第126話 勝者と敗者

 左の肩口に噛み付いている歯は鎧を貫き、右の肩と左の腿を鋭い爪でしっかりと握られている。なまじな膂力ではない。肩の傷は、鎧下も貫いて肌に届いているだろう。

 クソッ! ベアトリーチェの狙いは、端からこれかッ! 竜ともなれば、下級といえど上級冒険者が相手するもの。その竜が、本来の形で襲い掛かってくれば、なまじな相手ではない。まして、敵兵の一騎としておざなりな対応など、できるわけがないのだ。

 そんな事を考えていた私の耳に、少し離れた場所からあがった声が届く。


「エンツォ・エウドクシア討ち取ったり!」

「首は討ち捨てにしなさい! その手柄、わたくしがしかと覚えました!!」

「応!!」


 大音声で交わされる敵らの声に、自身の危機的状況を実感してジタバタと足掻こうとする。このままでは死ぬ! 確実に、殺されてしまうッ!!

 我が軍の大半は傭兵だ。忠誠心など皆無であり、先程までの意気も、手柄が取り放題の追撃戦だと思ったればこそだ。敵の騎兵が現れても突撃を取り止めなかったのは、それが騎馬突撃の常識であるからだ。あの状況で怖じ気付いて足を止めたところで、衝撃力のなくなった一団に、衝撃力が残ったままの敵が突撃してきて、一網打尽にされてしまう。

 だが、その突撃もほとんど相討ちであり、敵騎兵戦力は健在だ。こちらの残存戦力的にも余裕はあるのだが、代わりに私とエンツォという、兵らに指示を出せる頭を刈られてしまった。

 少ないながらもいた、エウドクシアの騎士たちにとっても、この状況では二の足を踏むだろう。家督継承における本来の主流であるベアトリーチェが、筋目の面では弱い私と弟を下したのだ。これ以上無理に戦闘を続けても、今後の家の存続という面では、百害あって一利もないと見る可能性は十分にある。

 早いところ、なんとかしなければ本当に取り返しがつかない! 私は必死に脱出を試みるが、藻掻く事すらおぼつかないような拘束で如何ともし難い。

 馬とは違う、どたどたという左右への振動が、自分が戦場から遠ざかっているのだと実感させられ、それだけ己の生存の道が閉ざされる兆しに思えて、必死に足掻き続ける。その頭上では、ベアトリーチェらの余裕に満ちた会話が交わされている。


「退却! たいきゃぁーくッ!! 我らの目標は達成した! これ以上の戦闘は無用である!」

「勝者に相応しい、優雅な退却を心掛けてくださいな。これは、わたくしたちの完勝なのですから」

「はッ! 聞いたなッ!? 我らの勝利だ! 完勝だ! 凱旋のつもりで退却せよ!」

「「「応ッ!!」」」


 端から聞いているだけでも、兵らの声に意気があるのがわかる。私たちに付き従っていた兵らに、これ程のやる気があっただろうか。だとしたら、私とベアトリーチェとで、一体なにが違ったというのか……?


「……あづッ!?」


 なんとか拘束を抜け出そうとして足掻く、私の抵抗が鬱陶しくなったのか、左肩の顎門あぎとが狭まり、灼熱の痛みが荊棘けいきょくの痛みへと変わる。そのせいで、呻き声をあげてしまった。


「あら? どうやら生きておられたようですね、フィリポ叔父上。御運はおよろしいようですわね。お久しぶりです。お顔は拝見できませんが、姪のベアトリーチェですわ」

「ぐぅ……ッ!?」


 ベアトリーチェの声音からは、ありありと勝者の余裕が窺えた。痛みとは別に、屈辱からも歯を食いしばり、とてもではないが挨拶を返す事はできない。

 ベアトリーチェも、どうやら私からの返答など求めていなかったようで、すぐに己の竜へと話しかけ始めた。


「あなたは本当に頭がいいのね、アルティ。わたくしの、生け捕りにしたいという意図を理解して、手加減して捕らえているのね? でも、もしもそれが痛痒であれば、とどめを刺しても構いませんわ。あなたの歯一本、鱗に傷一つをくれてやる程の価値は、その男にはありませんもの」

