第110話 命と時間の価値

 ●○●


 フランツィスカの報告には、流石の私も動揺を隠すのが難しかった。タルボ侯もまた、愕然とした表情を湛えている。


「それは……――誠、なのか……?」


 たっぷり時間をかけて言葉を咀嚼したタルボ侯が、ゆっくりと嚥下するようにフランツィスカに下問する。だが当然、跪く彼が前言を撤回する事などない。当たり前だ。このような事、洒落や冗談で言っていたらフランツィスカの評価は、一気に地の底だった。

 だが、帝国にとってはその方がまだマシだったろう。


「既に、姉弟との交渉に人を向かわせております。早ければ一週間、遅くとも二週間程度で、接触は可能なはずです。某の勝手な判断で、交渉条件は丸呑みしていいと許可を与えました」

「それは構わぬ。帝位以外なら、なんでもくれてやる。良くやってくれた」

「は。恐縮でございます」


 深く頭を下げるフランツィスカ。だが、お褒めの言葉に対する返答に、喜色は一切見受けられない。事前にこの状況を防げなかった点を悔やんでいるのだろう。それは、私も同じだ。


「ベルトルッチにばかり、人と目を集め過ぎました……。私の判断ミスです」


 私の悔悟の言葉に、フランツィスカも頭を下げたまま、同調するように頷いた。【暗がりの手】としては、このような事が起こらないように取り計らうのがお役目なのだ。既に事が起こっている以上は、現状は失態以外のなにものでもない。

 驕った。ナベニ共和圏内の情報戦に注力しすぎて、背後が疎かだった。これは、【暗がりの手】の頭領である私の責だ。


「仕方あるまい。よもやこの戦において、パティパティアに防がれている本国で問題が起こるなどと、誰が予想できよう。それよりも、いまは眼前の状況への対処に全霊を注ぐ。責を負うだなどという悠長な真似は、一切合切が終息したのちの贅沢だ。いまは口にするなよ? それまでは、存分に働いてもらうからそのつもりでおれ」

「「はっ」」


 タルボ侯の命に、私とフランツィスカは揃って頭を垂れる。我らの自責の念を感じ取り、お気遣いをくださったのだろうが、それがまた己の不甲斐なさを思い知らされる。

 この状況で、主に無用な心労を加えるなど、不忠これに極まれりだ。なんたる無能か。

 空気を変えるように、タルボ侯は今後の事を詰め始める。我らもまた、汚名を返上すべく、それに聞き入る。


「ひとまず我らは、トンネルが再び開かれるまで、帝国軍を維持させねばならない」

「「はい」」

「トンネルが不通となった事は、兵らには隠す。これが公になれば、ただでさえ揺らぎの見える帝国軍は、内紛を起こしかねん」

「道理であるかと」


 タルボ侯の判断に私も同意する。そして、フランツィスカもまた、重々しく頷いた。

 ナベニ軍の妨害によって、帝国兵の士気はかなり低い。それでも現状、軍を維持できているのは、エウドクシア殿の献身とそのカリスマ性によるものも大きいが、なによりも帝国軍が優位にあるという点が、兵らの心の拠りどころとなっているからだ。

 だがここで、パティパティアトンネルという退路の封鎖を彼らが知れば、もはや軍の士気など維持できようはずもない。それだけ、故郷への道を閉ざされた兵士というものは、脆弱になってしまうのだ。

 だが、如何にして情報封鎖それを成すか……。その点はタルボ侯もご理解していたようで、すぐに言葉を続けた。


「ただし、まったく人や物の往来がなくなる点は、隠し果せるものではない。故に、トンネル内に敵間諜が入り込み、破壊工作を行い、それなりの人的、物的損害を被った事とする。ダメージの把握と修復に、トンネル内は一時封鎖、出入りする人員を厳選する。無用な接近者は、敵の間者としてあらゆる対処を許す。兵らにもそれを、周知徹底させよ」


 なるほど。完全に隠すのは不可能と見て、一時的な問題が起きたと為の封鎖と言い換えるのか。兵らも、トンネルの重要度は理解している。だからこそ、現状は重大事なのだから。

 それだけに、この厳重な対処にも納得は得られよう。ハリュー姉弟との交渉次第では、再開まで兵らに事態を覚られずにすむ。

 私とフランツィスカは、侯のご指示に同時に首を垂れて了承を告げる。ただし、その返答はなぜか、一様ではなかった。


「は」

「左様に、砦を任せたロークに指示をしておきます」


 フランツィスカの違和感のある答えに、タルボ侯と私は首を傾げる。私が口を開く前に、侯からのご下問があった。


「貴様はどうするというのだ? 砦守護の任を解いた覚えはないが?」

「はい。某は、オーマシラ連峰を越えて、帝国に入りたく、お許しをいただきに参りました。上首尾に運びましたならば、侯爵領により早く情報を届け、迅速な対処が可能になるかと」


 その返答に、タルボ侯はぎょっと目を剝いた。


「ならぬ。今時季のオーマシラに入るなど、ただの自殺ぞ。それならば、まだディティテイル方面から向かうべきであろう?」

「そちらには既に、レヒトを始めとした三〇名が。総員が、たとえ仲間の服を剥ぎ、その屍肉を食もうと、本国に情報を届ける覚悟はできておる者らです。ですがそれでも、全滅の可能性は拭えませぬ。より早く、より確実に情報を届ける為にも、打てるだけの手は打っておくべきかと」


