第56話 三つ巴というより、漁夫の利の魚

 ●○●


 僕らが地面に降り立とうとしたその瞬間、幻術で創り出したニヴルヘイムの世界が歪む。

 この幻術を行使した本人だからわかる。いま、この【死者の女王ヘル】という幻術は、その根底から揺るがされている。いまだ【死を想えメメントモリ】こそ無事であるが、死神術式の方は形骸化されてしまっており、ほとんどただのハリボテと化している。

 ぶっちゃけ、この空間はゴルディスケイルの海中ダンジョンに上書きしてあるだけの、ただの幻だ。広大な地下世界というのは、空間内に囚われている僕らが感じていた錯覚に過ぎない。以前、レヴンもかかった【燻製鰊の虚偽レッドへリング】と同じ幻術である。

 それ故に、僕らと蛍光双子ツインテツインズとの距離が、かなり狭まっている。幻術で創りあげたニヴルヘイム自体が、かなり縮小してしまっているのだ。いや、これは縮小というより、感覚が元に戻りつつあるという方が正しいか。

 だが、次の瞬間にはまた、そんな変化にも対応できないような、予想だにしない事態が発生する。


「――なッ!?」


 僕らの眼前に、急に男が現れたのだ。背はそれ程高くないものの、見事な逆三角形の体型で、腕も太腿も服の上からでもわかる程に太い。まるでプロレスラーのようなその男は、僕らの姿を確認するとニヤリと笑みを浮かべた。

 背の低いマッチョ男が、狙ったように僕らの前に現れたのは、別に不思議な事じゃない。感覚が元に戻り始めている影響で、距離感が近くなりつつあるせいだ。


「くそっ! グラ、僕を捨てて戦闘準備!」

「了解しまし――くッ!?」


 地面に降り立つと同時に、僕はグラに次の行動を指示する。グラは抱えていた荷物ぼくを放り出し、即座に警戒態勢に入る。そこに殴り掛かってくる男。

 僕の作った死神術式にとってこの状況は、最悪の展開である。構図的にこの男は、バスガルを倒したあとに現れた、ズメウに等しい。つまり、僕らが一方的に【死を想えメメントモリ】の影響下にある状態で、彼だけがフリーなのだ。

 勿論、以前の失敗を元に死神術式には手を施していた。【モート】は、空間内に侵入しようとすると、幻の熱波で侵入を阻むようになっていたし、この【死者の女王ヘル】もない害を隔てていた黒い壁の突破を試みた段階で、強い嫌悪感と忌避感を覚えるようになっていたはずなのだ。

 だが、この様子を見るに、その機能は完全に死んでいそうだ……。もっと物理的な障壁にしておくべきだったか。


「おいおい、せっかく出会ったんだ! 生温い攻撃してきてんじゃねえよ!!」

「く――ッ!」


 殴り掛かってきた男の拳をグラは片手で弾くが、その威力が予想外のものだったのか数歩後退る。あるいは、普段のコアの感覚と依代との感覚の違いか。

 依代の能力は人間を遥かに凌ぐものであり、僕の依代よりもグラの依代の方が高性能なのだが、それでもダンジョンコア本来の能力には程遠い力しか発揮できない。使える魔力も生命力も、段違いに少ないのだ。 


「クソっ! 背後から双子が追い付いてくる!」


 女巨人モーズグズを無視し、短くなった黄金の橋ギャッラルブルーを駆けてくる双子を目視し、僕はグラに注意喚起する。男と双子に挟まれ、いよいよ状況は最悪だ。

 おまけに、そろそろ【死者の女王ヘル】の効果が完全になくなりそうだ。そうなる前に、できれば一旦この場からの逃走を図りたい。


「【黒雷くろいかづち】」

「おっと!」


 グラの刀による刺突を、プロレスラーのような男は軽快な足取りと、腕の籠手で逸らし回避する。その回避行動を見ただけで、彼の戦闘技能の高さが窺える。いくらグラの動きが、本体よりも劣るとはいえ、剣技はそのまま使えるし、身体能力自体も人間に比べればはるかに高いのだ。僕なんかではこの身体能力は使いこなせないが、グラの場合そんな事はあり得ない。

 そんな彼女と、ほぼ互角に戦闘を繰り広げているだけで、男の強さがある程度たしかなものであるというのは明白だ。勿論、グラ側の悪条件を加味したうえでなお、その評価は揺るがない。


「……ちょっとマズいかな……」


 装具の手斧はすべて放棄してしまったし、手元には【僕は私エインセル】のみ。この状況で、あの蛍光双子ツインテツインズの二人を、グラが男を倒すまで僕一人で足止めするというのは、あまりにも成算がない。

 ここはもう、戦闘を放棄して逃げに徹するべきか……? これ以上まごついて挟み撃ちにされては、逃走すらもままならない。そうなる前に、一旦撤退して、体勢を立て直すべきかも知れない。


「この――ほのいか――」


 さらに男に襲い掛かろうとしたグラの服を、そっと掴んで止める。背中合わせになったところで、後ろを振り向き軽く首を左右に振る。それだけで、グラは僕の意図を察してくれたのか、八相に構えたままその動きを止める。

 身構えていた男の姿を確認し、僕は【僕は私エインセル】で理を刻む。


「まだ……、まだ……、ま――いま【逆もまた真なりヴァイスヴァーサ】!」


死者の女王ヘル】が切れるタイミングを見計らい、僕はその幻術を発動させる。ガラスの通路から見えていた水面が下に、海底が上に、そして僕らもまた天井に貼り付くようにして、天地がすべて逆転する。


「ショーン!」


 即座に振り返ったグラが差し伸ばす手を、しっかりと握る。彼女は再度炎の翼を広げると、その身を空中に躍らせる。

 本来なら【天地有用イウェルスム】も使って、自分たちの感覚はまともに戻すのがセオリーなのだが、グラはこの状態でも普段とまったく同じように行動できる。【天地有用イウェルスム】と【逆もまた真なりヴァイスヴァーサ】は、僕らが多用する幻術だ。その影響下にあっても普段通りに動ければ、どちらかの幻術を使って一手消費せずとも、迅速に次の行動が起こせるようになる。そのアドバンテージは大きい。

 その為、僕らは天地逆転状態でも普段通りに動けるよう、訓練しているのだ。勿論、僕はまだまだ天地逆転していると上手く動けない。


「クソっ! 逃げんなテメェら!!」


 男が追い縋ってくるが、当然ながら彼もまた、この状況にすぐに順応する事はできまい。


「ティナ! あいつら、逃げようとしてる!」

「メラ! あいつらを撃ち落とせ!」


 させるかっての!


「【ネブラ】」


 数秒で消える霧が、僕らの周囲に立ち込める。その直後、僕らを狙っていくつもの石の礫が飛んでくるが、すべて僕らから外れて頭上の天井へと着弾した。ついでに、最後っ屁のように僕らを追いかけられないよう、さっき見破られた幻術を使う。


「【蜃気楼シムラクルム】」


 近接戦闘ならともかく、逃走する僕らの気配を読んでどれが本物かまではわかるまい。そんな事ができたら、それこそ漫画だ。スカウターかっての。

 そうして僕らは、蛍光双子ツインテツインズの頭上を通り抜けて、戦略的撤退を成功させた。まぁ、どう言い繕ったってそれは、ただの敗走だった……。



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