第116話 悪魔と罠と盤上の駒
●○●
ショーンが消えた。
理由は定かではない。だが、その影響は瞬く間に、ナベニ侵攻軍に表れている。
これまでは円滑だった、後方からの支援が滞り始めたのだ。支配下にあった、ナベニ共和圏北部
そして――
「エウドクシアの旗を掲げた一団が?」
「ああ……」
侵攻軍司令部に呼び出され、そこで告げられた内容に、わたくしの背筋からぶわりとなにかが沸きあがるものがあった。その旗の許に、叔父二人がいるのは間違いない。
わたくしの復讐相手。それが、ウォロコから逃れようとしている……? ふざけるな。この状況で、おめおめと戦場から逃れようなど、許されるわけがない!
「追います。我が家の家紋を、あのような愚か者にこれ以上掲げさせぬ為にも、早急に追撃し、その首を獲ってきてみせますわ」
「待ってくれ。恐らく――いや、間違いなく、彼らは囮だ。君という、我が軍の戦う意義であり、精神的な支柱を、誘き出す為の布石なのだ。これに軽々に飛び付く真似は、相手の用意した罠に無警戒に飛び込むに等しい」
「では、皆様方は敵本隊を警戒してくださいな。わたくしは、エウドクシア軍を率いて、エウドクシアの紛い物どもから、旗を取り戻してきます」
わたくしの宣言に、将軍以下侵攻軍の首脳らは渋面を浮かべる。その内の一人が、まるで教え諭すようにわたくしに語りかけてくる。
「それこそが、恐らくは罠なのだ。間違いなく、不用意に近付いてきた君を待ち受ける為の策が施されているだろう。敵の手の内がわからぬ間は、下手に打って出ない方がいい」
「では、ここで拱手していろ、と?」
「……そうは言わぬ。適切なタイミングで、適切に攻撃を仕掛ければ良い」
「それが本当にできるのですか……?」
「なに……?」
まるで聞き分けのない子供にするような語りかけに、わたくしはその者を睨み返しつつ問い返す。その言葉の意図が伝わらなかったという事はないだろう。現に、その者の眉根は不愉快そうに寄せられて皺を作っていた。
「ショーンは見付かりましたの? パティパティアトンネルの通行は回復しまして?」
「「「…………」」」
答えはない。ショーンが消えた直後から、侵攻軍は後方連絡路を遮断され、ベルトルッチ平野に取り残された。勿論、下々の兵には伏せられているが、それまでショーンを抱えていた事もあり、わたくしもある程度の事情は聞かされている。
もっとも、ショーンはわたくしに挨拶すらなく姿を消した。侵攻軍首脳部から知らされるまで、彼が消えた事すら気に留めていなかった程だ。適当に、散歩でもしているのだろう、と。
また、彼らにとってわたくしは、なぜ彼が蓄電したのかも知らず、今後連絡を取る手段すら残っておらず、完全な役立たずであった。
侵攻軍には、十分な備えがある。兵站の崩壊から、即座に軍が瓦解するという事はない。それでも、いつまでも補給なしでナベニの領域にとどまっていられるわけでもない。
このままでは、先々確実に、侵攻軍は困窮に喘ぐ事態に陥る。あるいは、無闇矢鱈な略奪に及べば、軍の維持だけならできるかも知れない。だが、それをやってしまうと、今度は戦後統治において絶望的な遺恨になる事だろう。
海が欲しい帝国にとっては、その土地の民らに強い反感を持たれるような真似は、極力避けたいはずだ。場合によっては、この戦を起こした意義そのものが失われてしまう。
「……なぜ、彼が消えたのか、本当に心当たりはないのかね?」
将軍からの低い声音の質問に、わたくしは肩をすくめる。
「ありませんわね。なんとなれば、彼がわたくしに同道していたのは、あくまでもわたくしの足掻きを、特等席で鑑賞する為ですわ。この人生は、彼の娯楽として供されたものですから」
自分で言っていて笑ってしまう。本当に、寝物語の悪魔と契約したような話だ。
