第106話 とある執事の安息・1

 ●○●


 うちの旦那が、ウワタンへとバカンスに出かけてから、アルタンの町には平穏が訪れていた。

 思えば、旦那が現れてからのこの町は、怒涛の日々だった。ウル・ロッド、ダンジョン、【扇動者】等々……。

 その原因たる旦那がいなくなったのだから、騒動が起こらないのも、ある意味当然である。

 だがしかし、これは嵐の前の静けさだ。もうそろそろ、旦那が帰ってくるのだから……。



 実に意外な事に、旦那がウワタンから帰還してから数日、アルタンの町は平和だった。


「ジーガ、養禽事業の方はどうなってる?」


 屋敷の主人が、朝の食堂で朝食をとりつつ訊ねてくる。その皿には、新鮮な卵料理と魚が横たわっており、ショーン・ハリューは気兼ねなくそれにナイフを入れて、口に運んでいた。どうやら、バカンスのおかげで元通り、肉食ができるようにはなったらしい。

 俺はその事に安堵しつつ、聞かれた事について答える。


「一応、一段落はつきました。手探りではありますが、従業員たちも飼育のノウハウは覚えましたし、スラムの仮厩舎でもそれなりに生産できています」

「重畳だね。あとは、崩落跡の施設が完成すれば、本格的に取り掛かれる?」

「ええ。ただ、いきなり地下施設を作るといっても、なかなか受け手がいないのでは?」


 こればかりは、既存の大工連中を雇っても、いきなり上手くいくとは思えない。大規模な地下施設といったって、それこそノウハウがないような者が作った施設では、おっかなくて中に入れない。

 だが旦那は、そんなものは杞憂であるとばかりに笑って応える。


「そっちは問題ない。施設そのものは、僕とグラで作るから」

「作るって、【魔術】でですか? まさか、幻術の家とかじゃないですよね? せめて雨風をしのげるものでないと、従業員がバタバタ死んでいきますよ?」

「違うよ。僕をなんだと思ってんのさ。きちんと屋根も壁もあるし、なんなら町の他の建物よりも頑丈だよ。なにせ、【崩食】対策でもあるからね」


 ふむ。そういえば、ご領主様から崩落跡に施設を建設する許可を得た名目は、たしかに【崩食説】対策だったはず。実際にどうやるかまでは知らないが、どうやらそれはただの名目というわけでなく、なおざりにするつもりはないらしい。


「まぁ、旦那がそうおっしゃるなら、俺からはなにも言いませんが」

「うん。その辺は、そういう事でウル・ロッドにも話を通しておいて」

「了解です。次に、大公とカベラからの依頼ですが……」


 自然と口が重くなる。どうやら旦那は、ウワタンでもいろいろとやらかしたらしく、教会や大公と揉めて帰ってきたらしい……。

 教会はともかく、ヴェルヴェルデ大公との関係悪化は、第二王国では痛すぎる瑕疵だ。相手は選帝侯でもある大貴族。対してこちらは、貴族ですらないただの平民で、権力も財力も向こうに分がある。

 相手が大公ともなると、流石にご領主様や冒険者ギルドでも旦那たちを庇い切れるか……。


「大公に注文されていたグラスは完成したよ。あとで持ってくる。【鉄幻爪】に関しても、金と尖晶石スピネルの赤でいいものがあったから、それで作った。理も刻んであるし、あとは箱待ちだね」


 だが、俺のそんな心配などどこ吹く風とばかりに、あっけらかんと告げるショーン・ハリュー。本当にこの人は、肝が太すぎる。

 ちなみに今回の注文は、専門の業者に箱を発注している。高級品に見合った箱である為、製作にはそれなりに時間がかかるのだが、旦那がマジックアイテムを作る時間の方が早いというのは、流石にちょっとおかしいと思う。


「旦那様、大公陛下に対してお詫びの品をご用意されてはいかがでしょう?」

「詫び? なんで僕らが? 向こうが詫びを入れるべき案件だよ?」


 あまつさえ、ザカリーの進言にこんな事をのたまう始末だ。いやまぁ、わかるけどな。

 大公の手の者が、ミルとクルに化けたィエイトとシッケスを攫ったって話は、旦那からすれば許せるものではないだろう。もしも対策を講じていなければ、本当に二人が攫われて、死んだり、女として取り返しのつかないような事態に陥っていても、おかしくなかったのだから。

 だが、だからといっていつまでも敵対姿勢を堅持するには、相手がデカすぎる。どこかで落とし所が必要だし、それにはこちらから頭を下げるのが、一番手っ取り早く、無難だろう。向こうは、ただの平民のガキ二人に、軽々に頭なんて下げられない身分なのだから。

 一度関係を正常化したら、以後は関わらなければいいだけだ。まぁ、こちらを弱腰と見て、さらに踏み込まれる惧れはあるが、それでも選帝侯相手に敵対姿勢を強めるよりかはだいぶマシだろう。


「大公陛下と争うような事態に陥れば、我が家といえども存続に関わるのでは? ここは、節を曲げられてでも、安全を取るべきではないでしょうか?」


 おずおずと進言するザカリーに、ショーンは明るい声で応える。


「まぁ大丈夫さ」


 俺とザカリーが不安から表情を曇らせていると、そんな姿が面白かったのか、黄身をつけたパンをこちらに向けて旦那が笑いかけた。その、キヒヒと笑う笑顔の、なんと恐ろしい事か。まるで、人心を弄ぶ悪魔のようであり、まさしく【白昼夢の悪魔】の異名にふさわしい微笑だった。


「大公はその内、僕らになんて構っていられなくなる。まぁ、その頃は僕らも忙しくなるだろうから、こっちもこれ以上大公に構っていられないんだけれどね」

「旦那、それはどういう意味です? なにか情報が?」


 大公領で騒動が起こるとすれば、二パターンだろう。すなわち、第二王国の王位継承にまつわる騒動か、元ヴェルヴェルデ王国領奪還にまつわる騒動だ。旦那はウワタンで、それらに関する情報を得たのだろうか? だとすれば、俺にも教えて欲しいのだが、まあ、いくら使用人といえど言える事と言えない事はあるか。

 俺とザカリーの物問いたげな視線を無視するように、ショーン・ハリューはパンと一緒にその後の言葉を飲み込んだ。



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