第135話 人間の事情に煩わされたわけ

 ●○●


 伯爵軍の追撃がなかったのは、僕らのせいだった。というか、【逸神イッシン腐乱フラン】のせいである。

 崩れた帝国軍と伯爵軍との間には、疫病と腐肉の園が広がっていた。そのど真ん中を突っ切って、敵に追撃をかけよなどとは、どれだけ信頼されている指揮官であっても、命じられないだろう。ハンニバルくらいのカリスマがあれば、できるのかも知れないけどさ。

 まぁ、あとから【死を想えメメントモリ】の空間に入ってきても、それ程強い影響は受けないし、疫病も虫も幻覚なので、匂い以外は特に実害はないんだけどね。いや、どうかな……。嗅覚って、脳に直結した器官だから、そこから受けるイメージって、結構強いんだよね。もしかしたら、【死を想えメメントモリ】なしでも、死人が出るかも知れない。

 まぁ、それでもアルプスを越えるよりは安全だと思う。


 そんなわけで、伯爵軍は帝国軍への追撃を諦めた。幸いといってはなんだが、敵の指揮官クラスが大量に死んでるし、あの軍を再編する事はできないだろう。特に、最後の方は指揮官から順番に挑みかかってきたもんなぁ……。

 きっと、腐乱フランの攻撃を自分に集中させる事で、兵らの被害を極力減らそうと考えたのだろう。これは、ディラッソ君に知らせて、彼から帝国にその戦いぶりと、将たる者の矜持を伝えてもらおう。

 あ、あとちゃんと、遺体も綺麗な状態で返そう。余計な恨みまで買うのはゴメンだ。

 当然ながら、腐って溶けたのは幻覚である。死体はみんな綺麗な姿で、草原に横たわっている。蛆も湧いていないし、死にたてホヤホヤなので傷んだりもしていない。まぁ、人によっては、死んだあとに踏まれたりして酷い事になっているが、それは死化粧でなんとかしてもらうしかない。


「はぁ……。ようやく終わったか。随分と手間を取られた」

「そうですね。帝国とやらが、余計な事をしなければ、人間どもの争いを高見の見物していられたのですが……」


 僕の独り言に、グラも頷いて嘆息する。

 今回の一件は、僕的には人間たちの視線を地上に集中させて、ダンジョンどころでなくできれば、それで良かったのだ。具体的には、件のダンジョンを発見するマジックアイテムを、使えない状態にできるだけで良かったのだ。その目論見は成功しており、バスガルのダンジョンの状態の再確認というタスクは、帝国の宣戦布告からこっち、後回しにされ続けている。


「その点では、目論見は十分に果たした。しばらく、僕らのダンジョンが発見される心配はないだろう。ゲラッシ伯爵も、戦の準備や警戒に、だいぶ魔石を消耗しただろうからね」

「ですが、いつまでもダンジョンを秘匿し続けるのは、得策ではありません。特に、ダンジョンが拡大している現状、維持の為に消費するDPは、得ているDPを上回っています。このままでは、よろしくありません」

「わかってるよ。そろそろ四層の準備も整う。適当なタイミングで、アルタンから離れた場所で発見させよう」


 そうすれば、マジックアイテムを使用しての探査は、そっちが最優先にされるはずだ。


「おっと。ディラッソ君とポーラ様がくるね。これ以上は、地下に戻ってからにしよう」

「そうですね」


 ようやくと表すべきか、早くもと表すべきか迷うタイミングで、恐る恐るディラッソ君麾下の騎兵部隊が近付いてくるのが見えた。とっくに腐乱フランは消えているのだが、それでもやはりこの現場に近付くのが怖いのだろう。だいぶ腰が引けている。


「良くやってくれた、二人とも」

「お褒めに預かり光栄です」


 開口一番褒めてくれたディラッソ君に、僕も満面の笑みで返す。これで、ゲラッシ伯爵家の家臣団から、余計な口出しはされないだろう。おかしな事を言ってきても、それはディラッソ君とゲラッシ伯になんとかしてもらいたい。


「しかし……」


 言葉に詰まったように、周囲の光景を見回すディラッソ君。ポーラ様や、他の騎士たちも青い顔で、死体の散見される愁嘆場を見ていた。


「遠目から見ていたが、凄まじいものだな……。教会が危険視するのも、わからぬ話ではない。これだけの敵兵を、たった二人で討ち取れてしまうのだからな……」


 まぁ、属性術師が火だの風だのを使って一人、二人、あるいは十人、二〇人敵を殺すのと比べれば、たしかに一網打尽感はある。とはいえ、整えなければならない前提条件を思えば、なにも考えずぶっぱできる属性術の方が、戦闘という一点では便利だと思うけどね。

 しかしまぁ、戦闘でなく戦争という舞台であれば、幻術はこれだけの事ができるわけだ。流石、人間を倒す為にダンジョンが作り、人間を騙す為に人間が洗練させた技だ。


「しかしこれで帝国は、少なくとも君たちが存命の内は、伯爵領に手を出してはこないだろうな。なにせ、半分以下の戦力に、ほぼ完敗したのだからな」

「楽観は禁物ですよ。そういう油断を突かれれば、奇襲からあっさり都市を占拠されるなどという事があるかも知れません。これは極秘事項ですが、先に使った幻術は、敵の心が堅調なときに使っても、ほとんど効果がありませんからね?」

「む。そうなのか……? いや、まぁ、そうか。流石に、いつでも無条件に、これだけの被害を生み出せる幻術など、あるわけがないか……」


 ディラッソ君は言葉では冷静に確認していたが、その声音に安堵が滲んでいる。死神術式には、なにかしらの発動条件、もしくはそれが効果を及ぼす為の前提条件が必要なのだと理解して、戦力に枷が付く事よりも、安全弁があるという点に安心したのだろう。


「ええ。これからグラの主君となるのでしたら、その点をご留意してください。無茶をおっしゃられても、応じられませんので」

「わかった。都度都度、確認を取ってから頼む事としよう。あ、あー……、まぁ、次期当主としてはどうかと思うが、まぁ……、その機会がない事を望む」


 ディラッソ君が、バツの悪そうな表情で内心を吐露する。まぁ、今回の【逸神イッシン腐乱フラン】を見て、大喜びで頼んでくるヤツは完全に異常者だろう。もしもディラッソ君がそんなヤツだったら、仕官の件も含めて、今後の付き合いを考え直さなければならなかった。

 まぁ、死神術式に前提条件が必要というのは、完全に嘘というワケではない。前提条件それを整えなくても、効果が〇ではないという点を、説明してないだけだ。以前アルタンで使った【モート】は、それこそ前提条件を整えていない状態で使用したのだから。


「デイラッソ様! 帝国側の使者を名乗る者が現れました!」


 本隊の方から駆けてきた兵士が、礼も取らずに慌てて話しかける。途中で騎士たちに止められていたが、やけに慌てているな。もしかしたら、あの侯爵公子とは別口の使者かも知れない。

 どうして、帝国がこんな動きをしたのか、多少は事情を知っているかもな。



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