第102話 レディ・ラケダイモン

「は?」

「ホラ、見ろこれを!」


 ポーラ様はそう言うと、自らの足を指し示す。彼女の迫力や剣技に気を取られて気付かなかったが、そこには頑丈な鉄靴サバトンに巻き付くように、木製と思しきなにかの器具が取り付けられていた。円状に取り付けられたそれは、イメージとしては忍者の使う水蜘蛛に近い。

 い、いや、それで水上を走るのは、たしか創作だったような……。


「それはなにかのマジックアイテムですか?」

「いや、違うぞ。そもそも君も知っての通り、私は魔力に関する才能が絶無だからな。下手なマジックアイテムを使っては、早々に気絶して海の藻屑だったろう」


 そうだった。この人は、魔力充溢支障という魔力の生成量も保持量も低く、下手に魔力を運用しようとすると、すぐにダウンしてしまう体質だった。だがだとすれば、本当に自力で、それも生命力の理だけで、何十キロも海の上を、水蜘蛛のみで走ってきたというのか?


「走ってみてわかったが、ウワタンからゴルディスケイル島までは、そう離れていないのだな! 思ったよりもすぐ辿り着けて、ちょっと驚いた」

「…………」


 いや、ドン引きだよ……。

 帆船の速度というのは船の種類や時代によってまちまちだが、キャラベルやキャラックは、およそ五、六ノットというのが通説だったはずだ。ノットは大雑把に計算すれば、二倍して時速にできる。つまり、時速十キロ程度だ。

 おまけに、帆船というものは風や潮の流れ、海底の構造によっては真っ直ぐ目的地にたどり着けるわけではない。それで半日である。

 つまり、長く見積もるとウワタンからゴルディスケイル島まで五、六〇キロくらい。これは僕の体感であり正確ではないが、船の蛇行や迂回、海賊との戦闘を考慮すると、マラトンからアテナイ間くらいの距離しかないと思う。

 この世界の人間は、生命力の理で脚力を強化でき、フルマラソンの距離を世界記録で走れる人も、ざらにいるのかも知れない。だが、それでだいたい二時間だ。しかもそれは、陸上と同じように海上を走れれば、という前提の元に算出している無茶苦茶な数字である。


「本当に走ってきたんですか? それで?」


 僕はポーラ様の水蜘蛛を指差して訊ねる。対するポーラ様は、一切照れも衒いもなく胸を張る。


「うむ。だが流石に、生命力を消費しすぎた。正直、いまは頭がくらくらしている!」


 そりゃそうでしょ。なんつー向こう見ずな。それこそ、海上で気絶して沈んでてもおかしくはない行為だ。つまりこの人は、水蜘蛛で人の体が沈まないようなペースを、数時間維持して最長六〇キロの海上を走ってきたのだ。しかも、鎧を装備して……。

 アテナイに朗報エウアンゲリオンを伝えた走者もビックリである。なお、マラソンの語源になったその走者は、エウクレスとフィリッピデスの両説があり、また後世の創作であるという説もある。

 重武装のまま長距離を走り抜き、絶命した彼に因んで、現代オリンピックにはマラソンという競技がある。アテナイ=マラトン間は知っての通り四二キロ程度であり、たしかにその距離を重武装で走り切った走者は、称えられるにたる偉業を成したといっていい。

――が、その戦いでスパルタ軍二〇〇〇が二日で、アテナイ=スパルタ間(約二〇〇キロ)を走破しているのは、正直どうかと思う。空気読めよ、狂戦士バーサーカーども。マラソンの語源が完全に霞んでしまうだろうが。ホント、空気読め。

 なお、スパルタ軍は基本的に重装歩兵であり、映画のように半裸で戦う狂人ではない。当然、アテナイに送られた援軍はピクニックに赴いたわけではなく、戦争を想定した軍なのだから、完全武装だったはずである。

 まぁ、スパルタ軍はマラトンの戦いそのものには間に合わなかったんだけどね。

 閑話休題。

 普通、生命力の理というのは短時間、小まめに使って、あまり濫用しないよう気を付けるものだ。理由は勿論、そのエネルギーが生命維持に直結するからである。

 生命力を五割も消費すれば、普通の人間は死んでしまう。三割で行動不能に陥る可能性が高い。使いっぱなしというのは自殺志願者や、逆に死が目前に迫って背に腹は代えられない戦闘中くらいのものだろう。

 さらにいえば、生命力の理というのは、そのエネルギー消費が生命活動に直結するというのに、魔力の理に比べてその管理が難しいのだ。魔力の理であれば、一つの術式にかかる魔力量は、基本的には変動しない。だが生命力の理は、そのときの体調や精神状態で、消費量が増減したりする。

 僕が生命力の理を生理学的だと評すのは、そういうところだ。

 だが、二時間生命力を使い続けたという点を思えば、その程度の症状で収まっているのはむしろ、彼女の生命力の多さと、その使い方の巧みさを物語っている。


「ポーラ様って、いつから騎士になったんですか?」

「うん? 去年騎士になったばかりだな。それまでは、兄上の従士をしていた。まぁ、騎士になった直後にウワタンの代官に任じられたから、いまだに実戦経験にも乏しい形ばかりの騎士だがな」


 ふむ。なんとなく、タチさんの方を見る。ああ、この人も僕と同じ目をしている。

 彼女がこれまで評価されてこなかったのは、実戦経験のなさからだろう。彼女も騎士としての訓練はしているはずだし、盗賊やモンスター討伐等の実戦経験もあるはずだ。

 だが同時に、彼女はウワタンの町の代官であり、領主の娘でもある。その顔や体に傷が付きかねないような任務からは、自然と遠ざけられていたはずだ。結果、その実力を如何なく発揮できる機会は、これまでなかったのだろう。

 しかしながら、数時間生命力の理を使い続けられる人間なんて、そうそういない。とんでもなく生命力の運用効率がいいのだろうが、それに加えて生命力の総量が常人よりもはるかに多いはずだ。でなければ、やはりいかにやりくり上手といえども、数時間使いっぱなしでは気絶してると思う。

 間違いなく、セイブンさんと同じく英雄の資質を兼ね備えた人間である。

 あとでゲラッシ伯に知らせておこう。タチさんに知られちゃった以上、どうせ帝国にも伝わるだろうしね。

 ポーラ様、今日からこの地域一帯におけるあなたの評価は、女狂戦士レディ・ラケダイモンだ。


 ダンジョン側としては、こういう人間がポンポン現れるのは、勘弁して欲しいんだけどなぁ……。




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