第76話 死生観

「人を殺す事に対する認識か?」


 ティコティコさんは大きく首を傾げて斜め上を見てから、タンブラーに唇を付ける。きっと濃厚な酒の香りが鼻腔を犯しているだろうが、気にした風もなくカランと音をたててグラスを離すと、あっけらかんと言い捨てた。


「悪ぃ。正直なんも考えてねぇわ」


 その答えに、僕はガクッと肩を落とす。これまで【雷神の力帯メギンギョルド】の人たちに同じ質問を投げて得られた答えは、その内容に差異はあれど参考になるものだった。少なくとも、僕という化け物モドキが人間のフリをするうえでは。だがこれでは……。

 そう思った僕に、しかしティコティコさんが逆に訊ねる。


「その質問はアレか? 吾がウサギだから、北大陸の只人を殺す事についてってぇ話かよ?」

「あ。いえいえ、そういう類の質問ではないです」


 僕は慌てて手を振りつつ弁明する。そうか。この人の場合、人種に関する問題もこの質問に含まれてくるのか。面倒臭いな。


「そうではなく――、そうですね。では、ティコティコさんは同族――すなわち、兎人族を殺めた経験はありますか?」

「あるぞ。というか、ウサギの雌が雄を巡って殺し合うなんざ、割と日常茶飯事だ。吾も、情夫を奪いにきた雌を返り討ちにした経験は何度かある。他人の雄を欲しいと思った事はねぇが。まぁ、最近はウチの国でも伴侶を奪うのは違法で、あくまでも情夫の取り合いに限って情状酌量の余地が認められる、って事になってるぞ」


 うわぁ……。いやまぁ、色恋沙汰が刃傷沙汰に発展するのは、別に人間の世間でもあり得る話ではあるが……。そう考えると、その点に関してある程度法整備がされているウサギたちの方が、統治的にはまだマシなのか?

……。話を戻そう。


「では、同族を殺す事についてお訊ねします。人が人を殺す事、動物でもモンスターでもなく、ある程度の知性を有し、地上において共生する同族を殺す行為について、なにを考えているのかを教えてください。というワードの解釈、言及範囲は、ティコティコさんの裁量で行って構いません」

「ふむ。なるほどなぁ……」


 そう言って再びグラスに唇を付けて、ソファに体を横たえたまま脚を組み替えるティコティコさん。短いスカートから覗く太腿が実に艶めかしいが、あまりそちらに視線を運ぶのは失礼なので、焦点をぼかして全身を眺める。


「悪ぃ。やっぱ、特になんも考えてねぇわ!」

「えぇ……」


 ここまで引っ張って、結局それか……。まぁ、ときにそういう人もいるのだろう。殺人に対して、特に気負いも罪悪感も抱かず、朝のパンを食べるように人を殺せるという人が。

 ただ正直、これまでで一番失望が強い話だが……。


「逆に問うが、なんでんな質問を?」

「いえ、まぁ……。自分でもつまらない事に拘泥しているとは理解しているのですが、利己的な理由で人を殺める事について、正直僕は抵抗感――といいますか……、強い忌避感を覚えるんですよね……」


 人を殺す事。そして、人を食らう事。この二点において、僕のなかでの折り合いというものは、未だにつかない。ある程度納得して、己の手を血に染めてはいるものの、さりとて忌避感というものは未だに心の片隅に残っている。

 いやまぁ、そこに忌避感を感じないような人間は、それこそ眼前の美女のように、特になんの感慨も抱かずに人を殺せるようになるのだろう。そしてそれは、僕からすれば唾棄するような生き方だ。


「人を殺したくない理由なぁ……」


 ティコティコさんは物憂げに呟きつつ、まるで弄ぶような視線で僕を下から見上げてくる。ガラスの酒器に閉じ込められた琥珀の海を漂う流氷を、カランと弄びながら、彼女は真理を告げるように口を開いた。


「人が人を殺す理由で、一番真っ当なものは、自分が殺されねえ為だ」


 その断言には、僕も素直に頷けた。


「自己防衛は、たしかに正当な理由ですね」

「正当かどうかはともかく、誰にだって文句は言わせねえ理由だわな。人殺しは良くねぇと説く聖職者だって、まさかその理の為に悪人に殺されそうになっても無抵抗でいろ、なんて事ぁとても言えねえ。途端にそいつの言う事全部が、バカバカしくならぁな」

