやまぁ、人を集めるってぇなら悪くはねぇんだが……、運営こっちからしてもなにが起こるか、恐ろしくて頼めねぇっての。


「セオさんとの再戦を組んでもいいよ。そのときは真面目にやるから」

「やめてやってくれ!」


 いくらなんでも、セオが可哀想だ……。ただでさえ、今頃プライドボロボロだろうに……。

 なんにしたって、いまはまだ『依頼書を見て魔石を数える』ような話でしかない。とりあえず、いまは眼前の問題を片付け、敵方の裏組織を根絶やしにしていかねぇと……。


 はぁ……。前途多難ってなぁ、こういう状況を言うんだろうなぁ……。


 ●○●


 なお、その夜、港湾都市ウェルタンの裏組織の多くが壊滅した。死傷者の数は正確には計れず、また公的にはなんらの騒動の記録も残されていない。

 ただ、その所業を目の当たりにした観客を中心に【蜃気楼の夜ファタ・モルガーナ事件】として、ハリュー姉弟の名が大々的に畏怖されるきっかけとなった。

 船乗りも多いウェルタンにおいて【魔女の霧ファタ・モルガーナ】というのは、最大限の畏怖と忌諱が込められた呼び名であった。また蜃気楼という異名には、かつてはるか東方で確認されたという、シンという幻術を操る怪物の存在も加味されていたという。



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