第94話 高度な政治的判断……?
狭い尋問室にいたのは、身綺麗な女性だった。お供はいない。
怜悧な顔立ちに、作り物じみた笑顔。灰色の長髪は手入れが行き届き、恐らくは旅装のマントの下から覗く衣服も、ただの平民とは思えぬ瀟洒な代物だった。
なるほど、これは兵士だけでは相手にできまい。下手に高圧的な問答をしたあと、相手が第二王国の貴婦人であったと判明したら、当人だけでなくその上長まで責を負わねばならない。一括で
とはいえ、私が身分も名乗らぬ者に、下手にでるわけにもいかぬ。流石に、その程度の気位は有している。
「我が名は、ユルゲン・フォン・ボーデン。勿体なくも、皇帝陛下より子爵の位を賜っておる、帝国貴族である。貴様が、第二王国よりの密使を名乗る者か?」
私の下問に、女は深々と頭を下げる。その所作は流麗で、間違いなくそれなりの教養を積んだ者の仕草だった。
「お初にお目にかかります。私は、第二王国はトラヌイ男爵からの使いでございます――」
女が顔をあげる。
「――グレイと申します」
そこに、薄っぺらい笑みを湛えながら。
「トラヌイ男爵……」
あまり聞き覚えのない名であり、当人は別段身分のある者ではないらしい。少し肩から力が抜ける。とはいえ、私が知っている第二王国貴族など、選定侯を除けば王冠領の貴族と、チェルカトーレ女男爵、シヴィレ子爵の他は、パツィンクス子爵くらいのものだ。パツィンクス子爵に関しては、有名ではあるものの、然して影響力のある御仁ではない。
しかし、こうまで堂々と名乗る以上は、密使であるという言葉は誠なのだろう。
他国であろうと、実際に貴族家の名を出した以上は、洒落や冗談では済まされない。万が一、眼前の女が詐欺師の類で、適当に第二王国貴族の名を出したのであれば、それだけで死罪にあたる行為なのだから。
もしも、当たり障りなく事を済ませたいのであれば『然るお方』とでも言っておけばいいのだ。
「証はあるか?」
「はい。ですが、
おずおずと申し出るグレイと名乗った女に、私はぴしゃりと言い放つ。
「ならぬ。公子殿に、素性の知れぬ貴様を近付けるわけにもいかねば、得体の知れぬものを、検めもせずに渡すわけにもいかぬ」
「なるほど。道理ですね。それでは、ボーデン子爵様に検めていただきたく存じます。ですがどうか、他の方の目に入らぬ形で、内容は口外せぬようお願い申し上げます」
「うむ」
どうやら、なにがなんでも公子に直接お目通りさせろと言うつもりはないらしい。彼女の態度を見るに、初めからある程度の身分がある相手には、身の証を立てるつもりだったようだ。
グレイから手渡された書状には、それなりの体裁が整えられ、また知らぬ印章が捺されたものだった。そしてその内容も、他聞を憚るという言葉に違わぬ、重大事が記されていた。
私は早々に、その尋問室をあとにして、御曹司の元を訪れる。先程の事もあり、また自分も酒の匂いを漂わせての事で、非常に憚られたのだが、それを押してでもこの事は早急に、彼の方のお耳に入れておくべき内容だった。
「ふむ……」
手紙を一読したポールプル侯爵公子は、なにかを考え込むように傾げた頭のこめかみに人差し指を添えると、斜めにした書状を再読し始める。
「ボーデン殿。貴様は、トラヌイ男爵という名に覚えはあるか?」
手紙を読みながら問うてくる御曹司に、私は正直に答える。
「いえ……。寡聞にして……」
「そうであろうな。帝国北東に領を構える我々にとって、第二王国にいる雑多な貴族の名など、覚えても益がない。まだしも、クロージエン公国群の貴族の、膨大な名と家紋を覚える方が有益といえる」
「は……」
一応は、未だに無位無官である御曹司よりも、既に爵位を得ている私の方が、帝国の序列としては上である。だが、御曹司の態度はまるで下位者に向けるような代物である。
第二王国であれば、いかに彼が侯爵家嫡子であろうと、許されるものではない。このような真似をすれば、社交界においてポールプル侯爵家は我が子の躾もできぬのかと、笑いものにされるだろう。いや、それは帝国でもある程度同じか。
「だが、私はどうにも覚えがある……。不鮮明な記憶だが、第二王国選帝侯の一人、ラクラ宮中伯の懐刀の一人が、トラヌイ男爵という名だったような記憶がある……。本当に朧気な記憶だがな」
「それは、想像以上に重要人物ですね……」
「ああ」
このような、露見すればお家の取り潰しすらあり得るような書状に名を記す貴族など、トカゲの尻尾だと思っていた。だからこそ、予想外の大物の名に、正直驚いた。
「では、この話に彼の宮中伯が絡んでいると?」
