第53話 曇りだらけの眼

――クソッ!!


 来た。急に来た。

 これまでも懸念していたし、自分なりに対策は立てていたつもりだった。だが、人間だった頃、年齢と共に徐々に意識が変わっていったのとは違い、急激な変化だったせいで動揺が隠せない。

 まるで風邪気味のときに詰まっていた鼻が、スッと通ったかのような、ある意味世界が開けたような感覚。これまで認識できていなかった感覚を、唐突に取り戻したような感じだ。

 ドクンドクンと高鳴る心臓。様々な記憶が脳裏をよぎり、抑えがたい衝動が己を突き動かさんと暴れ回る。己の体でないように赤熱する耳朶と頬、眩暈がする程に妄想が眼窩の裏を駆け巡る。

 このままでは良くない――良くないとわかっているのに、己の感情はそれを是として、突き進もうとする。理性というものを押し流す情動に、どこかで歯止めをかけなければならないのだが、そう考える僕とは別の僕が、耳元でよこしまに囁くのだ。


「――ふッ!!」


 慌ただしく地獄門の奥へと引っ込んだ僕は、気合を入れて手の平の上で理を刻む。使い慣れた術式だというのに、杖なしとはいえ普段の十倍以上時間をかけながら、なんとか理を完成させた。


「【平静トランクィッリタース】!!」


 これまでにない力強い詠唱で、僕は【平静】を唱えた。途端、痛い程にがなっていた心臓は落ち着きを見せ始め、体中を駆け巡ったのちに一点に集中していた血流も、緩やかなものへと戻っていく。熱を持っていた頬を、地下空間の涼しさが心地良く撫でる。


「ふぅ……――」


 人間社会においては不能魔術とまで呼ばれる【平静】の効力は、流石の一言に尽きた……。落ち着いた心持ちで、僕は己を見詰め直す。だがまぁ、自分の身になにが起こったのかは、重々理解している。

――生殖能力が芽生えたのだ。

 レヴンも言っていた通り、ダンジョンの支配下から離れた生き物には生殖能力が備わる。どうしようもない場合は、アンデッドになる。要は、疑似ダンジョンコアという被造物にも、同様の変化が起こったというだけの話だ。

 まぁ、それは封印した【怪人術】の一件から、ある意味既定事項ではあったが……。


「しかし、どうするか……」


 後頭部で叩いた壁の硬さに、いよいよ焦燥を覚える。こんな切羽詰まった感覚は久しぶりだ……。


「……クソ……」


 グラが帰ってきたら、疑似ダンジョンコアをオーバーホールして、生殖機能をオミットしよう。グラと僕との役割分担において、渉外担当たる僕がこんな状態では、いろいろと支障を来す……。

 なにより、このままでは僕自身が、僕を信用できない。 己に対する不信程、対処に困るものはない。

 いやまぁ、僕人身別に、人間だった頃に特別性欲が強かったわけでもないし、異性であれば無条件に信用していた、なんて事はない。むしろ、女系家族で育ったせいかあまり女性幻想的なものはなく、異性に対しては淡白な性分だったと思う。

 だが、そういう事ではない。そういう事ではないのだ……。

 僕は暫時そうして、【強欲者の敷石パッショネイトアプローチ】で時間を潰してから応接間へと戻る。そこでは、オーカー司祭とぽっちゃりおじさん、そして交渉を代行してくれたザカリーがいた。


「大変失礼いたしました。急に鼻血が出てきてしまったもので……」

「ああ、なるほど。そういう事情でしたか。いえいえ、お気になさらず」


 安堵したようににこやかに笑いかけてくれるオーカー司祭。先程までと変わらぬ営業スマイルだとは思うが、僕自身の受け止め方はかなり違う。

 中性的ながらも整った顔立ちに、柔らかな表情を浮かべる姿は、どこか小型と中型の間くらいの哺乳類――例えばフェレットとかオコジョなんかの、スマートなやつをイメージする。なお、フェレットやオコジョが属すイタチ科というと、ちょっとイメージがズレる。

 まぁ、なにが言いたいかというと、オーカー司祭は実にキュートな見た目をしているという事だ。

 おまけに、近くにいると仄かに鼻腔を擽る香りは、清涼感と甘さを兼ねた、柑橘を思わせるものだ。これが切っ掛けで、急速に依代に性欲が芽生えたといっても過言ではない。

 というか、これまでの僕は、こんな女性特有の匂いを認識しながら、『男か女かわからない』などと宣っていたのか? 信じられない。これでは性欲がない時分の判断も、どれだけ信用にあたいするものかわからない。こんな明白な事実にすら、これまで気付かずにいたのだから。

 男子であれば、全世界の共通認識だとは思うが、女性特有の香りというものは確実に存在する。それはシャンプーや石鹸の香りでも、ましてデオドラントスプレーや香水、化粧品のような、後付けの香りでもない。むしろ、後付けの香りを嫌う男は多い。そうではない、女性特有の体臭というものは間違いなく存在し、清潔感を保ったうえで香るそれは、これも間違いなく男性にとって好ましいものなのだ。

 まぁ、きっと詳しい事は生物学か生理学辺りが説明してくれるのだろうが、流石にそんな知見はない。


「ショーンさん?」

「おっと。失礼しました、ついもの思いに耽ってしまいまして……。重ね重ね申し訳ありません」


 話を聞いていなかった僕に、声をかけてきたオーカー司祭。小首を傾げる様は、本当にオコジョのように愛らしい。

……いや、そうじゃない。彼女が愛らしいかどうかなど、考慮する必要はない。必要なのは、彼女がその表情の奥でなにを考えているかだ。だが、改めて見ても、そのかんばせが愛らしすぎて、どうにも直視に堪えない。


「……すみません。やはりどうも、体調が良くないみたいで……」

「どうやらそうみたいですね。先程からちょくちょくボーっとしておられました。少しお休みになった方がよろしいかと」

「はい、そうします。以後の打ち合わせは、このザカリーが担います。お値段に関して交渉が必要であれば、執事のジーガにお申し付けください」

「わかりました。拙が治したいところではありますが、【神聖術】はきちんと手順を踏んで行使するのが掟でして……。勝手に使った事が知られると、始末書ではすまない騒ぎになってしまいます。治す手段があるのに心苦しい限りですが……」

「いえいえ。無茶を言うつもりはありませんし、たぶんただの風邪ですから。少し休めば良くなるかと」

「お大事にしてください」


 柔らかく笑顔を湛えて、こちらを心配してくれるオーカー司祭に、なんとか笑顔を向けて部屋を辞す。すぐさま地下へと戻り、僕は【平静】の装具を作った。

 これはこれで、自分の意識に影響を及ぼす幻術なので普段使いできるものではない。だがいまは、背に腹は代えられない事情があるのだ。少なくとも、こんな体たらくでは、グラに合わせる顔がない。


 想定されていたとはいえ、予定外の事態に、よりいっそう自己評価の低くなる一日だった……。僕ってこんなにダメなヤツだったんだな……。



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