第120話 不安と楽観

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 後にサイタンの戦いと呼ばれる、帝国侵攻軍とゲラッシ伯爵軍との戦闘。同時期に行われた、帝国とナベニポリスの総力を挙げた決戦と比べて、あまりにも小規模な戦闘であった為、その後は然して省みられる事もなかった戦だ。

 戦乙女。竜甲女。ドラキュリア。輝かしい異名と戦歴に飾られた、ベアトリーチェ・エウドクシアの悲喜交々の戦記の裏側で、その戦は火蓋を切り、たった一当てで終結した。

 それはまるで、ワールシュタットの戦いの裏で行われた、モヒの戦いのように。

 多くの者は、華々しく、胸躍らせるようなウォロコ決戦の逸話に惹き付けられ、サイタンの戦いになど見向きもしない。たまに興味を抱いたとしても、戦の趨勢を聞いては、顔を顰めてから話題を変えてしまう。まるで、ベアトリーチェという華を愛でていたら、その側らにあった馬糞でも見付けてしまったかのように。

 だが、軍事に携わる者らにとっては、ある意味それまでの常識が覆されるような、節目の戦である。少なくとも、この戦から【】が戦闘に深く関わってくる、契機となったのだから。


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 どうにも訝しい……。戦況は我々に有利に動いているというのに、不安はむしろ刻一刻と強くなっていく気さえする……。なんとも不穏な状況が、理屈を超えて気持ち悪さとなって、私の胃の腑を圧迫していた。


「ボ、ボーデン子爵殿、て、敵はどうして野戦になど打って出たのだろうか……?」


 本陣から敵陣を俯瞰していたローニヒェン男爵が、私の疑問をオドオドと代弁してくれた。私もそれが気になっていたところだ。

 帝国軍四〇〇〇は、サイタンの郊外に布陣している。戦場を見渡せる丘陵に陣取り、戦場となる予定の平原を一望できる立地だ。そしてそんな我々の前では、ゲラッシ伯爵両軍一四〇〇が陣を張っている。側面を森林に預けて、こちらが包囲にかかるのを避けている布陣だ。だが、やはりその兵力は、我らの半分にすら満たぬ。例え森林地帯に兵を伏せようとも、その数はたかが知れていよう。

 横腹を突かれても対応できるだけの手当てをすれば、それ程苦もなく倒せるはずだ。なにより、森林地帯から騎兵が突撃してくる事はない。それでは、これから敷く鈎形陣に対して、不意は突けまい。

 まともにやり合って、伯爵軍が勝てる見込みは高くない。それは伯爵軍全体の士気にも影響し、さらに勝率を下げるだろう。

 籠城して、第二王国軍からの来援を待つのが常道なのだ。しかし、現状はそうではない。その事が、酷く不気味だ……。

 勿論、こちらの挑発紛いの宣戦布告文に煽られたという部分もあるのだろう。先方の伯爵公子も、ウチの御曹司と同じ短気者である可能性もある。だが、それだけでこの兵力差を無視して、野戦に打って出るだろうか? どうしても訝しく思ってしまう。


「自明だな。いまのゲラッシ伯爵公子は、下に弱いところを見せられんのだ。既に重臣らからも離反者が出ている。敵軍に怯えて、城郭内に引き籠もっていたとなれば、いよいよ臣下の心は離れよう。第二王国からの援軍を待つ間に、伯爵軍などバラバラになろう」


 私とローニヒェン男爵の会話に割り込む形で、御曹司が嬉々と答える。なるほど、それはおおいにあり得る事だ。下手をすれば、こちらに降る手土産代わりに、臣下に寝首を掻かれる惧れすらある。

 それを避け、家臣らの心をつなぎ止めようと思えば、勇猛に戦ってみせるしかないと考えているのか。しかし、数の差は如何ともし難いはず。ここで手もなく敗れれば、それこそ士気は挫けようが……。


「こ――ディートリヒ様、それだけでなく敵伯爵軍は、我らにパティパティアの峠道を押さえられるのを、危惧しているのかと思われます。あそこを押さえ、二〇〇〇も兵を置かれれば、第二王国からの救援など不可能にございますれば」


