第131話 死神姉弟
※※※ 閲覧注意。この話には、非常にグロテスクな表現が含まれます。ご覧になられる際には、以上の注意をご了承のうえ、自己責任でお願いいたします。 ※※※
スヴァン殿が、原型もわからぬ腐肉となり果てた。そのあまりにも壮絶で凄惨で、なによりも惨い最期に、戦場は静まり返った。誰もが、眼前の光景を呑み込みきれずに、ただ呆けて立ち尽くすしかない。
あの、武辺者で鳴らしたスヴァン殿が、その武威を見せる機会すら与えられずに、あっさりと殺されてしまったのだ。無造作に。抗う事など、まったく能わず。それこそ、羽虫でも潰すかのように。
それを成した、羽虫で構成された黒い巨腕の持ち主をみやる。ブブブという耳障りな羽音を響かせるソレは、両腕と頭しかないようなシルエットで、それ以外はマントでも羽織っているような姿だ。
いや、あるいはあれは、マントではなく髪なのか? 黒い長髪にも見えるものが、カーテンのように姉弟を囲んでいる。
その全身を羽虫で構成しているせいか、輪郭は揺らぎ、いまにも崩れてしまいそうな不安定な存在。だが、確実にそこにいるとわかる人型の上半身だ。
その羽虫で構成された、悍ましき死神の姿で唯一、虫の黒とは違う色がある。顔に当たる部分に、いつの間にかあった、女性のような、あるいは竜のような、鼻の尖った仮面が浮いていた。
つるりと無機質な、白い仮面。その顎門と目の部分から覗く奈落を想起させる闇は、果たして本当に羽虫が作り出した色だろうか? 私には、そこが冥府につながっており、その向こうから本物の死神が、こちらを窺っているように思えてならない。
死神は両腕を開き、自らの生誕を告げるかのごとく、天に向かって咆哮する。
それは、幾億幾兆もの虫が、その命を振り絞って鳴らす羽音であり、実際死神が咆哮をあげる為だけに、その体から数多の虫の死骸が風に散っていく。
虫らの命を糧にあげる、あまりに悍ましく、筆舌に尽くし難い不快な雄叫び。それでも、努めて音にするならば、ズモモモモォォォオオオ……とでも表すような音だ。
あるいはそれは、産声か。生まれてはならぬ、悍ましき死の化身が、たったいま世界に産み落とされてしまったのだ……。
天を仰いでいた死神は、こちらに向き直ると、その仮面の顔をこちらに向けた。顎門の奥の闇が、人の群れを覗く。
「あ――」
ダメだ。そう思ったときには、既に遅かった。
闇そのものが溢れたかのような死と腐敗の颶風が、その仮面の口から吐き出され、一直線に兵らを薙ぐ。その風に晒された者らは、慈悲を乞う暇もなく、体の末端から腐り、ボロボロと崩れていく。
まるで上位の竜種が持つという【魔法】【
平原のあちこちに、もはや原型のわからぬ白い腐肉が転がっている。その腐肉からは、うぞうぞと蛆が湧き、あっという間に成虫となって死神の一部に加わる。
もはや悍ましいなどと、取り繕った言い方などできない。純粋に気色が悪く、不気味な光景。命そのものを冒涜するような、それでいて我々人間も、野山で人知れず死に、腐り、蛆が湧き、朽ちていく、鳥獣と同じ動物なのだと突き付けられているるような、剥き出しの自然の光景。ごくごくありふれた死の景色……。
「う――うわぁぁぁああああああ「あああああああああ「あ「ああああ「「あああああ「「あああああ「「「ああああああああ「「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」」」」」」」」」」」」」
大地を震わせるような、兵らの絶叫。こうなればもはや、陣も士気もない。彼らはただただ、這う這うの体で死から逃げ惑う、哀れな民草だ。武器も投げ出し、重い鎧を脱ぎ捨て、恥も外聞もなく泣き喚きながら散り散りになっていく。兵という群でない、人という個同士が、やたらめったらに逃げ惑っているだけだ。
これは、もう駄目だ。ここからなにをどうしようと、再び軍隊として動く事は叶うまい。もし仮に、私が彼らに号令を下そうとも、誰一人として聞き入れないだろう。当然だ。貴族と死神、どちらが恐ろしいのか問われ、答を違う者などいない。いるとすれば、実際にそれを目にした事のない者だけだ。
いま私にできるのは、できるだけ多くの兵を、生きて帝国、侯爵領へと帰す事だけ。その為に、この命を使い切ろう。ここが、私の死に場所と定めるのだ。
「――撤退!!」
