第63話 深淵のウサギ

 一秒が数分にも思えるような感覚のなか、ようやく視界を取り戻した視界で、まずするべきはグラの位置確認だ。案の定、先程までいた場所から大きく横に飛び退ったような場所に、グラの姿があった。

 視界を失ってなお、吾が記 憶を頼りに攻撃を続行する可能性もあった為、それは当然の行動だった。彼女はまるで世界に線を引くように、まっすぐ右手を横に振る。同時に、キンと涼やかな声が響く。


「【影塵術・深潭】」


 変化は劇的だった。先程までの、下級の幻術などとは比べ物にもならない、圧倒的な心理的圧迫感。すべての感覚を塗りつぶすような、圧倒的情報の奔流。

 それは、あの日ショーンが見せた幻術にも近しい、情報という精神負荷をかける事で、身動きを封じるようなやり口だ。

 だが、そうとわかっているいま、漫然とこの幻術を受けるわけがない。生命力の理――強心術の応用【克己コッキ】を用いる。既存の多くの幻術に対して、抜群の効果を有する強心術だが、他の強心術に比べて消耗度合いが激しい為に濫用できない。ただ、だからこそここで切るべき手札だと、吾は判断した。


「――もがッ!?」


 だからこそ、次の瞬間吾は眼前の状況に困惑した。なぜなら吾はいまだに、幻術の世界に囚われていたのだから。最初は、認識の混乱から息すらできないと錯覚した程だ。

 なんとも薄暗い、されどある程度の視界は確保された世界。全身にまとわりつく、動きを阻害する感覚。重さではないが、なんともやりづらい――この感覚は、非常に覚えのあるものだ。

 視界の端に明かりが灯り、無意識にそちらに視線を向ける。そこには、炎の翼を背にしたグラの姿があった。彼女は、そのまま空中へと踊り出ると、勢い良く飛翔しながら攻撃を仕掛けてきた。 

 まるで、先程の自分の言葉を否定するかの如き真似。だが、その理由がわからぬわけではない。彼女もまた、この全身を苛む抵抗感を味わっているのだ。


「――ぐぉ!?」


 そして吾も、先程までとは打って変わった精彩を欠く動きで、グラの刀を避ける。それは、なんというか、自分でもわかっているが、不恰好で覚束ない動きであった。

――どうする!? どうする!? 思考は絶えず巡っているものの、一向にこの状況で有効そうな答えを見出せない。

克己コッキ】を使ってなおこれだ。先の【カツ】と【カク】のように選択肢を間違えた? たしかに【克己コッキ】は幅広い幻術に対抗できる手だが、あのハリュー姉弟相手に行使するにはやや短絡が過ぎた。

 吾が胎に種を宿してもいいと思える幻術師オスが、こんな安直な対抗策を無効化する手を、打っていないわけがないのだ。

――だがこれは、なにがどう作用して、吾を惑わしている術だ? その辺りがわからなければ、正解にまったく見当が付かない。そうなるとこちらは、網羅的な対処が求められる。そんな余裕はない。生命力の総量的にも、時間的にも。

 またも上空から襲いかかってくるグラ。白刃の一閃を、吾はフリッサを合わせて防ぐ。彼女の接近は、炎の翼の明かりで察知可能であり、この薄暗い世界においては悪手だった。

 全身を襲う――という程、積極的な感覚ではない――ぬるっと纏わりつく、抵抗感。強くはないからこそ、つま先から髪の一本一本まで、満遍なく纏わりつく感覚。

 これは――だ。

 まるで水の中に重石でも担いで潜ったのち、重石の重さだけを無くしたような感覚とでも言えばいいのだろうか? 無闇に体が浮き上がる事もないし、体が重くなったような感覚もない。というか、どちらかというと、体は軽くなったように錯覚しているが、これもこの幻の浮力が原因だろう。

