第85話 タクティ山麓の戦い
見れば、不安そうなのはベアトリーチェだけでなく、その配下のシモーネさんやその部下も同じようだ。そして、その緊張が移ったのか、アルティやスタルヌートもどこか浮足立っているように見える。
ベアトリーチェたちはともかく、竜たちにとって僕は群れのボスのようなものだ。あまり不安そうにしていたら、彼らも動揺するか。
僕は、いつも通りの笑顔を心掛けて、軽い声音で笑う。
「大丈夫ですよ。帝国軍が優位にあるのは、間違いありません。ただ、これでも戦に参戦したのは初めての事で、柄にもなく不安になっているだけです」
「なるほど……? あなたにも、そのような人間らしい部分があるのですね?」
「当たり前でしょう。僕をなんだと思っているんですか……」
「悪魔ですわ」
おい。間髪入れずに答えるところじゃないだろ。少しは躊躇しろ。騎士二人も頷いてんじゃねー。彼等だけでなく、ベルントさんら帝国軍の面々も否定するでなく、和やかな作り笑いを浮かべてやがった事は忘れない。
そうして、その日の内にタクティ山を降りた僕らは、そのまま山道の出口に陣取った。その日は数百、次の日には三〇〇〇、翌々日に五〇〇〇程度揃ったところで、マフリース連合軍の到着が告げられた。
●○●
のちに【タクティ山麓の戦い】と呼ばれる、帝国のナベニポリス侵略戦の初戦の火蓋は、こうして切られる事となった。予めいっておくと、これは戦術的には特筆するようなもののない、ただの凡戦だった。だが、
●○●
南西の方角から、土煙があがっている。カラカラと乾いた風が端を擽る先では、緊張も露なベアトリーチェとその騎竜であるアルティが、平原の向こうに現れた敵軍を見据えていた。
流石に、この距離で敵に視認される事はないだろうし、まだ一〇キロ以上も離れている相手から攻撃される心配もないのだが、丘のうえにいるのは僕と彼女とその配下の二人のみだ。ここが戦場という事もあって、正直不安である。
この場所からなら、布陣する帝国軍と近付きつつあるマフリース連合軍の様子が一望できる。まぁ、本陣が置かれている場所なので、当たり前だが……。
「見ているだけで、不安になる光景ですわね……」
「まぁ、そうだね……」
帝国軍は見るからに油断し切っており、陣の端、敵軍に一番近い辺りでは鎧も身に着けずに寝転がっているヤツまでいる始末。布陣しているというよりは、寝泊まりしている天幕の外に出て、敵軍を見物しているような有り様だ。
「ほ、本当に大丈夫なのでしょうか……?」
「まぁ、帝国中央の将軍さんがいうなら、大丈夫なんじゃないかな?」
正直、戦術だの戦略だの、畑違いの事を偉そうに語るのは嫌だ。訳知り顔で、見当違いを言いそうで怖い。
僕の戦に関する知識なんて、所詮は歴女の母譲りのものでしかなく、なんなら史実なのか、後世で美化された逸話なのかすら怪しいものも多いのだ。いやまぁ、母の影響で歴史も好きだし、恐らくはたしからしいという蓋然性は担保されている知識だけどさ……。
「ショーン……、敵に止まる気配がありませんわ……」
「ああ……」
縦隊のままのマフリース連合軍は、まるで筆を水に浸けた際に、水面に広がる墨のように、無秩序に平野を侵していく。普通に考えれば、統制を取りつつ横列で陣を形成するものだが、その様子は一切見せず、その足も止まる気配がない。
にわかに慌ただしくなり始める帝国軍。自分たちは大軍だからと、油断していた兵たちは慌てて戦支度をすべく天幕に戻る。はてさて、これを観察していた敵軍は、この光景に違和感を抱けただろうか……?