私は、できる限りの大声で叫ぶと、同じ言葉を繰り返した。周囲で茫然としていた騎士らも、声を張りあげて撤退を指示する。
兵らの望みのままに、彼らに逃げる方向とその術を提示するのだ。できるだけ一塊になり、できるだけ同じ方向に向かう。それだけで、混乱から転倒し、踏み付けられ、取り残される者は減るはずだ。
あとは、死神の動向次第……。そう思って、姉弟の方を見た私の視界には、既に上半身のみの死神の姿はなかった。だがその代わり、黒い霧のようなものが広がり、再び害虫たちが姉弟に近い兵らに襲い掛かっている。
「クソ。攻撃に指向性がないせいで、対処が難しいな……」
これならまだ、あの死の息吹の方がマシだったかも知れない。広範囲に広がった羽虫は、再びあの屍蝋の病を振りまくのだろう。その混乱は、我々の撤退を妨げる。
案の定、あちこちから悲鳴があがり、黒い霧に呑まれた兵らは壊乱を始める。なかには、絶望から座り込んで動けなくなる者、まるで慈悲でも乞うかのように五体投地で姉弟に祈る者まで現れる始末だ。
……幸い、この混乱の納め方は知っている。
「副官! 指揮権を引き継げ!! 以降、貴様が撤退の指揮を執り、より多くの兵を故郷に帰せ!」
「は、はっ! あ、あの、ボーデン閣下はどうなさるので……?」
私の指示の意味を汲み取れなかった副官が、動揺も露わに問いかけてくるが、それに答える事なく笑いかける。願わくば、この副官が私と同じ末路を辿らぬ事を。だが、必要になればそうするしかないだろう。誰かがこの貧乏クジを引き続けない限り、死神の魔手は兵らに向いてしまうのだから……。
私は腰から剣を抜くと、胸を張って口を開く。
「我こそは、ネイデール帝国ポールプル侯爵領騎士、ユルゲン・ボーデン子爵! いざ、ハリュー姉弟に勝負を挑まん!!」
そう言って駆け出す。当然ながら、スヴァン殿が姉弟に挑んだときのような、希望などない。神の加護を願う者すら、ほとんど残っていない。この身に向けられるのは、諦観と淡い期待。姉弟や死神に勝利して欲しいという期待ではない。
わずかばかりでも、自分たちが逃げる時間を稼いで欲しいという期待だ。
それでいい。端からそのつもりなのだ。図らずもスヴァン殿が示してくれた通り、姉弟に挑みかかれば、疫病を振りまく虫どもは、死神の形を取る。そうなれば、混乱の原因である死蝋の病は鳴りをひそめるはずだ。
「おおおおおおおおおおおおおおおおッ!!」
怖じ気付こうとする心を叱咤するように、声をあげて野を駆ける。
多くの者が故郷に帰れず、その骸すら残っていない。そうであらばこそ、私は指揮官として最後の責を果たさねばならない。これ以上、軍隊として動けぬ兵を統率する者など最低限でいいのだ。
我が刃は、ハリュー姉弟には届かない。我が刃は、死神には届かない。騎士として、武人として死ぬ事は叶わない。だが、それでいい。少しでも、この死神たちの
「神よ!! 狩猟と決闘の神ユーダリルよッ!! いま少し我が身に、恐怖に屈さぬ力を与えたまえ!! 我が同胞を守る為の勇気を与えたまえ!!」
神に祈ると、心が軽くなる。その祈りが真摯であればある程に、心は平静を取り戻せる。この歳になって、ようやく教会の言うところの、真摯な祈りというものの本質がわかるとは、我ながらなんと不信心な事か。あるいは、それを理解したというだけで、信心深いといえるのか。どちらにせよ、祈っているのは教会の唯一神にではないというのは、皮肉な事だ。
私は、血と肉の腐った死臭のただなかを、羽虫をかき分け、べちゃべちゃと柔らかいなにかを踏みしめて、ひたすらに姉弟を目指して駆ける。剣を構え、息を止め、ひたすらに、前へ前へ。
あわよくば、姉弟の命を刈り取らんと。
だが、やはりというべきか、体の末端から腐っていくのがわかる。思ったよりは緩やかな進行ではあるが、それでも少しずつ己のものでなくなっていく体と、その下で蠢く虫どもには、本能的な嫌悪を禁じ得ない。
気持ち悪い。気色悪い。悍ましい。
そして、やはりというべきか、私は死神の魔手に捕まった。いつの間にか、周囲の虫が巨大な手の平に変わっているのだ。逃れようがない。
だが、その事に私の口は笑みに撓む。これこそが狙い通りなのだから当然だ。これで、一人でも味方の命が救えるならば――
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