第50話 デリカシー皆無の来客
●○●
「――どうも、こんばんは」
そいつは、まるでそこが昼日中の町中であるかのような、気楽な調子で声をかけてきた。
まだ若い男性の声。年の頃は十代後半から二十歳前後。中肉中背で、髪の色は黒。表情はにこやかで、まるで敵意というものが感じられないが、こんな場所、こんな状況で声をかけてくる時点で異常だった。
「はぁッ!? ちょ――!?」
よりにもよって、人が用を足してズボンを上げた直後の事である。デリカシーどころか、やっている事はほとんど暗殺者やモンスターが、獲物の隙を突くがごとき真似だ。勿論、アタシだって乙女としても冒険者としても、最大限警戒は払っていた。だが、この男の接近には微塵も気付かなかったのだ。
それ自体は、然程おかしな事ではない。アタシ程度の警戒網をくぐり抜けるような輩は、ごまんといるだろう。だが、そうまでして接近した人間が、わざわざ声をかけてきたとうのが、なにより不可解だ。
アタシは男に応えず、腰の剣に手を置きつつ、ジリジリと後退る。
「警戒せずとも結構。私が面会をしたいのはあなたではなく、グラ・ハリュー殿ですから。案内してもらえますか?」
この状況の異常さを、己の非常識な行動を、まるで認識していないかのような、ある種呑気な台詞。アタシはそこに、言いようのない気持ち悪さを抱き、警戒心も露わに問い質す。
「――……グラ様になんの用?」
ハリュー姉弟は、常に暗殺者にその身を狙われているらしい。こいつもその手の者だとすれば、一応は護衛として雇われた身である。はいそうですかと、連れていくわけにはいかない。とはいえ、アタシ一人で勝てるかどうか……。
アタシのにべもない返答に、男は柔らかい笑みを湛えた表情のまま、刺すような言葉を吐く。
「あなたごときが知る必要のない事です。勘違いしないで欲しいのは、いまあなたが生きているのは、グラ殿へのこちらの第一印象が多少悪くなりかねないから。最悪、敵対と取られたら困るからです。勿論、あなたの命などに、彼女がそこまで重きをおいているとは思わないが、迂闊な行動から相手に間違ったメッセージを受け取らせるという事は、往々にして起こり得る事ですから。そうでなければあなたなど、息を吸って吐く間に、七度は咀嚼している」
「……っ……」
まるっきりの雑魚扱いに、思うところがないではなかった。だが、それでもこの男の放つ異様な雰囲気に、怒りよりも、恐怖と忌避感が勝り、アタシはなおも後退を続けた。
アタシだってバカではない。探索のセオリーとして、みだりにパーティから離れて単独行動をしないという心得は忘れていない。この角を曲がれば、すぐに一行に合流ができる。声をあげれば、すぐにでもパーティが駆け付けるだろう。
流石に、グラ様を含めた七人で相手をすれば、この不気味な男であろうと対処は可能なはずだ。問題は、眼前のこいつもそれはわかっていて、不意打ちの機会を捨てたという点だ。本当にグラ様の命を狙うならば、アタシに声をかけるのは完全に悪手でしかないのだ。
「――ふむ。まぁ、たしかにその場合、問答無用で戦端を開いていたでしょう。闘争ではなく交渉を所望するのであれば、正しい選択だったと評価しましょう」
だが、アタシの狙いは、いい意味で裏切られた。背中のすぐ後ろから、ガラス器を打ち鳴らしたような、凛と澄んだ声音が聞こえ、安堵が心に広がっていく。なるほど。アルタンの冒険者界隈において、グラ様の人気が高い理由がアタシにもわかった。
ダンジョンという空間で、得体の知れない脅威と対峙した心に響く、この泰然自若、凜乎とした声の頼もしさ。ランではないが、心酔する者がいるのも頷けてしまう。
「勿論、だからといって、ここから私とあなたが戦闘に至らないと決まったわけではありませんが」
そう言って、臨戦態勢とばかりに腰の刀の鯉口を切るグラ様。柄に手をかけてはいないものの、なにかあれば即座に反撃ができる態勢である。小さなその背が、まるで城壁のように感じられる。
そこで、慌てた様子のランたちが現れ、アタシたちの周りで警戒のフォーメーションを取る。どうやら、真っ先にグラ様がこちらの異変に気付いて近付いたのを、他の面々はわけもわからず追ってきて、この状況に直面したらしい。