だが、その契約があったればこそ、わたくしのいまがある。そうでなくば、わたくしはアルタンの娼館の片隅で、何事も為せず逼塞していただろう。
「――ですがまぁ……」
ただそれでも、わかる事はある。あの悪魔が、なんの意味もなくこのような事はしないという事。なんの道理もなく、このようなつまらない真似はしないという事。
「この状況で、あの悪魔があなた方の不利になるような動きをしたというのなら、帝国の方からショーンに対して、なにかしらの敵対行為をしたのでしょう。彼は、盤上のルールを無視してまで、状況を掻き回す事を好むような、無粋な悪魔ではありませんから」
たとえば、ボードゲームをしていたとして、盤面が片方に有利に動いているからといって、彼はルールを無視してそこに横から手を突っ込んだりはしない。盤上の駒を、白黒頓着せずに滅茶苦茶に入れ替えてから、笑顔で「はい、これで面白くなったでしょう?」などと言うような、くだらない悪魔ではないのだ。
それでは、ルールもなにもあったものではない。単に運命を弄んで面白がっているだけの、悪魔というより、単に悪質なだけの餓鬼だ。
将軍が天を仰ぎ、呻くように呟く。
「――白昼夢の、悪魔か……」
「ええ。もしやあなた方は、彼のその異名を、ただの箔付けだとでも思っていたのですか?」
「正直に言えば、その通りだな……」
「でしたら、考えを改めておいた方がよろしいかと。彼の事は、本物の悪魔だと考えておいた方が、間違いがなくてよろしいでしょう。そうでなければ今回のように、彼を甘く見て、不埒な真似をする者が現れる度に、帝国は損害を被る事になるでしょう」
「肝に銘じておくとしよう……。敵対すると恐ろしいが、味方に付けても恐ろしいとは、本当に悪魔のような少年だな……」
「そうですわね」
将軍の人物評に、わたくしは即座に頷く。そうとしか言えないだろう。
「ともあれ、帝国軍に敗北の目が出てきた以上、わたくしは叔父二人への復讐を後回しにする事などできません。ここで二の足を踏めば、もう一度その機が巡ってくるかは未知数でしょう。流浪の身から、この場所まで至れただけでも、わたくしにとって現状は、望外の好機なのです。これ以上を望むべくもないからこそ、この機会をふいにする事などできません。この機を
罠があると覚悟して追うならば、実際にその罠にはまった場合でも、動揺は最小限に抑えられよう。なにより、復讐の機会を一生手放す恐怖に比べれば、多少の危険など、二の足を踏む理由にはならない。
「それに、ここでわたくしがエウドクシア家奪還に動かなければ、これまで掲げた大義名分が上辺のお為ごかしであると、認めるようなものではございませんか? 侵攻軍全体の士気にも関わるかと」
「……その懸念は、ないとはいえぬ」
「でしたら――」
「――だが、それ以上に、君を失った場合に起こるであろう、我が軍の士気低下の方が致命的だ。やはり、あまりこの状況で敵エウドクシア軍追撃は好ましくない」
「ふむ……」
まぁ、彼らの言いたい事もわからなくはない。我ながら、随分と持ち上げられてしまったものだ。帝国兵らの心の支えとなっている自覚も、それなりにある。
戦場での名声は、今後のわたくしの立場を思えば、あって悪いものではない。帝国にとっても、独立独歩の各
戦後統治の為にも、ここでわたくしを失うような真似をしたくないのだ。だが、わたくしも譲れない。
その後も激論を交わし続け、なんとかエウドクシア軍の出撃は認められた。それに加えて、侵攻軍からも五〇〇〇の兵が分け与えられた。これで、敵エウドクシア軍との兵力は五分五分だ。
わたくしの身を案じての気遣いだろう。それだけ、帝国軍も切羽詰まっているという事でもある。
そうして、その日の内にわたくしは、叔父たちのあとを追って、軍を発したのだった。
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