 フランツィスカは、冷静沈着な声音で、懇願するように言い募る。感情の窺えない、無色透明な声だったが、そこには努めて感情を隠そうという意思が感じられ、常の彼から感じられぬ切迫感が滲んでいた。

 私としても、ここで成算の低いオーマシラ越えに、フランツィスカを使うのは反対だ。だが、その言には一定の理はあった。情報を届ける為に、大人数をオーマシラに入れるという事であれば、迷わず反対もしただろうが……。


「ディティテイル方面は、戦場より離れております。山越えが成せたとても、そののちの動きはどうしても遅れましょう。オーマシラを抜けられれば、二、三日早く情報を届けられまする。その二、三日が帝国の命運を左右するという事も、十分にあり得るかと。某の命を惜しむあまり、帝国将兵八万の命を危ぶむような真似は、許されませぬ。閣下、ご賢察を賜りたく」


 決意と覚悟を秘めたフランツィスカの声に、タルボ侯が気圧されるように呻吟し、口を開いては閉じる。彼のその言葉は、たしかにその通りではある。

 我ら間諜の命を惜しみ、多くの帝国臣民の命を脅かすなど、あってはならぬ。そも、我らは死ぬるも仕事の内。それは、我らを使うタルボ侯にも、ご理解いただけていたはずだ。


「……――ッ……。――ッ! ――な、ならぬ……。やはりならぬ。危地にあらばこそ! 貴様のような有為の者を、あたらに失うわけにはいかぬ。ディティテイルですら、踏破の可能性は十中一あるかないかであろう? さらに険しいオーマシラを、しかも貴様単独で越えるなど、無謀以外のなにものでもない! ただ死ぬ事など許さぬ」


 十二分に迷ったのち、それでもタルボ侯はフランツィスカの提案を却下する。それもまた、正しい言葉ではある。フランツィスカ程の人材を、ほぼ間違いなく失敗する任に就け、むざむざ死なせるなど、領主として、貴族としては、軽々に受け入れられまい。

 有能な人材というものは、統治者にとってはなによりもの宝だ。どれだけの金銀財宝を用いても、一度失われてしまえば、取り返しなどつかないのだから。

 それでもフランツィスカは言い募る。


「閣下。失敗しても、失われるのは某の命一つ。八万の命とは、比べられませぬ。たしかに成算は低くはございますが、成功すればその八万の兵らのことごとくを、帝国に帰してやれる可能性が高まります。それだけで、身命を賭すに足る十分な理由になり得まする。レヒトらもまた、それがわかっているからこそ、危険な任に就いたのです。それを命じた某が、どうしてこの命を惜しめましょう」

「……ッ」


 見上げるフランツィスカの瞳に、今度こそタルボ侯は気圧され、押し黙ってしまう。故に、侯に代わって私が命を下す。


「わかった。必ずや、オーマシラを越えて侯爵領へ情報を届けよ」

「はい」

「タチよ……」


 苦いものが窺える侯を嗜めるように、私は左右に首を振る。


「閣下、これが我らの役目にございます。事ここに至らば、その覚悟を汲んで命じてやる事こそ、主としてのお役目かと。現状の、軍の危機を鑑みれば、時間はなによりも優先されます。二、三日どころか、たったの一日、あるいは数時間程度であろうとも、それは我らの命よりも貴重なのでございます」

「…………」


 瞑目し、天井を仰いだのち、目を見開いて再び我らに顔を向けたタルボ侯の表情は、元の厳格な君主に相応しいものへと戻っていた。


「わかった。では、フランツィスカにはオーマシラ越山を命じる」

「は。ありがたき幸せ」

「だが、こうまでして役目を得た以上は、無駄死には許さぬぞ? どのようなものでも良い。成果を挙げ、我が前にそれを届けよ。其方の口から、ワシに言上せよ。これは命令である」

「は。必ずや、朗報をお届けいたします! ……はっはっは。なぁに、大丈夫でございますよ! 見ての通り私は、寒さには強いですからな。はい!」


 唐突に、謹厳な口調から常の商人のような言葉遣いで軽口を叩くフランツィスカがお道化ながら、ポンとその大きな腹を叩いてみせる。そのひょうきんな姿に、張りつめていた空気も緩み、私もタルボ侯も苦笑を禁じ得ない。


「それでは。黄金の時の砂は、一粒でも惜しむ状況にございますれば、私はこれにて失礼いたします。後々の事、侯爵閣下もタチ様も、よろしくお願いいたしますね」

「うむ」

「ああ。其方も存分に励め」


 これが最後になるかも知れぬと思いながら、私と侯爵閣下は長い付き合いの部下を見送った。

 惜しい……。あれがあと二〇若ければ、私の後継として引き留められた。だが、流石にほぼ同い年の男を、【暗がりの手】の次の頭領には選べない……。

 そんなフランツィスカといえど、冬のオーマシラ越山という任では、流石に無傷とはいくまい。当然、間者としての再起も難しい。

 いや、それは砦の守備として配した段階で、覚悟していた事ではある……。だが、それとこれとは話が別なのだ……。


「タチよ……」

「は」

「帝国は、手痛い損害を被ったの……」

「はい……」


 フランツィスカ程の人材を、まるで擲つかのように消費しなければならない現状こそが、帝国の苦境を物語っていた。すべては、我らの油断が招いた結果だ……ッ。

 誰かは知らぬが、このような事態を招いた者は覚えていろ……ッ。私を――【暗がりの手ドゥンケルハイト】を敵に回した事、必ずや後悔させてやる。



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