「そうですね」

「要は、直接的にしろ間接的にしろ、こっちを殺す行為に対する抵抗だな。例えば盗みや強姦、あるいは誣告や詐欺、もっと刑罰の曖昧なところまでレベルを下げると、悪評を流して商売を立ち行かない状態に追いやる事、なんかを含める場合もあるだろう。どっからどこまでを、己を守る為の行為とするかは、それこそ自己の裁量の範疇だろうさ」

「それは……」


 それは突き詰めてしまうと、結局は『自分に都合が悪いから』という理由での殺人をも許容する理屈なのではないか? いや、だからこその自己裁量か……。

 それに、良く考えたら我が家の執事であるジーガも、一度商売を潰されて、浮浪者にまで身を持ち崩しているのだ。商売に対する妨害工作が、生死に直結しないなどという牧歌的な発想は、前世のぬるま湯思考の延長だろう。この世界で生きる以上は、改めておくべきだ。

 もっとも、実際のところ地球においてだって、商売の成否が人の生き死にに直結していて、単に僕がそれを実感していなかっただけかも知れないが……。


「二番目は、恨みつらみだろうなぁ。家族、恩人、友人、知人、赤の他人の仇討ちに同情して、なんてのもこっちかな? あるいは三番目かな?」

「三番目、ですか……?」

「三番目は他人の為ってヤツだ。吾が人を殺す理由として、真っ当と認めるのはこの三つだけだ。それ以外は、どう言い繕ったってエゴになる。まぁ、エゴだから悪いだなんて思わんし、逆に突き詰めるならいま言った三つのパターンだって、エゴはエゴだろうさ」


 クツクツと皮肉気に笑ってみせ、彼女はぐいっと大きくタンブラーを傾けた。その仕草は、豪快な彼女らしいといえたかも知れないが、どうにも照れ隠しが透けて見えた。真面目な話をして、照れたらしい。

 僕としても、さっきまでの幻滅は撤回しよう。彼女にも彼女なりの死生観があり、それに則って、奪う命と奪わない命を選別しているわけだ。

 僕としては、その死生観こそが気になるのだが。なのでここは、さらに質問を重ねる。


「ティコティコさん的に、その三つの優先度はどんな順番になります?」

「優先度?」

「己の身を守る為の殺人、己の心を守る為の殺人、他者の為の殺人の、どれが一番――そうですね……、『正しい殺人』だと思いますか?」


 正直、この場合『正しい』という点は、僕の中では『マシ』と同義語である。ただ、その認識を彼女に共有しようとまでは思わない。彼女の死生観としては、きっと『正しい』という言葉は、『まったく悪くない』という意味でしかないのだろう。

 僕の問いの意図を量りかねてか、眉根を寄せてグラスに口を付けるティコティコさんが、すぐにあっけらかんとした口調で述べる。


「んなもん、上から順番だろ。一番目、二番目、三番目の順だ。正直、三番目はもう、かなり真っ当から外れてると思うがな」


 その意外な答えに、僕は思わず問いかけた。


「三番目が一番、真っ当な理由じゃないんですか? 一番目と二番目は、どうにも自分本位すぎる気がしますが……」

「んー、まぁ他人の耳障りがいいのは、三番目なんだろうさ。無辜の民の為に、強者を挫く。はぁー、ご立派ご立派! だけどよぉ、んな理由で人を殺すヤツとか胡散臭ぇだろ? 実際、オマエはどう思うよ?」

「……それが本心からの行動であり、実際に人を助ける行為であるのなら、尊いのではないでしょうか?」

「ハン!」


 ティコティコさんは、鼻白んだような顔で嘲笑して、身を起こす。お前自身、そんなお為ごかしなど、片腹痛いと思っているんだろうとでも言わんばかりの顔だ。

 彼女は残っていた琥珀の液体を一気に喉に流し込むと、空のタンブラーをタンと机に強く置く。残った氷が、静寂の書斎に大きく鳴った。


「他人の為ってなぁ、要は自分はやりたくねぇけど、仕方なく人を殺しますってこったろ? ハッ! くっせぇくっせぇ!」

「自分の為だけに人を殺す、なんて人間も、随分と胡散臭いですがね。僕としては、あまりに利己的な理由で行う殺人を、許容はできませんし、そういう人物を自分の近くには置きたくありません」


 机を挟んで睨み合うように、僕とティコティコさんは対峙した。

 己の哲学をかけての闘論ディベートのようになっているが、本来僕が彼女に教えを乞うている立場なのだ。こういうスタンスでの反論は、あまり褒められた真似ではない。とはいえ、やはり思うところがある為、いまから撤回するつもりもない。

 対峙するティコティコさんは、ニヤリとまるで肉食獣のような笑みを湛えてから、新しい酒を要求した。ウサギなのに……。



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