第130話 逸神・腐乱
※※※ 閲覧注意。この話には、非常にグロテスクな表現が含まれます。ご覧になられる際には、以上の注意をご了承のうえ、自己責任でお願いいたします。 ※※※
弟の右手と、姉の左手が合わさる。
「「――漆黒の
弟の左手と、姉の右手が合わさる。
「「正子の闇は万丈の牢なりて、一切の咎人を呑み干さん】」」
二人はまるで、ここがダンスホールだと言わんばかりに、ステップを踏み、その顔を近付ける。そうして姉弟は、まるで睦言でも紡ぐ恋人のように笑みを浮かべて、その名を告げた。悍ましき、死神の名を――。
「「【
姉弟を中心に、ぶわりと闇が広がる。それは一瞬、先の夜の軍勢の再来かと思った。だが、違う。なにより違うのは、その匂いだ。
強烈な腐臭……。それも、人の肉が腐った独特の死臭だ。
次に感じるのは、ブブブという特殊な羽音。これもまた、耳慣れた音であり、蠅、虻、
「うわっ!? おい、どうしたッ!?」
愛馬が暴れ出した仲間の声が聞こえる。恐らく、虫が馬の耳か目に入ったのだろう。それ自体は稀にある事ではあるが、いまのこの状況で、馬を宥め、治療を施すのは困難だ。
それが切っ掛けになったのか、戦場にいた馬があちこちで暴れ始める。先程までは、恐怖に縛り付けられて動けなかったようだが、その箍が外れてしまったらしい。
私の馬も暴れに暴れ、残念ながら仲間に被害を出す前にその首を落とす他なかった。もはや従士に任せようと、騎馬の動揺は静まる事はなく、このような状況で放せば、暴れ馬として味方を混乱させ、最悪我らの陣を我らの馬が蹂躙しかねない。
体重数百キロ、下手をすれば一トンに届く巨大生物が、縦横無尽に暴れ回るというのは、それだけ脅威なのだ。案の定、そこかしこで同じような光景が見受けられた。
そして、兵らを指揮すべき騎士たちが、己の馬の命を摘み取っている間に、今度は
「う、うわぁッ!?」
「な、なんだ?」
「お、おいッ! その足!!」
「か、顔が!?」
あちこちから、悲鳴と動揺の喧騒があがる。その騒ぎは、とある場所を中心に徐々に広がりを見せる。その中心については、言うまでもない。
「うわぁぁああああああッ!!」
私の近くでも、悲鳴があがった事で、彼らがどうして騒いでいるのかがわかった。悲鳴をあげた男の右腕が――蝋のような白さになっていた。まるで生気を感じない色合いであり、それが己の手であると思えば、大の男が悲鳴をあげてしまうのも無理からぬ話だ。
だが、それだけではなかった――……。
「う、動いてる!? な、なにかが、動いてやがるッ!!」
その男の皮下で、うぞうぞとなにかが動くのが、真っ白な肌越しにわかってしまった。その瞬間、それまで感じていたものとは別種の、生理的な嫌悪感と恐怖が、背筋に走る。
「む、虫だッ!! 虫が原因だッ!! 魔術師! 虫を焼き払えッ!!」
「バカ言え!! 味方ごと焼くつもりか!?」
「おい、ふざけんなッ! 本当に火を放つヤツがあるかッ!?」
「ぎゃぁぁああああ!? 火ィ、火がぁ!?」
急速に混乱が広がっていた。私を含め、下馬した騎士たちが必死に混乱を鎮めようとするも、完全に焼け石に水でしかない。どころか、恐慌は際限なく広がり続け、その度合いを深刻なものに変えていく。
「た、頼む!! こ、この足を切り落としてくれッ! む、虫が、虫が、体を上がってくるんだ!! そこから腐っていくんだよぉ!!」
「おい、やめろッ! そんな場所から切り落としたら、出血で死んじまうッ!!」
「か、構わねえ!! 虫に食われて全身腐って死ぬくらいなら、いっそ一思いに殺してくれ!!」