「ま、まで――ッ!?」


 明らかに、主人から獲物を殺す許可を得たと思って、顎門の咬合を強めた竜の挙動に、私は抵抗をやめて声を発する。

 もはや、抵抗は無意味……。私は、敗北したのだ……。それを実感し、私はがっくりと項垂れて、ただブラブラと左右に揺られて運ばれていく。

 兄を裏切り、甥を殺し、それで得たなにもかもが……――私の人生のすべてが、烏有と帰した。このまま大人しく捕まっていたところで、ベアトリーチェが私の助命などするわけがない。

 いや、仮にベアトリーチェにその意思があったとしても、この戦の大義名分たるエウドクシア家の家督相続問題において、侵攻軍が私を赦す事などあり得ないのだ。どの道、私に待ち受ける運命は、もはや破滅しかないのである。


「叔父上」


 頭上から声が聞こえる。厳かで、落ち着いた声音。一軍の将に相応しく、エウドクシア家の当主に相応しい威厳に満ちた声音だった。

――兄上を思い出す。


「わたくしは、あなたの事を許しません。生涯、許す事はありません」


 決然とした言葉に、なにを当たり前の事をと首を傾げる。それだけの事をしたのだ。最初から、兄上の家族からは恨まれ、憎まれるのは織り込み済みだ。許されようなどと、ムシのいい事は考えた事もない。


「ですが、わたくしはあなたたちの事を恨みません。死後、その名を辱める事もありませんし、叔父上の家族に対しても、なにかをするつもりはありません。流石に、家中には戻せないでしょうが、奉公構ほうこうかまえにもいたしません」


 苦笑しながら「まぁ、ナベニポリスの統治は帝国の者が行うでしょうから、その者次第ではありますが」と付け加えるベアトリーチェの声音には、たしかに恨みつらみといった薄暗い感情は窺えない。


「な、なぜ……?」


 幾騎もの馬蹄の音や、ガチャガチャという鎧の音の中では、あまりにも微かな自分の声が、果たして届いたのか否か。ベアトリーチェは言葉を続ける。


「理由は、この一戦を以って、わたくしはあなたたち兄弟に対する復讐を遂げたからです。これ以降は、一切の遺恨を残しませんし、グダグダと陰湿な嫌がらせもしません」


 なぜだ……。今度は口に出さず思った。

 親を殺され、兄を殺され、自身とて殺されかけ、失敗したとはいえ弟には娼婦として売られたのだ。そこからどうして、帝国の将として返り咲いたのかは、いまだに謎ではあるが、並大抵の苦労ではなかったはずだ。

 それを思えば、一族郎党根絶やしにされても文句を言えるような立場ではないのに……。


「この舞台の主役として、そのような無駄なシーンに尺を割く余裕がありません。わたくしというの価値を下げてまで、やる意義も見出せません。なので叔父上、ご安心を。以後、あなたとあなたの家族の出番は、わたくしの舞台には、悪役としてすらもございませんので」


 舞台……。舞台……か。


「なるほど……。ハハ……、た、たしかにこれは、実にできた台本シナリオだった……」


 そう考えれば、ベアトリーチェの言葉にも頷けよう。悪役が、エピローグにまで出張るなど、無粋もいいところである。思わず笑ってしまった。

 どうやらベアトリーチェは、己を舞台役者に見立てて、主役を演じるように、将として立ち振る舞っていたようだ。なるほど、竜公女ドラキュリアなどと呼ばれるのもむべなるかな。当人が、竜公女という主役を演じているのだからな。


「なぁ、ベアトリーチェ……」


 馬蹄と鎧の騒音のなか、聞こえるかどうかもわからない相手に、私は話しかけた。敵としてではなく、以前のような姪に話しかけるような声音で。


「もしも私を、恨んでいないというのなら――……」


 私は、このうえ厚かましくも姪に願った。その方が、彼女の舞台のクライマックスとしても、映えるだろうという思いもあったが、やはり第一はこれ以上の恥の上塗りはごめんだという現実からの逃避が目的だった。

 果たして、その願いは聞き届けられた……。



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