第64話 深潭の魚

 ●○●


 思えば、グラがこの薄暗い空間にあって、わざわざ炎の翼を使い続けたとのが、そもそもおかしかったのだ。目で見ずとも、自分の居場所を敵に知らせてしまう悪手でしかない。

 空中を移動できるというアドバンテージはあるものの、あの黒い翅を使えば地面を移動する事自体は、スムーズな移動は可能なようだ。もしかすれば、炎を出さずとも飛ぶ手段すら、別にあったかも知れないのだ。

――だが、あえてグラは炎の翼を使い続けた。

 この疑似水中空間においては、近接戦闘そのものに大きな支障デバフが生じる。であらばこそ、本来術師であるグラは、この空間に吾を引きずり込んだ時点で、距離を取りつつ遠距離攻撃主体に切り替えるべきだった。

 そうしなかった理由は、恐らくだ。


 ●○●


 全身に炎を纏った、真っ赤なトゲトゲとした魚。それが、振り向いた吾の懐に飛び込んでくる。思わず斬り捨てるが、直後にこれは悪手だったと臍を噛む。


「【土雷つちいかづち】」


――ぞわり、と背中の産毛が逆立った。咄嗟に空いていた左手で後頭部を庇い、背に【ガイ】の剛身術――【剛筋ゴウキン】によってガードを試みる。直後、斬撃が背中を斜めに斬り裂いた。

 幸い、致命傷には程遠く、服と皮膚、そして浅く肉を裂いただけで、骨にも筋肉にも然程のダメージはない。これについては、剛身術のタイミングが少しでもズレていたらと思うとゾッとする。


「こなくそッ!!」

「ぐ――っ!?」


 なんとか前方に身を逃しつつ、後ろ足でグラに蹴りを放つ。彼女も脛でこちらの蹴りを受けたものの、お互いの体重差は如何ともし難い。吾が数歩移動するにとどまったのに対し、グラは数メートルは飛ばされた。

 いまの一撃で決めるつもりだったのだろう、グラは忌々しそうな目でこちらを睨んでいた。


「へっ……、流石にヒヤッとしたぜ。両手持ちだったら、ちょっとヤバかったかもな」


 吾は強がりで笑ってみせるが、正直本当にいまのはヤバかった。下手すりゃ致命傷を貰っていたところだ。背の傷は浅傷あさでとはいえ、放置していては失血が体力を奪う。自然に血が止まる頃には、決着もついているだろう。

 ところで、寸止めって話はどこいった? 別にいいけどよ。勿論、生命力の理で回復すれば、然程時間もかからずに全快するだろうが、眼前のこいつが悠長にそれを待ってくれるわけもない。

 吾はもはやただの布切れと化した上衣を引き千切って捨てると、上半身裸のままに剣を構え直す。対してグラは、気を取り直すように刀を構えると、またも吾に理を刻む右手を向けた。


「【幻魚ゲンゲ】――【火魚カナガシラ】」


 透き通るガラスの声音が響いた途端、またも炎の光が吾の右隣に現れる。だが、それは既に種の割れた手妻だろう?

 咄嗟に視線を切り、火魚ひざかなの姿を確認しつつ距離を取った吾だったが――直後、危機感の警鐘を受けて思い切り空中に身を躍らせる。果たして、その判断は間違いではなかった。

 上下さかさまになった視界で、先程まで吾がいた場所を確認すれば、無数の黒い魚が群れを成して突っ込むところだった。なるほど、先程は黒魚の代わりをグラが務めただけで、本来はこの火魚と黒魚の群れこそが、この薄暗い空間における必殺のコンビネーションだったわけだ。

 薄暗い場所だからこそ、唐突に現れる炎の明かりは人目を引く。しかしだからこそ、その反対側に現れた黒い魚影には気付きにくい。生命力の理でガードし続けられる時間にも限度はあるのだ。アレを無防備に受けていたらと思うと、正直ゾッとする。


「チッ! 【ボラ】まで避けますか。悪運の強い……ッ!」


 忌々し気な口調で迫ってくるグラの刀を、吾は空中で受ける。本来、鍔迫り合いであれば、体が大きく体重も重い吾の土俵だが、いまは生憎と木の葉のように宙を舞う身。推進力のない吾と翼を有するグラとでは、どちらが有利かは問うまでもない。


「――ぐぅ!?」


 当然のように地面に蹴り落とされる吾に向けて、グラは黒魚の群れを操る。見れば、火魚の方も悠々と空中を泳いでいやがる。


「幻じゃねえのかよ。用がすんだら消えやがれ!」

「いまだ、あなたを倒すという用はすんでいないでしょう?」


 黒魚の群れを、まるで使い魔のように使役したグラが、悠然と言い捨てる。その姿は、この領域における絶対的優位を示していた。

 先程までの、近接主体の状況とはまるで立場が逆だ。もしかしたらグラも、端から魔術師としての戦闘は、自分に有利すぎるから当初は肉弾戦闘を選んだのかも知れない。

 だとすれば――舐められたもんだなァ!?


