第122話 サイタンの戦い・2
迫る。迫る。迫る。
もはや一人一人の表情がわかる程に、ゲラッシ伯爵軍が肉薄していた。ドドドという、彼らが駆ける足音も、軽い地響きと同時に感じられる。
未だ黒騎士は戦列の内で戦い続けているが、彼が突破した穴は既に埋めた。問題ない。大丈夫だ。
緊張に、ゴクリと喉が鳴る。兜の中の顎に、汗が滴る。バクバクと、心臓が緊張と恐怖に震える。
「槍を構えよ!! 構えよ!! 伯爵軍の馬鹿どもを、そのまま串刺しにしてやれ!」
指揮官の声に、最前列の兵士たちが槍を構える。無論、夜の軍勢相手にも構えていたが、幻影が消えると同時に、その槍衾に多少の乱れが生じていた。それを、号令一下、改めて構え直したのだ。
ギャーという悲鳴が聞こえ、ついついそちらに目をやる。いまなお、夜の軍勢が消えたあとも残った、幾騎かの骨の騎兵。それが、我が軍の歩兵の中を暴れ回っていた。
だが、大丈夫だ。既にその数も半分になりつつある。倒す度に、黒い霧が溢れ出して、周囲に漂っているのは多少厄介ではあるが、いずれあの混乱も終息するはず。
「――衝突するぞ!!」
近くで聞こえた声に、改めて最前線に目を戻す。伯爵軍と我が軍との間は、もはやこの距離ではまったくわからない程接近していた――。――、
「――は?」
――……は……?
誰もが、その瞬間、なにが起きたのか、認識はできても理解はできなかった。それでも、目で見た光景を頭で無理やり言語化するなら、敵軍が消えたのだ。先の夜の軍勢と同様、まるで幻だったかのように、我が軍と接触した途端に、フッと消え失せたのである。
どういう事だ? あの軍勢もまた、幻術? だが、そんな事をしてなんになる? 術者が既に、こちらの陣内に飛び込んでいるのだぞ? このままでは、ショーン・ハリューは多勢に無勢で討ち取られる。まさか、それを承知のうえで、己の命を犠牲にしての囮に――囮? なんの為の?
そもそも、あれが幻なら、本物の伯爵軍はどこにいる?
私は、先程まで伯爵軍がいた場所を見る。当然ながら、そこにも敵軍はいない。数騎の騎兵がまばらにいるのみだ。
では……――ッ!?
「まずいッ!!」
私は、伯爵軍が側面を預けていたはずの森林地帯へと、勢い良く顔を向けた。
その瞬間、冬でも青々とした葉が茂っていたはずの針葉樹林が、煙のように消え去り、代わりとばかりに、きっちりと横陣を敷いた伯爵軍が、いままさにこちらに襲い掛からんと、満身の力を込めていた。その背後には、先程まで我々が見ていたものとそっくりな、針葉樹林が並んでいる……。
本物の森の外側に、幻の森を被せて、そこに軍を隠していたのか。そして、我々の正面に幻の軍を置いておけば、森に多少の違和感を覚えても、そちらを別動隊だと思い込む。
そして、我らはその術中に、完全にはまってしまったのだ。彼ら、伯爵軍の戦意に滾った目は、我らの柔らかい横腹へと向いている。
ゾワりと、背筋を死神の手が撫ぜた気がした。
●○●
「ディラッソ様、斜線陣を用いましょう」
「斜線陣? いや、この状況では無理ではないか?」
僕のアドバイスに、ディラッソ様は首を傾げた。
斜線陣戦術の話は、ディラッソ様が最初に我が家を訪れたときにしたものだ。兵力の質も数も士気も劣る状況で、あのスパルタの軍勢を下した戦術である。もしも上手くいくなら、この数的劣勢を覆せるかも知れない。
だが、敵だって斜線陣くらいは知っているだろうし、知らなくともその目的はすぐに察する。それでは、対策を施されて終わりだ。
なにより、帝国軍はこちらよりも騎兵が多い。兵の機動力は向こうが上である以上、対応力も高いのだ。手薄になった側を騎兵で突破し、こちらを包囲しにかかるかも知れない。そうなれば、もう勝敗は明らかだ。
まぁ、とはいえこれはあくまで、古式ゆかしい斜線陣を敷いた場合の想定である。
「ディラッソ様。斜線陣の戦術思想ってわかります?」
「戦術思想? それは、一部の戦列を分厚くし、突出させ、いち早く敵陣を撃破し、敵横陣の側面を突く事ではないのか?」
「そうですね。端的に言えば、敵の横っ面を思いっ切りブン殴る事です」
「うむ。身も蓋もない言い方をすれば、その通りだな」
