第66話 ミンカタ・アル=ジャウザー
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「アハ――アハハっ――アッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハッハ!! ア――――ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハァ!!」
全身の毛が総毛立つ。体表に浮かぶ理を明滅させて、哄笑をあげながら地を蹴る。闘争本能――獣の本性のままに、吾は嗤う。
一歩一歩、地面を爆ぜさせて、吾は己の脚力の許す限り全速力で疾駆する。体中に食い付いている魚どもが、次々と脱落していく。ここが地上であれば、こんな出力での健脚術は使えない。空気抵抗で、自分や装備にダメージが入るからだ。
いまは魚どもが身代わりになって、ダメージを受けている。さらにこの空間では、本来あるべき空気抵抗がなく、水の抵抗は一定以上の動きに差し障る事がなく、空気抵抗よりもダメージが低い。
――故に吾は、この場に限っては地上でできない全力疾走が可能だった。
ここまで全力で走れるのなんて、いったいいつ振りの事だろうか。実に、実に実に、気分がいいッ!!
勿論、実際に出ている速度は地上で出せる速度に及ばない。だからこそ、魚も根こそぎ消えたりはせず、まだ幾匹かはなんとか吾に食らい付いている。ただそれも、もう中型の大口魚だけだ。
「この……ッ!!」
グラの焦燥の声が、轟々と煩い風に混じって聞こえてきた。そちらに目を向ければ、高速で流れているはずの視界において、やけにゆっくりとグラが動く姿が写った。
「【
グラの右手から、大量の水となにか大きな生き物の尾が放たれ、吾に向かってくる。だが――
「ハッハァ!! 遅ぇ遅ぇ遅ぇ!! そんなんじゃ周回遅れだぜグラぁ!?」
大量の水と巨大な生物を召喚した意図は不明ながら、これだけ距離があればどんな隠し玉があっても回避余裕だ。このままぶっちぎってやるぜ!
――そんな思いで走っていたら、なにか薄い膜のようなものにぶつかり、それを突っ切るような感覚があった。と同時に、本来あるべき空気の抵抗と匂いを感じ、薄暗かった空間が昼の光を取り戻す。
なんとか最後まで吾の右手に食らい付いていた大口魚も、それと同時にボロボロと崩れていく。見れば、吾に向けて放たれていたはずの水や海獣も、空間とともにその姿を薄れさせ、塵と虚ろに戻っていく。
「……ハァ……ッ!!」
絶好の勝機に吾は満面の笑みを浮かべて、即座に方向転換する。距離を取っていたグラへ、一歩、また一歩。
「――ッ!」
グラも既に、吾との直接対決は避けられないと判断したのか、これまで左手のみで構えていた刀を両手で把持する。それは即ち、ここまでの魔術戦の放棄であり、吾の有利な戦場に戻った事の証左でもある。要は、一手先んじたのである。
この状況での一手というのは、とても大きなアドだ。
「いくぜ、グラぁ!!」
「騒が――しいっ!!」
火花の散る鍔迫り合い。受け太刀からの、滑らかな袈裟斬り。それを躱してからの斬り上げ――を躱す事の離脱で、追いかけ、二、三合で決定打。その後は、詰みまでの予定調和といったところだ。
当然、優位は吾。
「さァ! さぁさぁどうするッ!?」
「――ッ」
吾なんぞよりもよっぽど頭のいいコイツにも、先の予測はできているだろう。だがしかし、それを回避するための手管がない。いや、あったところで、この攻防の合間に駆使する事は叶わないといった方が正しいか。
片手間に魔力の理を刻める程、この攻防は生易しいものではない。勿論、マジックアイテムの類があるのなら話は別だが、それだって正しく使う為には相応の用意が必要になる。
……目眩ましとかだと、仕切り直される惧れはあるが……。
「――これで、決まりだ!」
「く――【
「ぅおっ!?」
グラの詠唱と同時に、地面にあった吾の影から大きな口が現れる。平面な地面を、まるで水面のように割って現れた黒い吻と、羅列する白い歯。目の周りには、白い隈取があるのが見て取れた。
実に厄介な手だ。だがやはり、それも苦し紛れの一手でしかない。結局これでは、距離を取る事も、仕切り直す事もできはしない。詰みまでの手数を増やすだけの、言ってしまえば悪足掻きだ。
「だが、いいぜぇ!! 諦めて投了するようなタマナシは大っ嫌いなんだッ!! 最後まで食い下がり、食らい付く気概もねえような輩じゃなくて、吾は嬉しいッ!!」
「このッ!!」
増えた手数を消費しつつ、されど状況の好転を図れない事に歯噛みするグラ。だがその目は、なおもこちらの隙を窺っている。もしも吾が、一手でも手を差し間違えば、即座に反撃に移るだろう。
だが、だからこそ吾も細心の注意をもって、されど大胆に、闘争本能をぶつけるように
「――ハァッ!」
裂帛の気合と喜色の混じる呼気。勝利を確信し、勝敗を決定付ける一刀を振り下ろさんと腕を振る。
「――ッ!!」
いよいよ進退窮まり、悔し気に息を呑む彼女。世界があまりにも緩慢に流れ、その表情の微細な動きすら読み取れてしまうのは、この最良の
ああ、なんて惜しい……ッ。もしもこいつが
「【
「――そこまでッ!!」
吾とグラの間に立ったセイブンが、フリッサを防ぐように吾の剣先に腕を翳す。その背に庇われたグラは、非常に口惜しそうな顔付きだ。吾も、こんなヤツの腕に振り下ろして、せっかく特注した剣を折りたくはない。
セイブンが割り込む前に聞こえた声の発生源を確認してみれば、そこにはこちらに手の平を向けているショーンがおり、彼の周りには三頭の海獣――背鰭と胸鰭が刃になっているもの、頭が獅子のような猛獣、胴体は鱗を持つ魚で水を纏うもの、虫のような翅を生やして彼の頭上に浮くもの――が、吾の一挙手一投足を窺っていた。
もしもここで、一歩でも吾がグラに近付いたらこの三頭を嗾けるとでもいわんばかりの険しい表情だ。あるいは、さらなる奥の手があるのか。
だが、同時に三頭はいまにも消えてしまいそうな程に、パジッパジッと明滅を繰り返し、ショーンも無理をしているのか額に玉の汗を浮かべ、鼻血を垂らしていた。
「……いいねぇ……」
こういうタイミングで無理ができる男は、いい雄だ。このまま、こいつと刃を交える為に稚気を働かせようとする衝動を抑えるのに、吾は理性を総動員する。流石に、ここでショーンに襲い掛かれば、セイブンもシッケスも含めて大立ち回りを強いられる。
流石にそれは、闘いは闘いでも風情に欠ける。セイブンが加わり、後方支援にハリュー姉弟の二人が控えるわけだ。シッケスも、セイブンと組んだ前衛兼遊撃という立場では、非常に厄介なファクターとなり得る。
なにより、幻術師の後方支援能力の厄介さは、いままさに痛感したところだ。ハッキリ言って、グラとセイブンの二人だけでも手に余る。そこにさらに二人加わるわけで、有体に言って負け戦以外のなにものでもねぇ。
端から、ただ取り押さえられるだけの予定調和など、戦闘とはとても呼べない。
吾は仕方なく、剣を下げて肩をすくめる。それが、この甘美な時間を終わらせる合図であった。最後に、静電気が爆ぜるような音をたてて、三頭の海獣が消えると同時に、訓練場は歓声に包まれた。
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