第62話 一犬影に吠ゆれば百犬声に吠ゆ
「お見事」
ぺちぺちとやる気のない拍手が、背後から聞こえる。振り向けば、案の定そこには穏やかに微笑みながら手を叩く、ハリュー弟がいた。
「やっぱり分身の戦闘能力はたかが知れてるなぁ。なにより、身体能力が下がっちゃうのが痛い。僕から身体能力を取ったら、本当にただのパンピーだからね」
「ふざけんなっ! ボクはお前の術を試す実験体じゃないんだぞ!」
相変わらず、ボクらを実験動物扱いする態度にイラつきながら言い放つも、当のハリュー弟は聞いているんだかいないんだかわからない態度で、それでいて非常に興味深そうな顔でボクを見ている。
「【影分身】は、君のような玄人相手には使わない方がいいね。足止めくらいにしかならなそうだ。じゃ、次の実地試験といこうか」
「ぬぁあああああ!!」
ムカつく!! ムカつく!! ムカつく!! もういい!! ボクは隙ができるのも承知の上で、己の体内で生命力を燃やし【強心術】を行使する。いま、眼前で起こっている現象が、己の精神状態から引き起こされている幻であれば、これで抵抗できるはずだ。
だが――
「【
ハリュー弟は、またも指を立てて聞き慣れない詠唱をする。その姿は、溶けるように床の影へと消え失せ、主を失くした影だけがひとりでに地を這い始めた。
ボクが生命力の理で心をガードしている状態だというのに、ハリュー弟は変わらず影を操り続けている。その様は、先の彼の言を証明するものであり、一連の魔力の理と思しき超常現象が、幻術ではないという事の証左ともなる。
「【
迫った影から、まるで触手が伸びるように、漆黒の刃が迫ってきた。ボクはそれを斧槍で払いつつ【強心術】を解く。生命力の理は、魔力の理に比べて非効率で、直接生命力を削る為に多用できないのが難点なのだ。
影の刃を払いつつも、ボクは地を這う影を観察し続けていた。触手のような刃を伸ばした途端、床で平面になっていた影は、立体的なハリュー弟の姿へと変化を始め、いまは常の姿を取り戻している。
どうやら、あの【影塵術】とやらは、一度に一つの術式しか行使できないらしい。
「【剃陰】は、ちょっと脆すぎたなぁ……。切れ味に気を取られて、刃の強度を適当にしていたのが原因か。反省反省」
影から飛び出したハリュー弟は、なおも駆けつつ己の行使した術の出来を検証している。ボクは、またぞろおかしな術を使われる前にインファイトに持ち込もうと、彼との距離を詰める為、床を蹴った。
だが――
「【影朧】」
またも指を立てたそいつを斬り捨てるも、やはり影となって消えていく。これは先程見たものと同じだ。気配を探れば――ッ!?
「【剃陰】」
「ぐ――ッ!?」
足元から聞こえてきた声に、無意識で身を翻して地面を転がった。ぞぶり、と頬が深く裂けたのを、熱で感じる。
しまった。ついつい、こいつが消えたら距離を取っているという、先入観を持っていた。
ハリュー弟のようなザコに、地面を転がされたという屈辱から、唇を嚙みしめる。鉄の味を感じつつ、それでも務めて冷静であるよう、己の心に命令し続ける。相手は幻術師。心の均衡を崩せば、そこに付け入られるのは間違いない。たとえこの術が、幻術とは違っていても。
「【潜影】」
またも影に潜り、這うように高速移動するハリュー弟。どこにいるのかは、床の影を見れば一目瞭然であり、ボクはそこに斧槍を振り下ろす。
「くっ!」
わかっていた事ではあるが、斧からはガチンと床を叩いた手応えしか返ってこない。影はただの影であり、そこに潜っている状態では攻撃は無意味とでもいうのか。そんな【魔術】が本当にあり得るのか?
「【剃陰】」
「何度も同じ手を食うか!」
攻撃を空振ったボクの隙を狙って、なおも影の刃が迫る。しかも、今度は一度に三本だ。だがしかし、油断していなければこの程度の攻撃を払う事など造作もない。当人も言っていたように、この影の刃は脆すぎるのだ。
「【
警戒していたから、この攻撃は避けられた。
まるで爆ぜるように、ボクの足元にあった影から一〇〇を超えるような影の針が飛び出してきた。ボクは今度は高く跳躍し、天井を蹴って攻撃範囲から逃れたが、もしも間に合わなければ流石にあの数を、重い斧槍ですべて打ち払えはしなかっただろう。
そうなれば、命すらどうなっていたか……。さっき頬を抉られていなければ、ボクはまだ油断していたかも知れない。それを思うと、ゾッとする。
そういう意味では、ハリュー弟は差し手を間違えたといえるだろう。さっきの、ボクが油断している内に、【剃陰】ではなくこの【石陰子】とやらで仕留めておけば良かったのだ。
「お前は本当に、戦闘のセンスってものがないな!!」
挑発の意味も込め、それ以上に本心からの侮蔑も込めて、ボクはハリュー弟に吐き捨てた。やはり一度に行使できる【影塵術】は一つだけなのか、離れたところに現れていたハリュー弟は、しかしまるで自明の理とばかりに肩をすくめるのみだった。
「まぁ、その辺は言われても仕方がないよね。いちいちもっとも過ぎて、反論できる余地がない。耳が痛い限りだよ」
自嘲するように笑うハリュー弟。そうじゃない。ボクはお前に、ボクと同じように怒って欲しいんだよ! せめてボクらを、対等な敵として見做せ!!
「でもまぁ、たしかに直接戦闘技能の習熟を、なおざりにしていた感は否めないか……。最初の内は、素振りもしていたんだけれどね。これからは、己の命の為にも、グラの安全の為にも、武器の習熟にも注力すべきだな……。誰に習おうかな……」
だが、ボクのそんな思いなど塵芥程も斟酌せずに、ハリュー弟は、早くも戦闘後の事など語り始めた。もはや、ボクらとの戦いの趨勢など、心底興味もないのだと言わんばかりの態度である。
「……ッ!!」
「いい怒りだ……」
ぽそりと呟かれた言葉に、ボクはハッと我に返る。そうだ。幻術師相手に、みだりに心を乱すな。付け入られて足元を掬われる。
ボクは一応、一瞬だけ【強心術】を使う。万が一幻術に囚われていても、これでその影響を打ち払えたはずだ。
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