第16話 復讐令嬢
「――復讐、ですわ……」
わたくしがようやく応えた事に、少年の口元が僅かに緩む。
「なるほど。それならば、あの場でずっと黙っていたのも頷ける。安心したよ。もしかして、僕が君を救ったとか、絶望的な状況に希望の光が差しただとか、勘違いしているんじゃないかと思ってね。もしそうなら、忠告しにきたんだ」
クスクスと、耳朶を擽る笑い声。まるで、わたくしたちがその手の平のうえで弄ばれているように感じる、寒気のするような魔性の微笑だ。
「ベアトリーチェ」
敬称を付けずに、わたくしの名を呼ぶ少年。勿論、既に敬称を付けて呼ばれる身分ではないという点は自覚している。だが、一切蔑むでなく、嘲弄するでもなく、まるでそれが当然のように呼び捨てにする少年の声が、いまはどこか心地がいい。ただ、その安らぎにはどこか、遠雷のような危機感の警鐘が鳴っていた。
彼は、月明かりだけが照らす部屋で、まるで二つのなにかを掲げるように、両の手を持ち上げてみせる。
「いま、君の前には二つの選択肢がある。君のこれからの人生の在り方を決定付ける、重要な分岐点だ」
少年は右手を少し挙げる。
「一つはこのまま、イシュマリア商会に売られて、娼婦として生きる一生だ。ハッキリ言って、こっちの生き方はもう片方に比べれば、実に平穏で素晴らしい人生だろう」
それは、少年らがあの食堂で勝手に決めた、わたくしの扱いに反する話だった。どういう事だろう? 彼は、帝国のナベニポリス侵略に協力する立場ではないのか?
「イシュマリアは遊女の置屋としてはかなり上等なお店だし、君は出自が出自で、さらにはその美貌だ。客も選りすぐられるだろうし、その応対にもかなり自由が利く立場になれるだろう。勿論、きちんと娼婦としての立ち居振る舞いを習得できれば、という注釈はつくだろうが……。とはいえ、娼婦として生きるうえで、一番心配しなければならない、病気になる心配もほとんどないはずだ。万が一罹ったとしても、大事な商品だからね、イシュマリアが責任を持って治してくれる。そんじょそこらの娘よりも、はるかに安全で安心、裕福な生活を送れるだろう」
少年の右手には、わたくしの人生が乗っている。なるほど、そんな生き方も、わたくしの現状からすれば、だいぶマシな道なのかも知れない。陥穽に嵌まってしまったようないまの身にとっては、最良といっても過言ではない。
そして少年は、もう片方のわたくしの人生を、持ち上げる。
「そしてもう一つの人生。これは実に波乱万丈で、血で血を洗うような愁嘆場に永住する選択であり、得られるものもほとんどない人生だ。普通の人間として生きるなら、明らかに前者を選んだ方がいい。辛く、苦しい、茨の道でしかない」
その左の手の平から、悍ましいなにかが零れ落ちているように思えて、わたくしは一瞬たじろいでしまう。だがしかし、わたくしはもう選んでしまったのだ。彼らの思惑に乗って、あの二人の叔父に復讐するという道を。
「迷う必要もございませんわね! そんな二者択一は、回りくどく、意地の悪い説明をするから、前者の方がマシに見えるだけです。こう言い替えなさい。前者は『誇り以外のすべてを得られる人生』であり、後者は『誇りしか得られない人生』であると! そうすれば、わたくしの答えなど問うまでもないでしょう?」
わたくしの宣言に、少年は苦笑して肩をすくめる。まるで聞き分けのない子供にするような、やれやれとでも言わんばかりの仕草だ。
「僕からすれば、そんな言い方をしたところで、前者の方がマシに思えるけどね。君は帝国にとっては、濡れ手に粟の存在であり、元々なかった
矜持を捨てる選択肢という、わたくしの言葉尻を捉えてだろう、そんな言葉で
促してくる少年。まるで、堕落を促す悪魔のようで、実に意地が悪い。そして、わたくしもその選択肢の提示に、逡巡してしまう。やはり、平穏無事な人生というのは、それだけ魅力的ではあるのだ。
一瞬、わたくしを庇っているヘレナを盗み見る。彼女の事を考えれば、わたくしはここで膝を折るべきだと自覚する。わたくしが選ぼうとしている道は、あまりにも過酷で危うい。その危険に、否応なく彼女も伴ってしまうのだ。
わたくしが道半ばで倒れれば、彼女もまた道連れになってしまうだろう。わたくしに降りかかる災難は、彼女にも及ぶだろう。むしろ、わたくしの弱点として、真っ先に狙われるかも知れない。
だが、迷いは一瞬だ。わたくしがわたくしである限り、やはり選択の余地などない。
「わたくしは、エウドクシア家のベアトリーチェですわ! この命尽きるそのときまで、わたくしは己の名に愧じざる生き方をせねばなりません。これは、エウドクシアの家に生まれた者に課せられた、怠る事の許されぬ義務です。堕落の道がどれだけ甘美で安閑としたものであろうとも、これから歩む道がどれだけ険しく汚穢にまみれていようとも、わたくしがベアトリーチェ・エウドクシアである限り、答えは一切変わりません!」
わたくしの台詞に、少年は満足げな笑みを湛える。少し顎を上げて、まるで見下すように、愉しそうに、すべてを手の平のうえで転がして弄ぶ、悪魔のように、わたくしを見詰めていた。
負けるものか。わたくしは、ベアトリーチェ・カルロ・カルラ・フォン・エウドクシアであり、誇り高きエウドクシア家の正統な嫡流である。例え流浪の境涯に身を窶そうとも、誇りだけは失わない。
暫時、そうして笑う少年と睨み付けるわたくしとの沈黙が、室内を満たしていた。ごくりと、ヘレナが喉を鳴らした音が、やけに大きく響いた。
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