第53話 冥府の番犬

 グラに抱えられながら飛翔する僕は、早くも見えてきたこの【死者の女王ヘル】からの脱出における、第一の関門を見て気を引き締める。

 それは文字通りの意味での関門であり、見上げてなお余りある、高すぎる隔壁に見合った巨大というにも大きすぎる門扉である。

 僕らが近付くにつれて、その巨大な門が開かれていく。僕らがいまいるのは女神の館エリューズニルの内側であり、当然、本来いるべきは、こちらから見て門の外側にいる。

 それはヘルヘイムに近付く生者を追い払い、ヘルヘイムからの脱走者を見張る番犬。ヘルヘイムの入り口にある洞窟、グニパヘリルに繋がれているものの、一度ひとたびその頸木から解き放たれれば、軍神テュールの喉笛すらも噛み千切るような、最高の犬の姿を持つ番犬の中の番犬――


「ガルルルゥルァァアアアア!!」


 門の奥から駆けてくるのは、巨大な体躯に漆黒の毛並み、その胸元だけが赤々と鮮血が滴るように赤い、狼とも見紛う黒犬――ガルムだ。有名なフェンリルとも同一視される、文字通りの意味での冥界の番犬である。

 この【死者の女王ヘル】における脱出劇の二つの関門の一つが、このガルムなのだ。


「グラ、回避!」

「はいッ!!」


 襲い掛かってきたガルムを、グラはひらりと躱す。だが、そのせいで脱出口であるグニパヘリルから遠ざかってしまう。ガルムはその巨体からは想像もできない程の俊敏さで、飛び回るグラに襲い掛かる。当然ながら、ここでガルムに殺されても、【死を想えメメントモリ】の影響下にある現状を踏まえれば、死んでしまうはずだ。

 なのでグラも、ガルムの猛攻を避けつつ飛び回るしかない。幸い、グニパヘリルから延びる鎖に行動範囲を制限されている為、回避そのものはそれ程難しくない。なんとか隙をみて、洞窟に飛び込み、南下して黄金の橋ギャッラルブルーに向かわねばならない。


「なんだこの化け物ッ!?」

「構えろ、メラ! 来るぞ!!」


 ガルムからの攻撃を幾度か回避したところで、早くも追い付いてきた蛍光双子ツインテツインズが、ガルムを見て驚愕の声をあげた。その声に、ガルムが反応して彼女たちに飛び掛かる。

 ガルムはその巨体で襲い掛かるが、彼女たちもさる者、引っ掻く者。ピンクツインテはその斧槍ハルバードでガルムの爪を逸らし、ぐるりと一回転してその肩口に斬りかかる。緑ツインテの方も、目にもとまらぬ速さで、ガルムの全身をその五指短剣チンクエディアで斬り付けていく。


「硬ッ!?」

「全然ダメージ与えてる気がしないよ、ティナ!?」


 だが、それらの攻撃は、ガルムに対して一切の痛痒にならない。

 もはやズルのようだが、この【死者の女王ヘル】におけるガルムは、ゲームでいえば負けイベのボスキャラのようなもので、HPバーが微動だにしないorHPバーが長大すぎて減ってる気がしない、もしくはその両方という状態だ。しかも、その攻撃を受ければ本当に死んでしまうのだ。もはやチートと誹られても、反駁は難しいレベルのボスキャラである。

 このヘルヘイムからの脱出において、ガルムからは逃げの一手しかない。だが、ガルムの俊敏性は転移術と属性術の複合術式を使って飛んでいるグラですら、逃げあぐねる程だ。故に、上手く逃げ果せるには、囮を使うのがもっとも効率的である。

 そう、だ。


「あ! アイツらッ!?」

「テメッ! 逃げんなコラァ!!」


 置き去りにされた蛍光双子ツインテツインズがなにか言っているが、そんなものには一切取り合わず、僕らはグニパヘリルに飛び込んだ。流石にグニパヘリルに侵入すると、ガルムの注意がこちらに向いてしまうのだが、もはやあとの祭りだ。グニパヘリルはガルムが縦横無尽に動き回れるくらいに広いのだが、直線で逃げるのなら、流石に飛行しているグラに分がある。

 とはいえ、ガルムのヘイトが完全にこちらに向いてしまったせいで、蛍光双子ツインテツインズもグニパヘリルに侵入を果たしてしまう。だがまぁ、その位置取りは先頭に僕ら、次にガルム、最後尾に蛍光双子ツインテツインズとなる。位置取り的には、圧倒的に有利な状況だ。

