第52話 死者の女王とタイムリミット

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死の女神モルス】は、【死を想えメメントモリ】のとどめ用の死神術式のプロトタイプというよりは、アーキタイプとしての色が強い。その発展たる【モート】は、対群用の性質が強く、一対一での戦いにあまり向いていない。

 そう思って作ったのが、この【死者の女王ヘル】だ。【死の女神モルス】も単体用ではあるのだが、アレは原型であるだけにやや演出に乏しく、もしかしたら一発で死なないかも知れないという不安がある。

 なにより、この死神術式は特性上、ネタバレされていると非常に効果が薄くなってしまうという弱点がある。【モート】もそうだが、【死の女神モルス】も一度は他者の目に晒してしまっている。あまり、ここぞというタイミングで使うには、もう既に不安要素が残る。

――そんな事を考えている僕らはいま、ヘルヘイムにいる。ギンヌンガガプの向こうにあるというニヴルヘイム。その中央にある、ニーズホッグの住む煮えたぎる泉、フウェルゲルミルから流れるいくつもの川の一つ、ギョッル川のさらに北にある、死者の国だ。

 眼前に巨大な館。はるか背後に、遠近感すらも忘れてしまいそうな程の高い壁。ヘルの住む女神の館エリューズニルであり、狭義の意味においてはこの舘の敷地内こそがヘルヘイムである。

 吐く息すら凍り付きそうな、極寒の世界。数分で命を刈り取られてしまいそうな程の強烈な冷気に、もはや寒いというよりも痛いという感覚の方が強い。

 ゴルディスケイルの海中ダンジョンを形成する、透明な通路を粉々にしつつ、襲い来る濁流を無視するように、北欧神話における九つの世界の下層、ニヴルヘイムへと引きずり込まれた二組の双子。


「さて、じゃあ戦闘どころじゃない生存競争に移行しようか」


 僕の言葉に、ピンクツインテがビクりと肩を震わせる。この状況に呑まれ、完全にイニシアチブを取り戻せたという証左だ。あとは上手い事口車に乗せ、相手の心理を手玉に取れれば、そのちっぽけな心臓を止める事など造作もない。


 一歩、足を踏み出す。


 ピンクツインテが、一歩後退った。それでいい。怯えろ。臆し、動揺し、戸惑え。それが幻術師と戦うという事だ。


「さぁ、女王様との謁見だぞ。僕らの生き死には、すべからく彼女の存念次第。ゆめゆめ、軽んじるなよ? 彼女は死の国の支配者。遍く死者は悉く彼女のしもべであり、神すらも、死すれば彼女の支配からは逃れ得ない」


 そう言って深々と礼をした僕の前に、いつの間にか黒曜石オブシディアンのような光沢のある漆黒の玉座が現れていた。そこに横たわるは、地面にまで垂れ広がる艶めく黒髪の女神。体の正中線から、左側が蝋のような白色、右側が炭のような黒色の二色に分かれた、全裸の女性がそこにいた。

 この極寒の世界にあってなお、それをまったく意識していないかのような格好で、死者の国の女王はその血のような真っ赤な瞳で、無言のままに僕らを睥睨する。特徴的な二色に分かれた肌の女神だが、その姿はやはりなんとも幽玄であり、超然とした美しさがあった。そしてなにより、他の死神たちと同じく、死そのもののような、触れ難い禁忌の気配に思わずたじろいでしまう。

 肌を焼く寒気に加えて、その威圧感までもがビリビリと強烈に、この場にいる四人を圧迫してくる。そんな、絶対の支配者たる女神が、ゆったりとした手つきで僕らを指差した。


「――生者どもよ……――」


 その口から紡がれる声音は、まるで夏の夜風のように穏やかで涼やかな優しいものだったが、同時に床冷えするような冬の寒気も孕んでいる。


「――疾く、我が舘から去れ。然もなくば、ナグルファルにその爪を捧げ、軍勢の列に並べ」


 ナグルファルは死者の爪で作られた船であり、これが完成するとラグナロクが始まるといわれている。また、そのナグルファルには、ラグナロクの際にはヘル配下の死者の軍勢が乗り込み、アースガルドに攻め込んだという。つまり、先のヘルの言葉は『生者は去れ。去らぬ者は死者だ』という意味だ。

