第67話 絹を引き裂く乙女の悲鳴
「…………」
流石に、ここまで直接的に問われた事はなかったのだろう。凍り付いたままの表情で、ピクリとも動かなくなってしまったサリーさん。
それはそうだ。同じ貴族であっても、他家の、それも当主にこんな質問、なかなか投げかけられない。相手が女性でもあるのだから、なおさらだ。
僕だって、ゲラッシ伯の部下だったら、主の手前、直接問うのは憚られる。
「あの……」
その代わり、サリーさんの隣でこれまで静かにしていたセイブンさんが、軽く手を挙げて声をかけてきた。
「『妾』というのは、側室の使う一人称なんですか? 私の認識では、身分のある女性が使うもの、という印象があるのですが……」
「市井においては、そういう認識で浸透していますね。元々は、女性が自らを、子供のような未熟者と、謙譲して称するものだったそうです。ただ、武家の正室以外の夫人が、自らを
「そうなんですか……。寡聞にして知りませんでした」
「まぁ、大商人のお妾さんや、貴人の側室や妾などは、いまでも使っているそうですから、平民からすればいまだに『偉い女性』が使うものだと、勘違いしていてもおかしくはありません。元々の意味は、真逆なんですけどね」
神妙な面持ちで頷くセイブンさん。彼も、元は市井の出身だったから、そのあたりのニュアンスや来歴は知らなかったのだろう。かくいう僕も、グラに言葉を習った段階では、知らなかった話だ。
これを教えてくれたのは、ギルドの司書でもある老貴婦人である。あの人、貴族階級出身だから。
「僕の一人称である『僕』も、謙譲の意味のある一人称なので、できれば人前では使わない方がいいと、忠告をいただきました。ある程度の身分がある場合、弱点にも嫌味にもなり得るから、と。上級冒険者になった段階で……」
僕が、自分に関係ない『妾』について覚えていたのも、この一人称の起源が『僕』と対になるものだったからだ。それに加えて、この辺りの言語に、日本語と同じく人代名詞が豊富だったという類似点があったのも、記憶の取っ掛かりとなった。
まぁ、『妾』は途中でおかしな風習と意味が混ざったので、『僕』には愛人のような意味はないが。
「ああ、なるほど。そういえば私も、上級冒険者になるまでは、『俺』でしたね。リーダーであるワンリーに言われて、矯正しましたが」
なにかを思い出したように、セイブンさんが納得の声をあげる。まぁ、ある程度立場のあるいい大人が、人前で『俺』はないよねぇ。
その辺り、気にしない人は気にしないだろうし、冒険者という立場であれば口喧しく注意を受ける事もまずない。だが、セイブンさんは【
僕も、市井でしか生きるつもりがなかったから、忠告はありがたかったものの、ぶっちゃけその辺りの言葉遣いを直すつもりはなかった。だが、もしもゲラッシ伯の配下となって、お偉方と会う機会が増えるなら、僕も言葉遣いには気を付けなければならない。
細かいところで育ちってのは出ちゃうからなぁ……。そういう点を、ネチネチチクチクと突いてくるのが、社交界というものだと、老貴婦人は言っていた。はぁ……、面倒臭い……。
その点、聖職者はいいよなぁ……。あの人たち、むしろ自らを卑しめる方が美徳に見えるんだから。以前のオーカー司祭の『拙』や、その後ろにいた太ったおじさんの『小生』も、謙譲の意味を含む一人称だ。聖職者の場合は、それでもいい。お坊さんが自分を、愚禿と称するようなものだ。
「でも、貴族の場合は……――」
「…………」
普通に考えて、貴族家の当主であり、未婚であるサリーさんが、そのような一人称を使うべきではない。侮りを受けたり、場合によっては結婚が出来なくなってしまう惧れすらある。
古い武家の慣習であり、既にそのようなものは形骸化している。セイブンさんの言った通り、一般的には『偉い女性が称するもの』とも認識されている。だが、貴族社会というものは、できるだけ難癖を付けられないよう、言葉遣いには気を配るものだ。
普通なら、こうまであからさまな弱点を、直さないわけがないのだ。
だが、それでもあえて使う理由があるのだとしたら――
「まるで『自分は然る高貴な身分の方の愛人だから、他の男どもは声をかけて来るな』と周囲に対して、暗に宣言しているように、聞こえてしまいます……」
「――違いますッ!!」
そこでようやく再起動を果たしたサリーさんは、顔を真っ赤にして、間延びした口調すらかなぐり捨てて、己の不貞を否定した。まぁ、固まった時点で、もしかしたらそうじゃないかと思ってはいたけど……。
「まして、サリーさんは女性でありながら、貴族位を有しています。下手をすれば、その爵位を得たのも、そういった男性からの後援があったればこそかと、邪推を生みます。悪意がなくても、あそこまで堂々と称されてしまうと……」