「いないとは言えまい。もしも我々が、この書状を政治的に悪用すれば、この貴族は勿論、宮中伯にまで累が及びかねん。それを押してでも成したい事があり、我々の信用を勝ち取る為には、相応のリスクを背負わねばならなかったのだろう」
「それが、これですか……?」
私の懐疑的な視線が、御曹司の手元の手紙に注がれる。ハッキリ言って、内容は我々にとって好都合なものだが、第二王国にとってのメリットが感じられない代物だ。貴族の押印がなければ、詐欺として一笑に付す可能性が高い。
「そうだ」
だが、御曹司は実に上機嫌で頷き、断定的に肯定する。こうして後方に配置されて以来、初めての笑顔だったかも知れない。
「第二王国にとって、パティパティア山脈のこちら側にある領土の維持は、甚大な負担なのだ。まして、ゲラッシ伯爵はラクラ宮中伯の派閥。第二王国中央から離れたゲラッシ伯を、彼らは支援せざるを得ない。寄り子を守れぬ寄り親など、派閥の長としても大貴族としても、失笑を買うからな」
その言葉はわかる。貴族が派閥に属すのは、その派閥の長が自分らを守ってくれると思えるからだ。我々ポールプル派の貴族が、この御曹司の我儘に付き合うのも、ポールプル侯爵への恩義があったればこそであり、侯爵閣下が我々を庇護してくれるからだ。
ラクラ宮中伯もまた、派閥の長として、ゲラッシ伯を守らねばならない。それをしないのであれば、頼れぬ寄り親として、ゲラッシ伯は勿論、他の第二王国貴族も派閥から離れていくだろう。
「だが、第二王国中央から、パティパティアを越えた領邦への支援など、至難を極める。軍事行動において、距離というものが直接負担につながる事は、我々も此度の戦で痛感したところだろう?」
「は……」
本来、ポールプル侯爵は帝国の北東に睨みを利かせるのが役割だ。だが、今回のナベニ侵攻で手柄を立てる為、わざわざ帝国を縦断するように、南方へ移動するだけでも、費用的にも労力的にもかなりの負担だった。
大貴族であるラクラ宮中伯にとっても、第二王国の外れも外れにあるゲラッシ伯爵領への支援は、かなり大変なはずだ。だからこその、この申し出か……。いや、しかし、それでゲラッシ伯が納得するとは、とても思えないのだが……。
「此度の我が国の動きにも、第二王国は右往左往させられたようだ。そのせいで、直接関係もないのに、なかなかに無駄骨を折ったらしい」
「だから、その負担の原因であるゲラッシ伯爵領の一部を、帝国に占領させると? 国土を捨てるなど、にわかには信じられない内容ですが……」
それこそが、その密書に記された内容だった。自国の領土を他国に売り渡す、まさに売国奴の所業に、やはり密書の信頼性に疑問を抱いてしまう。
「元々、第二王国はパティパティアのこちら側の領土など、欲していなかったのだ。しかし、件の遊牧民に対抗すべく形成された包囲網の関係上、そして神聖教への建前上、致し方なく領さねばならなかった。だからこそ、この機に我々に返してしまいたいという腹だろう」
ふふんと鼻で笑う御曹司だが、ものはそれ程単純な話なのだろうか……? やはり、どうにも胡散臭い。
「ラクラ宮中伯にとって、自分が見限られる形で、寄り子であるゲラッシ伯爵に鞍替えされる事は、なにより避けたいのだろう。いまだ若い彼の宮中伯にとって、生涯拭えぬ惧れのある失態は、さぞ重かろう。だが、これ以上自派閥でのゲラッシ伯爵領への支援も、負担が重い。それよりは、我々に泥を被らせて、パティパティア山脈の向こうにある領土を放棄し、
そう言われると、正しいように思えてしまう。国の中枢を担う、大貴族たちの考えには、我々のような自領の事だけで精一杯な者には及ばない、高度な政治的判断というものがあるのだろう。
ゲラッシ伯爵の身になれば、とてもではないが容認できる話ではないだろうが……。
「ポールプル侯爵公子様、ではこの話に乗ると……?」
「ふむ……。そこは悩むところだ……」
今回の戦は、あくまでもナベニポリスとのものであり、わざわざ第二王国にまで戦線を広げるのは愚かでしかない。まして、公子の独断で第二王国との戦端を開いてしまえば、いかなポールプル侯爵の権勢といえども、庇い切れるものではない。
流石にこの御曹司といえども、軽々にこのような話に乗るような真似はしないらしい。その点に、秘かに安堵に胸をなでおろす。
「さて、どうするか……」
しかし、その不穏な呟きに、ざわざわと首筋の産毛が逆立つのを感じていた……。
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