 やがてグニパヘリルの出口――本来のヘルヘイムへの入り口が見えてくる。心なしか、殺人的な寒さも若干和らいできている気もする。まぁ、この先を思えば当然か。


「抜けます」


 グラの、さらに大人びた声にそちらを見れば、ガルム回避戦とグニパヘリル離脱の間に、随分と大人びた姿になっていた。たぶん、年齢的には大学生後半から社会人一年目くらいだろうが、その〝デキる女オーラ〟は若くしてやり手のベンチャーの女社長とか、所謂キャリア組といわれる幹部候補の公務員のようだ。まぁ、実際にそういう人に会った経験はないので、ドラマとか映画のイメージだが。

 パッと、周囲の景色が洞窟から開けたものになる。進行方向を確認すれば、大きな川があり、そこには黄金の橋がかかっている。あれが北欧神話における、三途の川とそこに架けられているという金銀七宝で作られた橋、ギョッル川と黄金の橋ギャッラルブルーだ。

 背後を見やれば、僕らの追撃を諦めたガルムが蛍光双子ツインテツインズの方へとヘイトを移したところだった。ガルムの攻撃を回避できるだけの広さはあるものの、それでもある程度行動を制限される洞窟内で、無敵モードのガルム相手にいつまで持つか……。


黄金の橋ギャッラルブルーには女巨人モーズグズがいる! 橋から離れた水上を飛んで移動しよう!」

「了解!」


 まぁ、この辺りは【死者の女王ヘル】を組んでいるときにも話し合っているので、記憶力のいいグラなら改めて教える必要はないかも知れない。ただ、グラにとって北欧神話なんて知る由もないような話だからね。間違いがあったら、あの女巨人に冥府に追い返されてしまう。

 この女巨人モーズグズがこの【死者の女王ヘル】の最後の関門なのだが、まぁ、ガルムに比べると割と攻略難度は低い。とはいえ、ガルムに手間取ると、この女巨人の元に辿り着く頃には、加齢具合によってはよぼよぼで動けなくなっている可能性もある。

 その際にも、女巨人モーズグズは口八丁で言いくるめられるよう、安全策は用意しているのだが、普通に突破を試みると襲い掛かってくるので要注意だ。

 無敵状態のガルムとグニパヘリル、ちょっと抜けている女巨人モーズグズ黄金の橋ギャッラルブルーという二つの関門が、この【死者の女王ヘル】における逃走を阻む関門なのだが、僕らはある意味この問題の制作者である。つまり、予め攻略法を知っているというズルい立場だ。

 さらに、僕らにとってはタイムリミットである加齢も、グラにとっては枷にならない。なぜなら、彼女は寿命というものが存在しない、ダンジョンコアだからだ。外見こそ歳を取るものの、彼女の場合、老婆になろうともまったく動きは鈍らないだろう。生命体として、ダンジョンコアには年老いるという概念が存在しないのだから。

……まぁ、それは一応僕も同じなのだが、忸怩たる事ではあるが、僕の精神はかなり人間に寄っている。きっと、老いればその分動きも悪くなるし、寿命がくれば【死を想えメメントモリ】の影響下にあるこの空間では、普通に死ぬだろう。

 流石に、道半ばもいいところであるこんなところで死んでは、徒にグラを悲しませるだけで、生きた証すら残せない。なので、あんな蛍光双子ツインテツインズの為に、こんな場所で死んでやるつもりはない。

 そんな事を考えている間に、黄金の橋ギャッラルブルーを迂回した僕らは、呆気なくヘルヘイムからの脱出に成功する。背後を窺えば、蛍光双子ツインテツインズはまだガルムと戯れていた。

 しかも、彼女たちの外見年齢は既に三〇を上回って、女性として脂の乗った美女に変貌していたものの、その分動きに精彩を欠き始めている。生命力の理や魔力の理を用いて、なんとかガルムからの攻撃をいなしているようだが、これではグニパヘリルからの脱出すらもままならないのではないかと思われる。

 まぁ、あの二人がここで死ぬのなら、それで構わない。いきなり襲われて、事情も名前も知らない双子だが、まぁ、別にいいだろう。もしかしたら、あのタチさんが知っているかもだしね。


「着地します」

「はいよー」


 速度を緩め、ギョッル川の対岸へと降下していく僕ら。そこはもう、ヘルヘイムではなくニヴルヘイムだ。

 このとき、僕もグラも油断してしまったのは、ある意味で仕方のない事だったと思う。流石に、この後の事態を予め予想しておけというのは、無茶が過ぎるだろう。

 それでもやはり、僕は予めその危険を考えておくべきだったのだ。グラの安全の為に。



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