陣というものは、鈍重なのだ。後背や横腹を突かれると、即座にそれに対応できない。特に、斜線陣の全盛期である古代ギリシアで用いられていたのは、重装歩兵隊列――つまりはファランクスである。その鈍重さは折り紙付きだ。
そのせいで、予期せぬ攻撃を受けると、混乱が加速し、最終的には陣そのものが崩壊してしまう。そうなればもう、軍隊としての体を成せない。どれだけ兵士個々人の練度が高かろうと、軍というものはバラバラでは意味がない。
「それを真正面から行ったのが、最初の斜線陣です」
「そうだな」
「では、その戦術思想だけを抽出さえすれば、実際に陣を斜めに敷く必要は、究極的にはないとは思いませんか?」
「ほう。なるほど……?」
僕の言葉に、考え込むようにして顎に指をおくディラッソ様。しばらく考えていたが、まるで天啓でも得たかのような顔で、パンと柏手をを打った。
「そうか! あえて縦陣を敷き、敵側面へと回り込み、敵横陣を真横から攻撃する! これならば、陣はまったく斜線ではないが、斜線陣戦術といえるな!」
「はい。その通りです」
どちらかといえばそれは、斜行戦術的な考え方だが、残念ながらフリードリヒ大王やナポレオンの真似ができる程、伯爵軍には機動力もなければ練度も足りない。ついでに機動戦という概念すら、まだないだろうからなぁ……。
なので、今回用いるのはあくまでも斜線陣だ。機動力はほとんど必要ない。
「だがどうするのだ? 敵の側面に回り込もうとすれば、当然その横腹を突かれてしまう。それでは、まともに干戈を交える事もままならず、我らは瓦解するぞ?」
「そこで用いるのが、僕らという幻術師ですよ!」
「ほう。幻術師か……」
そう、幻術師だ。ここらで少し、彼ら一般人にも幻術というものの認識を、改めてもらおう。僕個人としては、幻術という【魔術】は、他のどんな魔力の理よりも、人間同士の戦争において役立つものだと思っている。まぁ、流石に手前味噌な感は否めないが。
これだけ簡便な欺瞞工作の手管があるのだから、指揮官からすれば非常に便利な駒になるはずだ。後方で、安楽死要員として使うだけではないと、ディラッソ様に教えてあげよう。
「まず、明け方に僕の方で霧を生みます。敵斥候の視界を塞ぎつつ、我が軍を北の森林地帯の前に移動させます。そこにグラが、森の幻影を被せれば下準備は完了です。移動完了後、霧を消してこちらの軍勢を、敵正面に配置します。この幻には戦闘能力など皆無なので、戦わせる事はできません」
「うむ、当然だな。だが、本当にそれ程大規模な幻影を、個人で作れるものなのか……?」
「丸一日維持するのは厳しいですけど、数時間なら問題ありません。グラなら丸一日維持する事もできるかも知れませんね」
まぁ、僕もできるけど。手の内のすべてを詳らかにするのは、流石に危機感が足りないと思うので、その辺は韜晦しておく。これから便利使いされるのも、ちょっと困るしね。特に、ディラッソ様みたいな軍師タイプにとっては、僕のような幻術師という駒は、手元にあったら存分に活用したくなるだろう。
「ただ、相手に【
「なるほど……。それは、生命力の理などで破られる心配はないのか?」
「【
言ってしまえば、ただの立体映像だ。触れれば幻だとわかるだろうが、それでも消えたりはしない。生命力の理や、同じく幻術の【勇気】なんかでも、【幻影】を解除する事はできない。
まぁ、その代わり直接相手に影響を及ぼすのも難しいのだが……。
「あとはまぁ、適当にこちらに視線を惹き付けつつ、相手を射程圏内に誘き寄せれば、一丁あがりです」
「う、うむ。なんだか、いけるような気がしてきたな!」
「ええ。まぁ、その代わりといってはなんですが、ディラッソ様はほとんど丸裸の状態で、敵軍と対峙しなければなりませんが……」
「え……」
たぶん、ポーラ様を始めとした数騎だけだな。攻め手にも、騎兵は必要だし。四〇〇〇人の敵兵の前に、騎兵数騎で対峙すると思うと、僕もちょっとビビるな。まして、僕という他人に命を預ける事になるディラッソ様の緊張は計り知れない。
愕然とした表情で僕を見ているディラッソ様に、僕はにっこり笑いかけた。
まぁ、このアドバイス通りにするのか、独自の戦術を編み出すのか、はたまた籠城戦にするのか。好きな方を選んでくれればいいよ。
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