第60話 とある村の教会にて

 ●○●


「あ゛ぁあ゛あ゛ああぁあ!!?」

「うむ。よろしい。実によろしい咆哮だ。まさしく、の発露と評していい」


 私が地下のワイン蔵を開いた途端、野太い男の悲鳴とシュガー氏の楽し気な声が聞こえてくる。ひんやりとした地下室を歩き、いくつかの棚を過ぎたところで、私の目に飛び込んできたのは、鎖に繋がれた一人の男と、その目前でカンバスに向かうシュガー氏だった。


「お待たせいたしました、トゥーントーン聖騎士殿」

「司祭殿。少し待っていただけるか? もう少しでこの者の命の分は描けるはずだ」

「無論です」


 シュガー氏の言葉に従い、私は彼の傍らで佇む。カンバスに描かれているのは、この世にある有形の何物をも表さない、ともすればただ無軌道にカンバスに絵の具を塗りたくっているだけのように思える絵画だ。

 それでも、それをなにかに例えるならば、極彩色の花の蕾か。一枚一枚の花弁が、いままさに開花せんとする様のような。あるいは、燃え上がらんとする炎の塊だろうか。

 なんにせよ、やはりその一筆一筆から発露する生命力が、それがこの世に存在する安っぽいである事を否定する。これこそがシュガー氏が見ている命そのものの形であると言われても、私は信じてしまうだろう。無論、そのような陳腐な表現を、彼がするとも思えないが。


「…………」


 それからも、たっぷり三〇分以上カンバスと絶叫する男を何度も見比べていたシュガー氏は、おもむろに足元の鞄からいくつかの小瓶を取り出し、その粉末を乳鉢へと落とす。中身は、岩石を砕いたものだ。それを膠で溶くと、絵の具になるのだ。

 出来上がったのは、あまり綺麗とは言い難い黄土色であった。それを一掬い、人差し指に取ったシュガー氏は、カンバスにその絵の具を塗りたくる。力強く、それでいて繊細に、他の花弁を完全に塗り潰す事のないように。

 それはただ一枚の花弁が足されただけでも、火の粉の一粒が増えただけでもない。一人の命の有り様が、一人の人間の人生が、その一筆に集約されているのだ。綺麗とはとても呼べないその一つの線が、あの鎖に繋がれた男の一つの人生だったのだ。

 ああ、なんと美しい……。

 この花弁一枚一枚が、儚い火の粉の一粒一粒が、人間一人の命そのものを表しているのだ。


「ふぅ……。待たせたね。それでは、上に戻ろうか」

「はい」


 たった一筆描き終えたシュガー氏は、大仕事を終えたかのようにそう言うと、私に笑いかけながらそう提案してきた。勿論私に否やはない。

 それが大仕事であったのも、また事実だ。たった一筆といえど、この美しい絵画にさらに筆を落とす行為なのだ。その心理的圧迫はどれ程たるや……。私などは、考えるだけで心臓が潰れる思いだ。

 まして、その一筆でさらにこの絵画を素晴らしいものにする事など、常人には不可能である。彼は彼にしか出来ぬ事を――命を描くという難事を、いままさに成し遂げたのだ。

 絶叫をあげる男と、命の絵画を残して私たちは地上に続く階段を登る。ワイン蔵の扉を閉め、石造りの階段を半ばまで登れば、男の絶叫はまったく聞こえなくなる。そうして日の差す地上の教会へとでると、真っ先に目に入ってくるのは港湾都市ウェルタンの街並みを描いた絵画だ。


「やはり素晴らしい……。人々の活力がこれでもかとばかりに表現されており、いまにも雑踏の喧騒が聞こえてきそうな程です。これ程までに写実的でありながら叙情的な絵画は、私の知る限り他にはありません」

「ありがとうございます。そう言ってもらえるのは、画家冥利に尽きますね。唯一無二を生み出す事。それこそが、私のような者の本懐ですから」

「ええ。ええ。このような命そのものを描けるような画才は、空前絶後のものでしょう。不世出の巨匠と同時代に生きていると思うと、それだけで神に感謝したくなります」

「そこまで激賞されると、少々面映ゆいですがね……」


 しばらくウェルタンの雑踏を描いた絵画の前で雑談を交わした我々は、ややってから思い出したようにその足を教会の奥へと向ける。話題の向きが変わってからすぐにシュガー氏は礼を述べてきた。


「本当に、助かりました。こちらを使わせてもらえなければ、人里離れた場所に小屋でも建ててを行わなければならないところでしたよ。そうなると、本来の任務に支障を来してしまう」

「いえいえ。旅人に一夜の仮宿を提供するのは、教会の役割ですから。同じ神聖教のともがらに軒を貸す程度は当然の事ですよ。なにより私は、あなたの作品の愛好家ファンでもありますから。お役に立てるのならば、これに勝る喜びはございません」