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!!」
頭を抱えて蹲ってしまったサリーさん。彼女程の人材であれば、後ろ盾などなくても、国に対していまの地位を得るに足る貢献を果たしてきたのだろう。実際、この様子を見るに、どこの貴族からも支援を受けず、彼女は女男爵として身を立てたようだ。
だが、彼女自身が『自らは妾である』などと称している以上、やはりその後ろ盾の存在は気になってしまう。誰かわからなければ、なおさらだ。
「なんで、誰も言ってくれないのよぅ……。嫌味の一つでも言ってくれれば、すぐに気付けたのに……」
呻くようにそう呟くサリーさんに、僕は呆れたように言い返した。
「言えるわけがないでしょう。あなたは一級冒険者にして【
ただの転移術師が相手であれば、普通の貴族だったらそこまで気を遣う必要はない。身分というものがある以上、下手な真似をすれば物理的に首が飛ぶ。だが、相手はれっきとした貴族家の当主である。また、そうまで誇示している彼女のバックがわからない以上は、軽々に敵に回せるはずがないのだ。
……まぁ、裏ではいろいろ言われていただろうが……。
個人で有する武力という点でも、絶対に敵には回したくないだろう。第二王国貴族たちにとって、自らの領地に緊急で討伐しなくてはならないダンジョンが現れた際に、迅速さにおいても、戦力においても、もっとも頼りになるのが、彼女なのだ。
「で、でも中央貴族たちなら……」
「それこそ口にできないでしょう。どこの誰があなたの後ろ盾なのか、わからないのですよ? まぁ、それは実体がなかったからですが……。ああまで堂々と称している以上、それが選帝侯か、それに準じるクラスの権力者であると思われていたでしょう。そんなの、指摘なんてできませんって。自分の上役を攻撃する可能性があるんですから」
「ちょっと待って! わら――私、選定侯の皆様の前でも、この一人称で通してきたんだけど!!」
「ああ、じゃあもう確実に、お相手は選帝侯の誰かか、王族のどなたかと勘違いされているでしょうね。選帝侯や、王族の方々にも」
「いやぁあぁあああああ!!」
「どうしましたッ!?」
絹を裂くような大絶叫に、ギルマスのイケオジ、バンクスさんとギルドの警備員がノックもなしにドアを開いて飛び込んできた。だが、状況のカオス具合に目を白黒させていた。
「どうしようッ!? どうすればいいの!?」
「そもそも、貴族なんですから、そのあたりはきちんと勉強すれば良かったのでは?」
「言ったでしょう!? 私、貴族教育なんてまったく受けずに、市井で冒険者になったの! 私にとっても、偉い女性が使う一人称って認識だったのよぉ!! 貴族になったのだって、一級冒険者になったつい最近の事なんだから、勉強が間に合うわけないじゃない!? っていうか、家庭教師たちも家庭教師たちよ! そこを、最優先で教えなさいよ!」
いやぁ……、だからそこまで堂々と称されると、言うに言えなかったんだって。彼らも、蛇どころか、竜が潜んでいそうな藪は、つつきたくないだろう。チェルカトーレ女男爵家のスポンサーかも知れない相手が潜んでいる藪なら、なおさら勘弁して欲しいと思うはずだ。
「爵位だって、本当は貰うつもりなんてまったくなかったのよ!? だけど、【
「ああ、要は今回の、僕らに貴族位を授けて首輪を付けようとしたのと、同じ状況だったわけですか……」
僕が一人納得していると、サリーさんの、混乱に任せた勢いが急速に萎んでいき、がっくりと肩を落として肯定する。
「そうよぅ……。他家の家臣になるって案も、当時私が考えたものよぉ。でもね、私個人ならともかく、【
あー……、つまり、あのときの献策は、建前としてゲラッシ伯の部下に僕らを登用させつつ、実質的には第二王国首脳部の傘下に収めるという意図があったわけじゃなく、以前自分が断念したものを、状況が似ていたからと披歴したわけか。なんだろう、この人やる事なす事空回りしている感じだな。少し前のベアトリーチェみたいだ。
いや、あいつはいまも、基本的には空回りしている。だが、良くも悪くも空回りなので、僕らやタチさんが状況を整えている間、悪影響を受ける事もなく、順調に事が進んでいるというだけだ。
「ちょっと待ってッ!」
忙しい事に、取り返しの付かない悪手を覚って萎れていたサリーさんが、またも勢いよく顔を上げる。
「もしかしてこれ、ワンリーも勘違いしているんじゃない!?」
ああ、もう一人の一級冒険者で、【
「まぁ、あいつは私よりもその辺りきちんとしているし、貴族たちと接する機会も多い。知っていてもおかしくはないな」
再び、サリーさんの絶叫がギルド内にこだました。
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