第132話 満点合格

 ●○●


「【平静トランクィッリタース】」


 グラが僕に幻術を施す。


「【平静トランクィッリタース】」


 僕もまた、同じ術をグラにかける。強制的に心を平静に保つ幻術だが、副作用として生物として当然あるべき危機感や、本能に根差した嫌悪感や恐怖心が欠如してしまうのが難点だ。冒険者としての活動中や、戦場で使うには、あまり好ましくない幻術である。

 だが、この眼前の光景や【死を想えメメントモリ】の影響下にある状況では、己の命を守る為には重要な術になる。これをお互いにかけ続ける事によって、僕らはこの死の園にあっても、ある程度の安全が担保されているのだから。

 以前のように【怒りは束の間の精神病イーラフロルブレウィスエスト】みたいな、危ない術を使わずとも良くなったのは、グラのあくなき改善の成果といえるだろう。

 だからまぁ、こんな状況で決闘を申し込まれても、非常に困る。なにより、僕らは【逸神イッシン腐乱フラン】の曼殊沙華を起動している為に、文字通り手が離せないのだから。

 プラチナで誂えられた腕輪に、イリジウムの鎖がつながったアクセサリーが、僕らの動きに合わせて、シャラシャラと耳心地のいい音を奏でる。アクセサリーとはいうが、鎖がイリジウムな時点で拘束力としても十分なものがあるだろう。少なくとも、この鎖で吊り下げられたら、僕は自力で脱出できる気がしない……。もしかしたら、攻撃にも転用できるかもしれないな。

 この【逸神イッシン腐乱フラン】の曼殊沙華は、発動や術の維持に、僕とグラの腕輪や、頭の冠を近付けて励起させなければならない。そのおかげで、キーワードそのものはかなり短縮されたのだが、代わりに接触させるタイミングがシビアで、息ピッタリの僕ら姉弟ですら、それなりに訓練しないと上手く発動できなかった。

逸神イッシン腐乱フラン】の効果を保つ為にも、まるでチークダンスでもするように握られたこの手を放すわけにはいかない。こんな状況で、命を懸けた戦いなどできるわけがないのだ。


「それにしても、酷い光景だ……」


 腐乱死体が散乱する戦場は、ハッキリ言って僕にとっても不快である。もしも【平静】を使っていなかったら、盛大に嘔吐していただろう。

 なによりヤバいのは、この匂いだ。というよりも、【逸神イッシン腐乱フラン】の本質は、ほぼほぼこの匂いであるといっても過言ではない。


「そうですか?」


 だが、僕の正面に立つグラは、平然とそんな事を言って首を傾げている。こういうところを見ると、やはり僕とグラは根本が別の生物なのだなぁ、と実感する。

 僕は腐臭や、そこにたかる虫、湧く蛆に対して、非常に強い嫌悪感がある。【逸神イッシン腐乱フラン】においては、その嫌悪感こそが術の効果を強め、人を死に至らしめる。だからそれは、僕が人間だった頃の本能に根差した思いであり、未だに克服できない人間性の残滓なのだろう。

 対して、グラにとって死体が腐るのは当然の事であり、そこに虫がたかるのも自明の理としか考えていない。むしろ、屍肉を分解してくれるスカベンジャーとして、益虫と見ている節すらある。腐臭すらも、彼女にとってはそこまで不快ではないというのだから、正直驚いた。

 まぁ、栄養の摂取方法の違いや、病にならない体を持つが故の差異だろう。少なくとも、服に腐臭がつくのを厭うくらいには、好ましく思ってはいないそうなので、根本的な価値観の相違にはつながらないはずだと楽観している。


「僕が、無防備にこれを食らったらと思うと、戦々恐々だね……。正直、こうして目の当たりにしているだけでも、かなりの精神的ダメージを食らう……」

「そういうものですか。しかし、あなたにすらそうまで言わせしめるのですから、人間どもに対しては、非常に有効だと考えていいのでしょうね」

「まぁ、そうだね……」


 嬉しそうに笑うグラだが、その常人には無表情にしか見えない笑みにも、情けない事に僕は一〇〇%の笑顔を返せず、苦笑する。

 たしかにこれは、ダンジョンコアにとっては効果が薄く、人間にとっては効果が絶大な死神術式といえる。僕らにとっての切り札にもなり得るだろう。特に、嗅覚という五感の一つから、死と腐敗を連想させる幻覚は、幻術師としても興味深いアプローチだった。

