第142話 台風一過・4

 ●○●


「親父……」


 ゲラッシ伯から与えられた舘の一室で、ソファに深く座る父の姿は、あまりにも痛々しいものだった……。肘から先の両腕はなく、左足も足首から先はない。そのままでは立ち上がる事も出来まい。


「なんて顔をしている」


 そう言って苦笑する親父。その顔は、常の商人の仮面ではなく、【暗がりの手】としてのものでもない、毒気でも抜かれたかのようなさっぱりとした、ただの男の顔だった。

 聞けば、冬のオーマシラを越山してきたせいで、四肢のほとんどが凍傷で壊死していたらしい。最初は、親父程の男がどうしてこのような姿に、と思ったが、オーマシラを越えてきたと知ったあとは、良くもこの程度で済んだと、しみじみと思った。

 ディティテイル連峰方面から帝国入りを目指したレヒト殿の部隊からは、未だに連絡はない。まぁ、ダウンローブ山を越えて第二王国入りした我々と違い、あちらはかなり大きく迂回しなくてはならないし、侯爵領や本国への報告を優先しているだろうから、こちらに連絡がつかなくても仕方がない。


「ショーン様からのご厚意で、マジックアイテムの義手と義足を提供してもらっている。使いこなすにはまだまだ時間はかかろうが、いずれ日常生活を送るだけならば、問題なく過ごせよう」

「だが……」


 それでは、親父は二度と間諜として働けない。その言葉が口から出て来ず、また口にすれば親父の覚悟に泥を塗ると思い、俺は無理矢理呑み込んだ。


「慣れるまでは、ハリュー家特製の車椅子も貸与してもらえているし、あと数日で義足の指導に、ハリュー家の使用人であるキュプタス殿が来てくれるとの事だ。彼の御仁も、少し前までは両足がなかったらしいが、いまではショーン様の義足で、問題なく歩けるまでになったそうだぞ?」


 だから、そんなに悲観するなとでも言わんばかりの明るい声音に、苦笑するしかない。親父こそ無念であろうに……。同じ間諜として、尊敬すべき先達であり、追い付ける気のしない程遠きを歩む男。それがもはや……――


「随分と厚遇されているみたいですね?」


 堂々巡りを始めようとした、陰気な思考を振り払うように、俺は努めて明るい口調で問うた。こちらの内心を見透かすように、またも苦笑してから、表情を引き締めた親父が答える。


「ああ。それに関しては、私も予想外だった。少なくとも、ショーン様に私たちに対する敵愾心はないらしい。帝国に関しては……、まだ測りかねているが……」

「ポールプル侯爵公子ですか……」

「ああ……。いまから思えば、あのバカ息子はどこかのタイミングで、消しておくべき不安材料だった。戦だったのだ。口実など、いくらでも用意できたはずだ……」


 苦虫を噛み潰したような表情で呟く親父。

 俺たちが、アルタンに入ったときには既に、帝国急襲と撃退の報は届いていた。遅きに失したという思いと、どうして第二王国に攻めかかるような事態になっているのかと、愕然とした。この状況で、姉弟との和解など不可能なのではないかと思った程だ。

 ハリュー邸を訪ねた結果、姉弟がサイタンへと赴き、参戦していると知ったときには、膝から崩れ落ちた程だ。

 だがいま、親父が公子を討ち取ったおかげで、帝国はギリギリで面目を保てている。改めて、えらい親父だ……。


「タルボ侯爵家とポールプル侯爵家との、今後の関係を考慮して、アレを後方におくだけにとどめた。流石にそこならば、軍にも帝国にも害にはならんだろう、とな。油断した……」

「仕方がないでしょう……。よもや、開戦前、直後の段階で、このような事態になるなど、誰にも想定できません……」

「だが、我らはそれを想定していなければならなかった」


 その理屈はわかる。だが、単に危ういというだけで、見境なく仲間を討つような真似は、帝国内におけるタルボ侯爵家の信用に関わる事態だ。メリットデメリットを思えば、デメリットの方が大きい。

 つまりは、いま親父がしているのは、事後だからこそこぼせる類の愚痴でしかない。


「本国からは?」


 今後、帝国がどう動くのかを知る為に話題を振る。親父もその事を伝えておかなければと思ったのか、真剣な表情のまま口を開く。


「既に使者がサイタンに入り、ゲラッシ伯及び国軍の将軍と交渉に入っている。第二王国次第ではあるが、まず講和となるだろう。帝国は、この戦をズルズルと引き摺るつもりはない。此度の交戦に関しては、どうやら偽書が出回ったようだ。バカ息子は、それに踊らされたらしい」

「バカが……」


 思わず吐き捨てる。間者として、あからさまに感情を表出させるのは褒められた真似ではない。常であれば、親父も叱責しただろうが、今回ばかりは仕方ないと思ったのか、軽く顔を顰めて嘆息しただけだ。俺は「申し訳ありません」と頭を下げる。

