第17話 悪魔との取り引き
「そうか」
やがて、少年はあっさりそう言うとその身を翻した。
「傲慢であろうとも、決して卑屈にはならない。その一貫した君の姿勢には、それなりの好感を覚えるよ。まぁ、近くにおいておきたくはないが」
そう言ってからこちらに背を向けた少年は、ひらひらと手を振りつつ告げる。
「君は、これから歩む地獄で、今日のこの選択を何度も惜しむだろう」
「そう、なのでしょうね」
「何度も何度も、膝を屈し、頭を垂れた方が生きやすかったと、誘惑に駆られるだろう。そして、やむにやまれずそうせざるを得ない事もあるはずだ」
「それも……、そうでしょうね」
帝国を頼るという事は、最低でも帝国の皇帝には屈さざるを得ない。勿論、帝国における我々エウドクシアが、いきなりナベニポリスにおけるエウドクシア家のような地位を得られるわけもない。多くの帝国貴族を相手に、何度も頭を垂れねばならないはずだ。
いまここで意地を張る意味すらないように思える程、わたくしのこの先の人生には艱難辛苦が待ち受けている。それは既に、既定事項であり、逃れられぬ運命である。
さらにいえば、首尾良くエウドクシア家を帝国貴族家として認めさせても、その家を存続させる為には、帝国貴族の子息をわたくしの夫として、婿入りさせねばならない。頼りになる親族もおらず、わたくし一人でその段取りを取り図らねばならないのかと思うと、いまからでも挫けてしまいそうだ。
一瞬、娼館で男を手玉に取って悠々自適に過ごす己の姿を想像し、そんな未来に思いを馳せる。紫煙を燻らせ、薄暗い華美な部屋で妖しく微笑む自分は、なるほどそれはそれで絵になっていると思う。
だが、わたくしはもう選択をしたのだと言い聞かせて、甘美な誘惑を断ち切った。選ばなかった選択肢を惜しむなど、わたくしらしくもない。頭を振るわたくしの心情などお見通しだとでも言わんばかりに、少年は楽しそうな声音で言う。
「――どこまで君が、そのスタンスが貫けるのか、外から楽しませてもらうよ」
肩越しに振り向き、最後の挑発を付け加えながら彼は、夜陰の中へと溶けるように姿を消した。ヘレナの息を呑む声が、その背から聞こえてくる。
本当に、おとぎ話の悪魔のような少年だ。人を惑わし、取り引きを持ちかけて堕落を誘い、深淵の底からこちらを覗いている。あるいは本当に――いえ、この先を口にするべきではないだろう。
「一つよろしいかしら?」
代わりにわたくしは、完全に消えてしまった少年に対して訊ねる。本来は、初めて会ったそのときに、しておかなければならなかった事を。
「わたくしの名前は、ベアトリーチェ・カルロ・カルラ・フォン・エウドクシアですわ。あなたのお名前は?」
月明かりが照らす壁に向かって、軽く腰を落としつつ目を伏せて挨拶をするが、返答はない。しばらくそうしていたが、本当に消えてしまったのかと嘆息したところに、独り言のような声音で答えがあった。
「ショーン・ハリュー」
名乗り返してくれた事に安堵しつつ、わたくしは堂々と胸を張りつつ、彼を労う。
「そうですか。では、ショーン・ハリュー。昼間のモンスター討伐は大儀でした」
自分でもなにをいまさらとも思うし、礼を述べるにしては傲岸にすぎる口調だが、左手の人生を選んだわたくしが、その直後から誰かに頭を垂れるわけにはいかない。眼前にいるであろう悪魔とて、わたくしのそのような変節は望んでいまい。
やはりしばらく沈黙が部屋に蟠ったのち、クスクスとおかしそうに笑う声が返ってきた。
「なにか褒美として望むものはありますか? いまは手元不如意ではありますが、いずれ必ず、褒美を取らせると約束いたしますわ」
わたくしが重ねて問うも、しばらくはクスクスという笑い声ばかりが部屋に木霊していた。やがて、それも落ち着いた頃にショーンは答えた。
「君の人生」
それは――……
「わたくしを娶ろうと?」
「いやいや、そんなつまらない事はしないさ。君がこれから、七転八倒四苦八苦しながら、なにを得てなにを失うのか、なにを思い、誰を想うのか、その人生を観察させてもらう。今日の護衛の代価は、まぁそれでいいさ」
「なんだか、そう言われてしまうと、随分な暴利のように思えてしまいますわね……」
実際は、こちらが失うものはなにもないのだが、まるで本当に、悪魔との取り引きに、人生を差し出すように思えてしまう。だが、わたくしのそんな不平不満にも、暗闇はくすくすと笑い声を返すのみだった。
「白紙の請求書を渡す方が悪い。これからは注意するといい」
「ええ、肝に銘じておきましょう」
なおも笑い声は続いていたが、段々とそれも薄れていき、やがてそれも聞こえなくなる。今度こそ、ショーン・ハリューはこの部屋を去っていったのだと覚り、わたくしは肩の荷を下ろすように、大きく息を吐いた。
「お嬢様……」
振り返ったヘレナの顔が、月明かりの元でもわかる程に青褪めている。そんな可愛らしい使用人に笑いかけつつ、わたくしは疲労から説明は後回しにすると決めた。
「寝ましょうか、ヘレナ」
「え? あ、は、はい……」
状況を呑み込めていない彼女は、驚きに目を白黒させていたが、それでもわたくしの言葉に従ってくれる。幼い頃から、わたくしの面倒を見てくれた、気心の知れた従者に笑いかけて、わたくしは先程までヘレナが眠っていた寝床へと潜り込んだ。
温かい……。
「お、お嬢様?」
「ほら、ヘレナもいらっしゃい」
「い、いけません。エウドクシア家のご令嬢ともあろう者が、わたくしのような使用人と同じ床に就くなど!」
「あら? あちらに寝ようとこちらに寝ようと、寝具の質は然して変わらないのでは?」
ヘレナの言葉にクスクスと笑いつつ指摘すると、彼女はそれでも身分不相応な真似をするべきではないと言い募る。だがしかし、やはりわたくしも疲れていたのだろう、そういったヘレナのお説教に耳を貸せる程、睡魔の誘惑は弱くはない。
「お願い、ヘレナ。どの道、こんな事ができるのはいまだけなのよ。これまでは勿論、これからだって二度とあなたと同衾できる機会なんて、きっとないですわ」
「……だからこそ、そのような真似は……」
「お願い……」
繰り返したわたくしの片言隻句を読み取り、ため息交じりにようやく折れたヘレナをベッドに引き込み、彼女を抱き枕にして眠りにつく。
その寝心地は、最悪の一日の締め方としては、なかなかに上等な終わりだったとだけ、ここに明言しておく。
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