「できれば【オルキヌスオルカ】は温存して、【幻魚ゲンゲ】だけで押し切りたいところですね。少々出力不足でしょうか……?」

「んだぁ? 温存とか、随分と侮ってくれるじゃねえか。その驕りを踏み躙って、絶対ぇ土ペロさせてやるからな!」

「そうですか【幻魚ゲンゲ】――【大口魚タラ】」


 グラは気の抜けたような返事の直後、新たな理を刻んだ右手をこちらに向けた。彼女の周囲を回遊していた黒魚が、いっせいに吾へと向かって殺到してくると同時に、新たに別種の魚の群れもそこに混じる。

 吾は脾肉にこれでもかと力を込め、吸った息を全身に行き渡らせる。ドックン、と一際強く脈打った心臓の音を耳にした直後――蹴り出した背後の地面が爆ぜる。

 両腕で顔をガードする以外は、真正面から魚群へと突っ込んだ吾。これには、流石にグラも意表を突かれたようで、その端正な顔に驚愕を浮かべていた。これには、思わず口元がにやける。

 数が多い代わりに一体一体は雑魚だったようで、まるで猪に撥ね飛ばされる小虫のように黒魚を消し飛ばしながら、吾は突進する。黒魚もこちらに攻撃を仕掛けようとしてくるが、剛身術で防御力を高めた吾の体に対しては、そんなものは車輪に立ち向かう蟷螂でしかない。

 バチバチと、当たる端から弾けていく黒魚。一体一体からは、ダメージを受ける事はない。一網打尽に数を減らせているのは、ある意味幸いといえる。

 だが、一体一体が弾ける際に、着実にこちらの速度を殺していくのは、如何ともし難い。会心のスタートダッシュの勢いを削がれていくのは、実に忌々しい事だ。

 数が多く視界を埋め尽くす黒魚にばかり気を取られていた吾は、グラが新たに作り出した魚群に対する警戒心がおざなりになっていた。ともすれば、黒魚と一緒に倒しているだろうと楽観していた。

 そんな吾の耳にグラの冷たい声音が届いたとき、背筋に冷たい汗が流れた。


「【大口魚バス】」


 十分に吾の勢いを殺し、いまが機と思ったのだろう。瞬間、周囲にいたなんの変哲もないまだら模様の魚が寄り集まり、数倍の大きさの口の大きな魚へと変貌する。

 子供なら丸吞みできそうな巨大な口で、こちらに食らい付いてくる大口魚おおぐちざかなに、吾はとうとう足を止めての対処を強いられた。四方八方から迫ってくる大口魚。だが、決定的な一撃を受けそうになると、元の小さな斑魚へと戻って散っていく。実に厄介だ。

 討ち漏らした黒魚も、吾に食い付こうとしてきて鬱陶しいが、手応えのねえ大口魚もこれはこれで対処が面倒だ。特に、大口魚の状態の攻撃は、流石に無視し得ない。数匹に取り付かれたら、身動きすら儘ならないだろうし、下手すりゃ体を噛み千切られる惧れもある。


「【幻魚ゲンゲ】――【啄長魚ダツ】」

「おわっ!?」


 周囲の魚にばかり気を取られていたら、距離を取ったグラが向けた右手から、細長い、鋭い頭の魚が突っ込んできて地面に刺さった。その衝撃で自壊した為、その鋭吻魚えいふんぎょが二の太刀、三の太刀を放ってくる事はないが、なかなかの速度と貫通力である。巻き添えになった黒魚や斑魚が消し飛び、ぽっかりとその軌道が拓けているのが、鋭吻魚の威力を物語っていた。

 その穴から覗くグラの居場所は、実に術者らしい位置取りであった。


「よそ見は感心しませんね。あなたは文字通り、我らの術中だというのに――【皮肉大口魚サーカスティックフリンジヘッド】」

「おわぁッ!?」


 周囲に散っていた斑魚や大口魚がすべて一つに集まり、吾すら一呑みにできそうな程に――まるで凧のように口を開いた魚が、黒魚ごと――地面ごと――吾を丸呑みにした。





※※※ サーカスティックフリンジヘッドの漢字名『皮肉大口魚』については当て字です。間違って覚えしまっても、当方は一切の責任を負いませんし、負えません。また、『大口魚』がバスを意味するのは福建省の客家語はっかごで、基本は日本でも中国でも、大口魚は鱈の事らしいです。 ※※※

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