 そう。つまりこの【死者の女王ヘル】のコンセプトは、ヘルヘイムからの脱出であり、それが叶わねば死んでしまうというものだ。この術式を選んだのには、対少数用である事に加えて、もう一つ理由がある。

 グラの存在だ。

 本当なら、グラもいる状況で【死を想えメメントモリ】も使ったうえで、死神術式なんて使いたくはなかった。この術式の真骨頂は、生命力豊富でその肉体自体も頑健なダンジョンコアすらも、精神面から殺しにかかるという点にある。その生命力の多寡によらず、肉体的なダメージによらず、死というものを受け入れてしまった者から死神のかいなに囚われてしまうのだ。

 故に、無数の群衆が相手ならまだしも、少数の人間に対して使うには、本来オーバースペックどころか、自滅の可能性すら孕むような、危険行為でしかない。では、なぜグラもいるこの状況で使ったのか?

 簡単だ。この【死者の女王ヘル】には、これまでの死神術式になかった、安全弁が用意されているからだ。


「さぁ、タイムリミットまでそんなに猶予はないぞ?」


 僕がそう言う頃にはヘルの姿は、現れたときと同じく忽然と消えており、寒々しい女神の館エリューズニルの庭にポツンと僕ら四人の姿が残されていた。そして、それだけではない。

 僕は一回り身長が伸びており、ピンクツインテも少しだけ大人びた姿になっていた。恐らく、緑ツインテの方も同様に歳を取っているだろう。

 ヘルは、疾病しっぺいや老衰で死んだ者を支配する。故に、名誉ある戦死者だけがヴァルハラに導かれ、彼女の支配から逃れられるのだ。

 僕らの姿はどんどん年老いていく。勿論、それは幻術による幻ではあるのだが、この空間においては、目に見える形での死へのカウントダウンでしかない。やがて年老い、身動きすらままならなくなっては、もはやヘルヘイムからの脱出など不可能になる。

 まして、ヘルヘイムにはだっているのだ。


「ふむ……、なるほど。これが加齢というものですか」


 凛とした声音にそちらを見れば、どこか幼さの残る少女だったのが、高校生くらいの美しい姿へと成長したグラの姿がそこにあった。まさしく、絶世の美女へと成長を果たした姉の姿に、僕は臍を噛む。ゲラッシ伯からの依頼を後回しにしたせいで、肖像画用のマジックアイテムが、未だに手元にないのだ。こんな事なら、向こうの判断など仰がずに、さっさと作ってしまえば良かったッ!!

 傾国というのなら、北大陸の半分の国くらいなら亡ぼせる程に美しい姿のグラが、刀を納刀しながら話しかけてくる。ホント、我が姉ながら後世に残しておくべき美しい姿だ。


「さて、では行きましょうか。早くしなければ、私はともかくあなたが危険です。まったく、いつもいつもあなたは……」


 呆れたような声音で、手を差し伸べてくるグラ。しかし、大人びたその姿で、いつものようにそんな親し気な真似をされると、ちょっとだけドギマギしてしまう。なにせ、僕の姿とて、享年に近い高校生の姿にまで成長しているのだ。

 この姿で、同い年のグラといつものように手を取り合うというのは、かなり意味合いが変わって見えるのではないか? 少なくとも、客観的にはただの姉弟には見えまい。


「う、うん……」


 とはいえ、逃走という事であれば、僕よりも彼女の方が適任だ。グラは当たり前のように、炎の翼をその背に生やすと、僕の手を取り大人びた二人の少女に向きなおった。


「それでは、ごきげんよう毒の実ども。老いさらばえて、腐り落ちろ」


 辛辣にそう言ってのけたグラは、僕を抱き上げると翼をはためかせて、一路高い高い壁へと向かって飛行を始めた。あそこの門を通らないと、このヘルヘイムからの脱出は叶わないのだ。

 とはいえ、いくら効率的とはいえ、この姿は……。お互いに子供の姿だった以前ならまだしも、僕が高校生くらいにまで成長したいまでは、本当に格好がつかない……。



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