 だが、動きの一つ一つが腹が立つ程に遅い。身体中に纏わりつくような、水の抵抗感こそが、この幻術の一番厄介なところだ。

 ただ、本当に水中に没した程の抵抗感はない。そこは流石に【克己コッキ】で多少軽減されたのだろう。そう思いたい。


「この【影塵術】は――」


 そこで、空中に浮遊したままのグラが、ポツリポツリと言葉をこぼす。


「――徹頭徹尾、あの子が心血を注いで作り上げたものです。私の手助けをも断り、試行錯誤をし続けた、現時点での到達点です。私の弟の素晴らしさを全身余さず味わって、敗北を噛み締めなさい」


 言うが早いか、三度躍りかかってくる。全身を苛む水の抵抗感は強いものの、流石に頭上からの攻撃にも慣れてきたところだ。

 意気揚々と姉バカを発揮しているとこ悪いが、今度は逆撃を見舞ってやるぜ!

 グラの刀と吾のフリッサが打ち合され、火花が散ると同時に地を蹴る。体が必要以上に軽くなった感覚のせいで、イマイチ目測が定まらねえが、それでも体ごと突っ込むくらいなら問題ない。


「天使気取りで見下してんじゃねえよ!! 抱き着いてでも、地面に引きずり落ちるまで離さねぇからなァ♡」

「勿論、我が弟はその程度の行動もお見通しです――【幻翅ゲンシ】」


 背から、もう一対の黒い翅を生やしたグラは、飛びかかった吾をその翅が突き刺しにかかる。吾は咄嗟に右の掌打と蹴り足を駆使して、せっかく近付いた距離を離す。

 だが、グラからすれば攻めどきを逃す理由はない。すぐさま距離を詰めると、左手だけで把持した刀を駆使しつつ、魔術師らしい攻めを続ける。


「【石陰子カセ】【剃陰カゲソリ】【野雷のづち】」

「くぉ――!? ふっ――、はっ!!」


 吾はそれらの攻撃に、間一髪で回避と防御に成功する。こればかりは、流石に強がりを言う余地もなく、いっぱいいっぱいの回避であった。

 正直なところいかにグラといえど、あくまで『近接もできる魔術師』という認識で、前衛のいない決闘のようなこの立ち会いは、吾に有利すぎると思っていた。だからこそ、先程は挑発紛いの事を言って、相手の本領を発揮するように発破をかけたのだ。

 だが、杖なしでここまで素早く、正確に理を刻みながら近接でも戦う術師というのは、正直想定外だった。勿論、魔術師としてのグラ・ハリューを舐めていたわけではないが。

 グラは、先程の翅をまるで尻尾か別の脚のように地面に突き刺して、四本足で地面を疾駆してくる。やはり彼女にも水の抵抗はあるようだが、地を移動する場合の安定性は吾とは段違いだ。おまけに、空中まで飛び回るのだ。


「【黒雷くろいかづち】【影朧カゲロウ】【大雷おおいかづち】」

「くっそ――がァ!!」


 吾の反撃を受けたグラが影のように溶けると、すぐに別の場所から首元を狙って白刃が迫る。それを、皮一枚で回避してから掌打を放つ。

 威力はないものの、超至近距離から放った為に回避の難しかった打撃によって、グラと吾の間には一定の距離が作られる。怒涛の攻勢が止んだ事で、ようやく一息吐けた。

 グラは変わらず左手に刀を携えた格好で、常に右手は空け続けている。どちらが利き手なのかは知らないが、刀を左手で振るのも、右手で理を刻むのも、卒なくこなしている。あるいは両利きか?

 その器用さには、素直に舌を巻く思いだ。全力疾走しながら文章を書くような真似だろうに。魔術師が前衛をできない一番の理由が、その両方を同時にこなせないからだ。

 グラ・ハリューは、改めて【魔術】を行使する右手をこちらに向ける。


「さぁ、ここからは実験段階で、ショーンもまだ試行錯誤している術式を――私なりに効率化してみせた【影塵術】です。ですが、間違いなく我が弟の幻術なので、安心してください」


 次の瞬間、またもグラの姿が溶ける。次の瞬間、背後から炎の赤い明かりが発せられる。振り向いた吾の目に飛び込んできたのは――



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る