「慌てるなッ!! まずは回復術師に診てもらうのが先決だ、後送するからそれまで――」
「ふ、ふざけんなッ!! そそそそれまでに全身腐って、む、虫に食い尽くされちまう!! そ、そんな事になるく、くくくくらいなら……――」
「おい、よせ――」
兵が、己の腰の剣で喉を突くのが見えた。急速に戦場に広がっていく、屍蝋化の病。その原因が、いまも戦場に蔓延している羽虫共である事は明白だが、兵らはそれ以上に根本的な原因が、ハリュー姉弟である点を失念している。あるいは、無意識に姉弟を頭から排除しているのか……。
「悍ましき妖術の使い手よ!! 死神の使徒、ハリュー姉弟よ!! 我こそはネイデール帝国一の武人、スヴァン・プーテンである!! いざ、尋常に勝負せよ!!」
武辺者で有名なプーテン男爵家の嫡男、スヴァン殿が私と同じ観点からか、戦場のただなかで踊る姉弟に名乗りを上げる。二人はスヴァン殿を瞥見したものの、すぐに顔を戻して見つめ合うと、口上を返す事もなくクスクスと笑ってなにかを口遊む。
どうしてこの状況で笑えるのだろうか……?
「ぶ、無礼な!」
スヴァン殿が、口上を返さなかった姉弟に対して憤慨する。一連の行動により、否応なく兵らの注目が姉弟へと集中してしまった。そして誰もが、畏怖のこもった視線で、スヴァン殿と姉弟のやり取りを見守る。
この機に乗じて、自らも姉弟の討伐に動こうとする者は皆無だった。誰だって、恐怖には抗えないのだ……。
腐臭と悲鳴、死と疫病の渦中で踊る瓜二つの双子姉弟は、まさしく死神のようであり、その姿を見るだけで恐怖が湧いてくる。まるで、マグナム・ラキア同盟が信仰しているという多神教において、冥府に館を構えるという、死と眠りを司る双子神のようですらあると思った。
「お覚悟召されぃ!! 我、其方らを討ち奉り、狩猟の神へと供物として捧げん!!」
言うが早いか、スヴァン殿は
本来、一神教である神聖教圏では許されない事ではあるが、元々我らは遊牧民であり、マグナム・ラキアと似たような多神教を信仰してきた民族だ。こんなときに縋る相手は、名も知らぬ神聖教の唯一神ではなく、馴染み深い狩猟と決闘の神――ユーダリルである。
正直、生まれてこの方本気で神を信じた事などなかったが、この状況において、心の拠り所は神だけだ。実際、神へ縋った途端、心身を苛んでいた重圧が、幾分か減じた気がする……。
なるほど。相手が死神ならば、真摯な信仰こそが対抗手段か……。
「うぉぉぉおおおおおおおおおおッ!!」
大上段に振りかぶった
どうか、ユーダリル神の加護の許で、あの悪魔を打倒してくれ、と……。
祈りのような願いを受け、スヴァン殿が地を蹴る。もう少しで、姉弟を間合いに捉える。
「い、いけぇ!! スヴァン様ァ!!」
「お、お願いだッ!! そのクソったれな双子を、さっさと殺してくれッ!!」
「おお……っ、ユーダリルよ……っ。どうかスヴァン様にご加護を……ッ!!」
兵らからの切なる願いを受け、スヴァン殿は姉弟に躍りかかった。いよいよ、その
ブブブという耳障りな騒音が、その大きな手を形成しているのが、先程まで周囲を飛び回っていた虫であると伝えてくる。見れば、戦場を飛び回っていた虫たちは、その姿を消していた。
すべての羽虫が、あそこに集結している……?
「ぬおッ!? きっ、奇怪な! だがこの俺が、羽虫如きにどうに――」
虫の群れで形成された腕に囚われたスヴァン殿の声が途切れ、誰もの脳裏に最悪の想像が
それは、白く蛆の湧く、腐肉だった。
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