そんなあからさまな警戒姿勢にあるアタシたちに対し、男は慇懃にも大きく頭を下げる。視線を地面に向け、頭を差し出す姿勢は、あまりにも無防備だ。これだけの、自分に対して警戒心と敵意を剥き出しにした人間に囲まれてなお、そこに一切の怯懦は感じられない。
やはりそこに感じるのは、どこか得体の知れない化け物に対するような、恐怖と危機感だ。
「お初にお目にかかります、グラ・ハリュー殿。私の名は――グレイ・キャッツクレイドルと申します」
その真摯な姿勢と声音は、当人の言う通りグラ様に対する敬意を払っているように思えた。だがしかし、彼が名乗りをあげた途端に、アタシにもわかる程にグラ様からは針のような敵意と殺意が放たれる。
「なるほど……。あなたがグレイですか」
「はい。といっても、当然仮の名ではございますが」
「まぁ、そうでしょうね……」
端から聞いているアタシたちにはさっぱりな内容だが、二人の間ではなにやら共通認識が持たれたらしい。ただし、だからといって二人が友好的だとは限らない。グラ様は変わらず臨戦態勢であり、張りつめた空気はいまにも裂けてしまいそうな程だ。
無機質な表情からはなんの感情も窺えないが、むしろだからこそ、いっそうの敵意が彼に向けられているようにすら思う。もはや警告としての敵意ではなく、戦闘状態の敵意とでもいうべきか……。
そうして、頭を下げるグレイと名乗った男とグラ様が対峙し、沈黙が洞窟内に蟠ってどれくらい経っただろう。顎を伝った汗を手で拭ったタイミングで、グラ様の方から男に話しかけた。
「それで? 私に用とは?」
「はい。といっても、この状況ではお話が外に漏れかねません。ここにいる、すべての人間の口を塞いでいいのであれば、お話いたしますが、それはグラ殿にとっても好ましからざる事態なのでしょう?」
「そうですね。ここにいる人間は、我々にとっての利益に通ずる人的資源です。勝手に害する真似は、我々に対する妨害、敵対行為に他なりません」
「――我々、ですか……」
そこでグレイは、どこか哀れむような――同病相哀れむような、自身も古傷を抉られる痛みに耐えるような表情で、彼女を見ていた。複雑な感情の入り混じる視線を向けられたグラ様は、しかしそんなものに頓着する様子も見せず、表情の一切を動かさず、堂々と立っていた。
「まぁ、いいでしょう。それもいずれ……――いえ、やはりここで言及しても意味がありませんね……。私の用向きは、これに
そう言って懐より、上質な便箋を取り出すグレイ。封蝋まで施された、まるで貴族の出す手紙のような代物だ。この男、どこかの貴族の使いだろうか? ハリュー姉弟の知名度と重要性を思えば、それもおかしな話ではない。
ただアタシにはどうにも、眼前のこれが、ただの人間の使者だとは思えないのだ。下手をすれば、巨大な裏組織や暗殺者集団からの勧誘、などという事すらあり得るのではないか……。そう思えてならない。
「ふむ。ラン、取ってきなさい」
「はいっ!」
最も危険な役割を任されたというのに、心底嬉しそうにランが男の元に近寄っていく。まぁ、冷静に考えれば、使者のような役割であるランの安全性は、それなりに担保されているとわかる。
だが万が一、そもそもグレイなるこの男が、端からグラ様を害する腹だった場合、真っ先に命を落とす役割である。そんな任に嬉々として応じるランの心は、やはりわからないと思った。
案外というべきか、案の定というべきか、手紙の引き渡しはつつがなく終了し、男からランへ、ランからグラ様の手元へと運ばれた。グラ様はそれを懐にしまうが、やはり男に対する敵意は発されたままだ。
「最後に一つ――」
そんな刺々しいグラ様の視線を、柳に風と受け流すようなグレイが、飄々と言い放つ。誰もがあっと思った。それはこの場においては、一番の禁句だと察した瞬間には――
「ショーン・ハリューをあまり信用しすぎ――」
ふわりと、柔らかい風が閉鎖された洞窟内に吹いたところで、男の体は真っ二つになって地面に落ちた。気付いたときには、グラ様は元居た場所から五メートルは離れた場所に立ち、刀を抜いた姿で物言わぬ存在と化した男を睥睨していた。
「人形ですか……」
声に微かな落胆を滲ませてグラ様が表す通り、薄暗いダンジョン跡の地面に落ちた男の上半身と下半身からは、人間らしい血や臓物の匂いはせず、良くわからない機材がその断面から覗いていた。
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