 だが、やはりこれは……――


「グラ、お願い」

「はい。【平静トランクィッリタース】」


 ふぅ……。胸中にジワジワと湧いていた不安や不快感が、スッと引いていく感覚が心地いい。流石に【死を想えメメントモリ】と【逸神イッシン腐乱フラン】の前には、便利な【平静トランクィッリタース】ですらも、すぐに効果を失ってしまうらしい。

 ちなみに、僕が三回使う間に、グラに使うのは一回という感じだ。それも、かなり安全マージンをとって、グラに要求される前に僕が自主的にかけているに過ぎない。

 普通なら、一度使えば危機感の欠如から危うい真似をしかねないと、その場で冒険を切り上げるような幻術であり、絶世の美女の裸を目にしても息子が反応しない、不能魔術と揶揄される程の幻術なのだが……。


「さて、どうでしたは?」


 グラが、自信があるテストの点数を教師に訊ねるような声で、僕に問うてくる。それに対して、僕は肩をすくめて苦笑する他ない。


「うん。文句の付けようがないね。【逸神イッシン腐乱フラン】はいい術式だ。満点だよ」


 そう。この【逸神イッシン腐乱フラン】は僕が作った死神術式ではない。グラが作った代物だ。彼女の、人間に対する理解度を測るテストとして、蛍光双子ツインテツインズと戦ったあと、一度作ってもらったのである。

 押さえておかなければならない要点は二つ。人間に、死を実感させる幻術である事。そして、ダンジョンコアにとって、あまり効果的でない事だ。前者はともかく、後者に関して匂いに目を付けたのは、流石の慧眼といえるだろう。

 おかげで、こっちはSAN値をゴリゴリ削られてしまったが……。

逸神イッシン腐乱フラン】という名も、僕ではなくグラが名付けた。

 最近の僕の研究資料は、もっぱら日本語で記されていたりする。こっちに、根本となる言語の基礎すらないので、暗号としてかなり便利なのだ。僕にとってはネイティブだしね。

 そして、僕の研究資料を読む為に、グラも日本語を勉強している。彼女の学習能力なら、僕が覚えている漢字や文法くらいなら、すぐにマスターするだろう。いまハマっているのは、どうやら同音異義語らしい。

 なんというか、ちょっと駄洒落っぽいと思ったのは内緒だ……。僕だったら、死神じゃないけど、アスタロトとか付けちゃうかなぁ。流石に、バビロンとは名付けなかっただろうけど。アスタロトは、ベルゼブブの側近である蠅騎士団の一員としても語られてるし、逸話的にもピッタリだったかも知れない。

 あるいは、もっと神性を強めてアシュテレトか、古代のギリシアやローマっぽくアスタルテーかな。アスタロトだと、どうしても悪魔っぽいからね。いや、アシュテレトもアスタルテーも別に死神じゃなく、バアルと並び称される豊穣の女神だけどさ……。

 ちなみに、あの仮面は、完全にアスタロトの名残である。


「コンセプトを決めたのちは、随分とショーンにも手伝ってもらいました」

「あくまでも、細かなディティールを仕上げただけさ。間違いなく、これはグラが作った術だよ」

「はい」


 嬉しそうに破顔したグラに、僕も今度こそ混じりっけなしの笑みで応える。阿鼻叫喚の地獄絵図のさなかにあって、その笑顔は異質でありながら、彼女という存在を良く表していた。


「ですが、やはり私の感性では、性能がややモンスター寄りですね。ショーンの作った【モート】や【死者の女王ヘル】には及びません」

「いやいや。十分に及んでいるって。むしろ、超えているまであるね」


 少なくとも、僕はこんな術式は、考えついても実際に作りはしなかっただろう。この術が有効なものであると、実際に目の当りにしたら理解はできるが、その前段階の時点で、無意識に選択肢から除外していたに違いない。

 嫌悪感が無意識に与える影響というものを、僕は今日実感した。

 それからも僕らは、しばらくは【逸神イッシン腐乱フラン】に対しての評価や改善点について語り合った。僕としては、そうやって少しでも眼前の状況から、目を逸らしたいという思いもあった。

 そうこうしている間に周囲は静かになっており、帝国軍は遠方の土煙の奥に去っていた。


 あれ? 伯爵軍の追撃は?



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