 偽書の類など、戦時に出回る事はそれ程珍しくはない。あのバカ息子が、タルボ侯や前線の司令部に、きちんと伺いを立てていれば、いくらでも未然に防げた事態だ。

 そうすれば、タルボ侯や将軍たちも、あのバカ息子の評価を少しは考え直しただろう。いや、そのような真似ができない人物だからこそ、相手もあのバカを利用したのか……。

 なるほど。親父の言う通り、敵に利用される前に、始末しておけば良かった人材かも知れない……。逆に前線に送って、功名に逸ったように見せて、敵に討たせるという手もあろう。他にもこちらの仕業と発覚しないやり方は、いくつかあった。……くそ。


「問題は、その偽書の出所だ。第二王国ではあるまい。伯爵公子の軍配の巧みさは聞き及んでいるが、それもやはりハリュー姉弟の幻術ありきの策。おまけに、かねてより囁かれていた、死神の術式だ。姉弟がいなければ、まず間違いなく伯爵領は失陥し、下手をすれば伯爵家の跡取りも落命していただろう。彼らは完全に、不意を打たれていた」

「では、相手はパーリィ王国、クロージエン公国群、グレート・アイル連合王国ですか?」

「断言はできん。使者殿からこっそり耳打ちされた限り、その者の狙いはハリュー姉弟の、それも弟だったそうだ。だとすれば、以前の件で教会が動いた可能性もある」

「なるほど……」


 教会という発想はなかった。南を制したという事で、ついつい北に意識を割きすぎてしまったようだ。だがそうだ。ナベニポリスを制したとて、まだまだ南には国はあり、虎視眈々と帝国の地を狙っているのだ。

 帝国と第二王国を争わせて利を得んとする国は、いくらでも想定できた。


「想定される敵が多すぎますね……」

「それがわかっているからこそ、動いたのであろう。最悪、ナベニポリスの前元首ドージェの仕業の可能性すらあるのだ。そうなると、我々は振り上げた拳の落とし所を失ってしまうがな……」


 面白くなさそうに嘆息する親父。

 今回の一件は、帝国は勿論、我ら【暗がりの手】にも、大きな損害を与えた。人的被害だけではない。帝国内での信用や、我らの暗部としての矜持を傷付けたのだ。必ずや報復をし、相手の心胆にこちらに対する畏怖を刻み付けてやらねばなるまい。

 だがその相手が、既に滅んでいるなど笑えない事態だ。それがそれなりに高い可能性であるのが、なんとも空恐ろしい。


「ともあれ、草の根わけてでも、我らをコケにしたヤツらは探し出せ。情報を絞りに絞ってから、見せしめとして殺す。いずれ大元に辿り着くまで、それを繰り返せ。徹底的にな」

「はっ」


 間者としての目に戻った親父が、氷のような眼差しと声音で命じてくる。思わず背筋が伸びる。


「侵攻戦は終結したのですか? 何分、まだサイタンに到着して間がないもので……」


 情報収集に抜かりがあった点を面目なく思いつつ、親父に問う。流石に、そんな話はゲラッシ伯爵領内では、巷間には流れていなかったと思うが……。


「いや、侵攻戦そのものはまだだ。だがウォロコ決戦には勝利し、敵元首も討ち取ったらしい。ナベニポリスまで撤退した敵軍は降伏を伝えてきたようだが、侵攻軍はすぐにそれを受け入れられなかった」

「受け入れられなかった?」

「補給線に不安があった帝国軍は、撤退するナベニ軍に追撃をかけられなかったのだ。そのせいで、連絡に時間がかかっているようだ。いま、伯爵領に入っている情報はこの程度だな」


 なるほど。つまりは、やはりパティパティアトンネル封鎖の影響か……。これで誰の目にも、侵攻軍の補給路が不安定であるのが白日の下に晒されたわけだ。

 ナベニ軍も元首を失い、無理がたたって反抗は難しい状況ではあった。だが、後方途絶の報から、混乱や士気の崩壊が起こり、侵攻軍が大きな隙を晒す惧れは十分にあった。そうなれば、勝敗はどうなるかわかったものではない。

 まして、ウォロコ決戦で包囲されているさなか、それが発覚していたら……。間違いなく、その場合俺たちは間に合わなかっただろう。

 改めて、親父の失った手足を眺める。親父の功績は、侯爵公子の首を獲って、帝国側でけじめをつけただけではない。いち早く、姉弟との交渉を終えて、トンネルを再開通させた事が、間違いなく帝国の敗北を遠ざけたのだ。

 わかりやすい成果ではないが、それこそが【暗がりの手】に相応しい仕事なのだ。そう思えば、親父の顔もただの強がりではなく、他者に誇れる仕事を為した男の顔に見える。


 いつか必ず、その背に追い付き、同じ顔で笑ってみせる。


 俺は情報交換を続けつつ、秘かにそう決意していた。



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