第97話 交渉の布石
「さて、どうしましょうか……」
僕はそう韜晦しつつ、チラリとエスポジートさんの顔を見やる。彼女は笑みを絶やさない。だからこそ、その奥にある感情が非常に読み取りにくい。幻術師にとって、相手の感情が見えないというのは、暗闇の中で戦うに等しい。
なんとかして、あの笑顔の仮面を剥いでからでないと、まともに戦える気がしない。
「では、このような落としどころはいかがでしょう?」
そう前置きして、僕は彼女に提案する。
「エスポジート様に、約束を順守してもらえるよう、僕が幻術を施すというのは?」
これには、流石のエスポジートさんも虚を突かれたらしい。柔和な笑みが驚いた顔になる。どころか、タチさんですら吃驚を禁じ得ないように、こちらを振り向いた。まぁ、それも仕方がない。やんごとない身分の相手に、幻術をかけさせて欲しいなどというのは、失礼を通り越してとんでもない非常識な真似だ。
どれくらい非常識かといえば、貴族ですらないマフィアのボスであるウル・ロッドファミリーの母親分、ウルさんですら幻術対策にいくつものマジックアイテムを常備しているくらい、富貴層の人間にとって幻術というのは、警戒の対象なのだ。
それを、無条件に受け入れろというのは、ある意味で彼女の行動に枷を嵌めるに等しい。ただの一介の平民に、許される真似ではない。
「流石にそれは……、いくらなんでも無茶な要求かと……」
タチさんが苦言を呈してくる。エスポジートさんも、困ったように眉をハの字にして、こちらを見ている。流石に受け入れ難いのだろう。
当然だ。僕がその状況を、どのように悪用するかわかったものではないのだから。実際、彼女がこの案を受け入れて僕に身を委ねるというのなら、僕はグラの為に彼女の地位と名声を利用し、僕らに都合のいい傀儡にしただろう。
だから、タチさんのこの反応も、受け入れないエスポジートさんの反応も、当然である。国家の中枢に近ければ近い程、僕のこんな提案に乗るわけがないし、乗ってはいけないのである。
「まぁ、そうでしょうね……」
そう言って、僕は肩をすくめる。だが、話はここからだ。
「ですが、正直に言って僕らは既に、教会に対して強い不信感を覚えています。これがゼロベースの交渉であれば、先程タチさんになさったように、名にかけて約束を守るという口約束でも良かったでしょう。ですが、そんな常識的に、ナイーブに、どこの誰かも知らないエスポジート様の口約束を信じられるような段階は、とっくの昔に通り過ぎたんですよ」
実際問題、エスポジートさんがさっき、この問題を政争の具として扱うと言ったのは、そうする事で僕に信用させる意味が強い。これが、彼女の矜持だの正義感だのに依存するような約束であれば、僕はさっきまでのおざなりな態度を崩さなかっただろう。
彼女の立場としても、この問題において双子には悪役であってくれる方が、都合がいい。そういう、現金すぎる程に明確な利害関係であれば、それなりに信じられる。とはいえ、それも教会上層部で折り合いがついてしまえば、僕らの事など無視される可能性が高い。
なにせ、僕らは口約束を破られた際に、それを糾弾する方法を持たないのだ。タチさんであれば、タルボ侯爵を通じて、帝国上層部から法国に対して、その不義を糺す事ができる。だが、僕らの為だけに、第二王国や王冠領が動くかといえば、それを肯んじられる程、僕の頭はお花畑ではない。
では、どうすれば信じられるか? 答えなど、容易には思い付かない状況である。
僕はパンと柏手を打ち、堂々巡りを始めた議題を一旦棚上げし、この場で唯一、これまで発言をしてこなかった人物に話を振る。
「それでは、ここで大公側のご意見を窺いましょうか。もしかしたら、なにかいい案が浮かぶかもしれなません」
「ふむ」
僕の提案に、タチさんが思案気に大公の使者の顔を見る。中肉中背の明るめの茶髪の男性。以前見たときは、瞳は明るめの茶色だと思ったのだが、いまはどうしてか、その瞳が暗く淀んで見える。そういえば、頬も前よりはこけているように思う。そして、以前は洗練されていた服装は、どこか埃っぽく皺が目立つ。まぁこれは、船旅を終えた直後である為、仕方がないともいえるだろう。
だが、やはりどうしても、その男からはくたびれた空気が漂い、正直陰気臭い。あと、名前が全然思い出せない。なんか、イタリアの地名っぽい名前だったってのは覚えてるんだけど……。ナポリやアマルフィじゃなかったとよな。サルデーニャ? いや、たぶん違う……。
「ヴェルヴェルデ大公の使いとやら、その方らになにかこの場で言いたい事はあるか?」
タチさんの険のある言葉に、使者の男の肩がビクりと跳ねる。仕方がないだろう。彼にとっていまこの場は、針の筵も同然なのだ。
「い、いや……。わ、我々は、チューバの暴走を止めるべく、昨日この島に上陸したばかりであり、現状を正確につ、掴んでいない。ど、どうしてこのような事に、なっているのか、と、とん、とんと……」
使者の男は吃りつつも、タチさんとエスポジートさんに弁明する。当然、彼の弁明対象に、僕が入っている訳もない。
彼の言い分も、まぁわからないでもない。いまこの場で、僕の次に発言力が低いのが、この男なのだ。そして、大公側はタチさんたちが主張している混乱を巻き起こした、張本人だと目されている。当然、ただ襲撃された僕らよりも、男たちには厳しい目が集中している。
教会側が、後日ではあるがエスポジートさんがその名にかけて身の証をたてると宣言している以上、現状最も疑わしいのは大公側の手勢になる。また、その最有力の容疑者たるチューバは、既に死亡して骸すらも、ダンジョンに呑まれて残ってはいない。
では、使者の男がエスポジートさんと同じ真似をしたらどうか? 残念ながら、彼の名に、彼女並みの重みはないだろう。いや、僕もまた彼女の名の重さというものを、心底理解はしていないのだが……。
彼がその名にかけて、大公の間諜の手の内を明かすと宣言したところで、あとから大公がそんな約束はしていないと突っぱねれば、それでお終いである。残念ながら、トカゲの尻尾にしか見えない彼の名には、人を納得させられるだけの説得力というものがない。
だがそこで、僕が救いの手を差し伸べる。先の提案は、このための布石だった。
「では、あなたが僕の幻術を受けるというのはいかがです?」
僕は先程、エスポジートさんにした提案を、使者の男に投げる。男は即座に、首をブンブンと縦に振る。
「わ、わかった! それでいい!」
「少しお待ちください」
僕と使者の男の会話に割り込む形で、実にお行儀悪くエスポジートさんが声をあげた。うん、その焦った表情が見たかった。
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