 老将の一人が、落ち着いた声音で伝える。慣れた『公子』と呼びそうになっていたせいで、御曹司の表情は曇っていたが、その言はもっともである。

 なるほど、あの隘路をこちらの支配下に置ければ、第二王国全軍にも対処は可能かも知れない。サイタン、シタタンが第二王国の負担であるというのは、そういった交通の便の悪さも理由なのだ。

 とはいえ、兵力を半分に割るような真似は、我々にとっても悪手である。割らずに伯爵軍に背を見せるという選択肢もない。第二王国の援軍と鉢合わせすれば、挟み撃ちにされる惧れすらあるのだから。

 御曹司とて、あえて敵兵力と拮抗させるような真似はすまい。……タルボ侯との連携ができていれば、いま少し手勢も増えたものを……。


「それはできないぞ。敵は指揮官の不足から、兵にできぬ民を多く抱えている。この戦で伯爵軍に大損害を与え、幾人もの指揮官を討ち取れば話は別だが、そうでなくば敵兵力そのものは、それ程減らせまい。わざわざ、敵と兵力を拮抗させるわけにはいかん」

「左様でございますな。ですが、サイタンを押さえたとなれば、本国からの援軍も期待できましょう。その増援をサイタンの抑えとして、我らが峠を押さえるという事もできます。さすれば、パティパティア以西はことごとく帝国領。サイタンに籠城する勢力も、降伏以外選びようがありますまい」

「うむ……」


 老将の言葉に、御曹司はつまらなそうに頷いた。どうやら、自分の意見を否定されたと思っているらしい。若さ故かとは思うが、この気性はどうにかならぬものか……。これでは家臣が委縮して、意見が出し辛くなってしまうだろうに……。


「れ、例の姉弟の、特に弟はあの敵軍に、お、おるのでしょうか?」


 話題を変えるように、ローニヒェン男爵が冷や汗を拭いながら訊ねる。御曹司や他の将らも、忘れていたとばかりにその点を気にし始めた。まぁ、無理もない。

 どだい、軍を用いて一人の人間を亡き者にしようなどとは、信じられぬ話だ。だが、その者があのパティパティアトンネルを拓き、その対価として莫大な金貨を帝国に要求しているとなれば、納得できぬ話ではない。ないのだが……――。

 実際、いち早くトンネルの管理人を押さえようとした部隊からは、一切の連絡が途絶え、トンネルは塞がれたと聞く。

 御曹司は――


「塞がれたとはいえ、一度開いていた穴だ。また開けば良い。幸い、トンネルの硬度は落ちているそうだ。既に魔術師を送り、取り掛からせている」


――と楽観していたが、果たしてそのように軽く構えていて良いのか……。下手をすれば、今次の戦そのものが烏有に帰す事態になりかねないと思うのだが……。そもそも、そのような簡単な話であれば、タルボ侯がわざわざ秘密裏に他国の魔術師に、帝国中央が危惧する程の報酬を支払ってまで、助力を乞うだろうか……?

 自前の魔術師で可能なのであれば、初めから自分たちでやるだろう。少なくとも莫大な報酬を用意する必要まではないはずだ……。

 ううむ……。いかんなぁ……。状況の不気味さのせいか、次から次へと不安が押し寄せてくる……。


「その点は抜かりない! 手の者が、伯爵公子の傍らにいる姉弟の弟を確認した。あの没落娘と同じく、竜に乗っていたから見付けやすかったそうだぞ」


 意気揚々とそう発言してから、愉快そうに呵々と笑う御曹司。それに同調する者は、戦経験のない若者ばかり……。老練な者程、私やローニヒェン男爵と同じ不安に苛まれているのか、顔色が優れない。

 エウドクシア様の竜も、元々はその弟が調伏したものだとか……。彼が竜に騎乗しているのも、むべなるかなだが、その武力はあの令嬢とは比べようもあるまい。なにせ、上級冒険者なのだからな……。

 老将を始めとした譜代家臣らの顔色を窺えば、まるで負け戦に挑むような顔色だった。誠に大丈夫なのだろうか……?



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