「恐縮です」


 教会内の奥まった場所にある厨房へと彼を通すと、私は軽食とお茶の用意を始めた。とても客の応対に向いた場所とはいえないが、シュガー氏にそれを気にする素振りはない。

 そもそも、ゲラッシ伯爵領のスパイス街道沿道の村落の教会に、ご大層な応接室などあるわけもないのだが。

 やがて、湯気の立つカップとサンドイッチの乗った皿を間に挟んで、厨房の粗末な机につく私とシュガー氏。


「そういえば、地下の男はどこの誰なのです? 行方不明者の捜索などあると、私としてもお力添えできる限界があると思うのですが……」

「ああ、その心配は無用です。あれは、港湾都市ウェルタンの裏稼業の男です。【ジジ三兄弟】でしたか……。その長兄ですよ」

「なるほど。ならばまぁ、伯爵家の家臣らが捜査に力を入れる事態は、まずありませんな」

「なにしろ、当人たちが役人に見付からぬよう気を払って、ここまで潜んできたのですからね。おまけに、先の襲撃においては町の住人らに撃退されている。下手をすれば、この伯爵領内で彼らの存在に気付いている者は皆無かも知れません」

「なるほど。いなくなったと認識されない者を、捜索しようとする者がおるはずもありませんな。実に良いです」


 私がコクコクと頷きながら応じると、シュガー氏はカップに唇を付けてから楽しそうに話しだす。


「ええ。彼らの命の輝きは、あの絵に加えるにたるものでしたから」

「『彼ら』『三兄弟』という事は、他に二人おるのでしょう?」

「そうです。そちらの捕獲に関しても……」

「ええ。わかっております」


 シュガー氏の言葉を遮り、委細承知とばかりに大仰に頷いてみせる。まぁ、実際大した手間ではない。他の旅人たちにするのと同様に振る舞う食事に、痺れ薬を混ぜるだけなのだから。

 シュガー氏のような相手には油断を見せないらしいが、このような鄙びた教会の司祭など警戒には値しないらしい。


「その二人も、花弁に加えるのですか? 実に楽しみですね」

「花弁? ああ、司祭殿はアレを花に見立てましたか」

「いえ……。便宜上、己の中でそう表しておるだけです。正直、あれをなにかに例える事自体、あまり気は進まぬのですが……」

「あはは。どう捉えられても良いのです。受け取り手が受けた印象が、そのまま絵としての在り方なのです。私の表現したい内容が伝わらなければ、それは即ち私自身の力不足。受け手の落ち度などではないのですから」

「そうですか。ですがご安心を。シュ――トゥーントーン聖騎士殿の表現したい事に関しては、過たず受け取っておる自負があります」


 私が力強くそう言うと、シュガー氏は破顔するように笑いかけてくる。


「シュガーで構いませんよ、ピサロ殿。あまり堅苦しいのは、私も好きません。同好の士が相手ともなれば、なおさらです」

「勿体ない事です。では、シュガー殿と……。私は、あなたの描く『命』に魅せられた一人です」

「こちらこそ、有難い事ですね。フフ……。『命』。私の作品に通底するテーマであり、しかして未だ十全に表現できない代物。いえ、それは恐らく、生涯叶わぬ望みなのでしょうな……」


 弱々しいシュガー氏の言葉に、私は慰めの言葉を紡げない。ここでお為ごかしを述べても、芸術家たる彼の矜持を傷付けるだけだ。

 それは、『神を完璧に描く』と豪語するのと大差ない、人智をはるか超えた偉業なのだから。しかしそれでも、彼はそのテーマに挑み続け、多くの作品を世に残している。

 たとえそれが、彼にとっての失敗作だったとしても、私と同じく、彼の作品を愛好する者は多い。特に、先程見たような写実的で躍動感にあふれる作品が主流だ。私も好きだ。

 だが、そんな私でもわかる。ワイン蔵に残してきた、あの抽象画こそが彼の最高傑作になるだろう。彼がその手で摘み取ってきた命の、一つ一つが描かれたあの花こそが【命を描く芸術家】シュガー・シ・トゥーントーンの代表作になる。私はそれを確信している。


「それで、任務の首尾はどのような塩梅ですか?」


 気落ちするシュガー氏の気を逸らす意味も込めて、話題を変える。彼がどうして第二王国の西の外れ、王冠領の最南端たる、このゲラッシ伯爵領に現れたのか、私は知らない。恐らくは、本国でなにかの密命を受けての事だろう。

 そこに踏み込むような無作法はせず、私は仕事の進捗だけ問う。シュガー氏もその気遣いを察したのだろう、微苦笑を口元に湛えて答える。


「ええ、まぁ概ね好調です。彼らウェルタンの胡乱者の襲撃によって、【死神姉弟】の張った防衛体制はほとんど判明しました。無闇にあの町に入って、ハリュー邸に攻撃を仕掛けていれば、我々とて危うかったでしょう。ですが、その手管を把握したいま、我々に敗北はありません。ハリュー家という、死神どもの住処は跡形もなく消え失せるでしょう」



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