帝国軍の兵らは、たしかに慌ててはいるものの、動揺という意味では、かなり薄かったという点に。
天幕の内に隠れていた残りの帝国軍兵士は、慌てている兵士たちと入れ替わると、完全に戦支度を整えた姿で即座に横陣を築いていく。天幕に戻っていく兵らも、先程までのだらけた姿などどこへやら。混乱らしい混乱もなく、まるで予定通りという雰囲気だ。
まぁ、予定通りではあるんだよね。
「大丈夫なのでしょうか……?」
「…………」
繰り返すベアトリーチェに、今度は返答する事が出来なかった。
僕の話を聞いた、帝国軍前線指揮官である将軍は「ならば、あえてそちらの方向に誘導しよう」と言い出したらしい。曰く、素人の僕に思い付くような勝機に、敵将が気付かないわけがない。気付いた以上は、飛び付かざるを得ない。飛び付いたら、心の準備が完了している我が軍に、負けはない。という論理だ。
いやまぁ、その通りなんだけれどさぁ……。それって向こうが、絶大なリスクを鑑みず、時間稼ぎという戦略目標を半ば放棄してないと取り得ない種段だってのは、わかってる?
いや、わかっているのだろう。攻めてこなければ攻めてこないで、元の作戦に戻ればいいだけだ。将軍からすれば、敵が攻めてくれば儲けもの。後々の作戦行動がスムーズに行える、という考えなのだろう。それは、おそらく間違いではない。
ただ、その誘発の為だけに、自軍の三分の一もの兵を遊兵化しているのは、どうなのかと思うのだ……。
せっかく五〇〇〇対五〇〇〇で、数のうえではイーブンだったのに、いま帝国側で防御態勢を取れているのは三分の二程度。残りの三分の一は、予定通りではあるものの、急いで装備を整えている最中だ。彼等も、戦支度を終え次第、戦線に復帰するとはいえ、激突の瞬間は確実に帝国軍は数的劣勢を強いられる。……いや、強いられるというか、あえてそうしたというか……。
わざわざそんなリスクを冒す必要があったのか、甚だ疑問だ……。意表さえ突かれなければ負けはないのだから、万全の状態で待ち受ければいいのにと、素人考えでは思わずにはいられない。
ベアトリーチェもまた、僕と同じ素人考えで不安を抱いているのだろう。同じ心情を共有しているせいで、気休めも言えない。
「まぁ、作戦はお偉いさんに任せるしかない。僕らが余計な口出しをできる領分は、とうに過ぎた。僕らは僕らの目的通り、ここで分かれよう。ベアトリーチェは本陣で待機。僕とシモーネさんは左翼へ」
「ええ……」
今度は、不安でなく不満から、表情を濁らせるベアトリーチェ。どうやらいまだに、自ら戦場に立ちたいという思いがあるらしい。
たしかに、彼女自身の手で戦功を立てられれば、後々帝国でのエウドクシア家を盤石のものとする事ができる。また、配下や使用人を雇う際にも、名声があるのとないのとでは、集まる人材も雲泥だろう。
戦場で身を立てる事に憧れる人間が減らないのも、そのメリットがあまりにも大きいからだ。デメリットは勿論、己の命や肉体を失うという絶大なリスクだが。
「まぁ、いまはまだ、君が無茶すべきタイミングじゃないってだけで、その内必ず、触れたくもないリスクを抱えなければならないときはくる。だから、そう焦る必要はないよ」
「そう……、ですわね……」
やはり顔色の優れないベアトリーチェを、シモーネさんの部下に預けて送り出すと、僕は彼に向き直る。エウドクシアの旗手である彼もまた、緊張に顔を強張らせていた。
僕は彼の胸当てをコツンと叩くと、軽く笑いかける。
「安心してください。あなたは、ただ旗を掲げていればいい。すべての面倒事は、僕が担う段取りになっていますし、防御に関してもできる限りの備えはしました」
「は、はい……」
シモーネさんの姿は、漆黒のフリューテッドアーマーである。勿論、その胸と赤のマントにはエウドクシアの家紋が刻まれ、所々から黄銅の鎖帷子が覗く為、黒一辺倒という色取りではない。だが、やはりその姿は、戦場にあっては異様だろう。
もしかしたら、シモーネさんにはこの戦で【黒騎士】なんて異名が付くかもしれないな。中二病の少年たちの羨望の的だ。良かったね。
僕は続けて、任せろとばかりに己の鎧の胸甲を叩く。
「あなたはただ、主であるわたくしについてくればいいだけですわ!!」
うーん……。アレだ……。ネタ感が強くて、自分でもちょっと笑いそうになった。鎧姿だし、自分の格好も見えないので、女装という意識も薄いのだが、流石に喋るとダメだな。
幸い、ここからは戦場だ。口を開く機会はそう多くないだろう。
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