第35話 本心の吐露
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薄暗い地下室に、ドスドスという鈍い音が響く。悲鳴は既に聞こえなくなって久しい。わざわざ宿ではなく一軒家を借りたのは、これが理由だったようだ。
動かなくなった少女の死体に、なおも拳を振り下ろし続ける小男。一六〇半ばの身長ながら、パンパンに詰まった筋肉が窺える逆三角形の体型が、後ろ姿からもわかる。
どうしてこの私が、こんな異常者の面倒を見なければならないのか……。
「ふーッ。ふーッ。ふーッ」
獣のような息遣いが地下室に響き続けている。この地下室全体にも、獣の巣穴のような、むせ返るような生々しい匂いが充満している。
はぁ……。本当にどうして私が……。
「……チューバ。姉弟が島に渡った。もしもの際に手を下す為にも、我々もゴルディスケイルに移るぞ」
既に骸となった少女を犯し続けるチューバの背に、さっさと連絡事項だけ伝えてこの地下室を去ろうと言葉を投げつける。果たしてチューバは、その動きを止めると、首だけで私を振り向いた。
三十代半ばの中年男は、その精悍な顔を上気させつつ、苛立ちが混じる口調で返してきた。
「うるせぇなぁ。見てわかんだろ。いまいいところなんだよ!」
なにがいいところだ、この異常者が。私は大公領では陛下の信も厚きネーメト様に仕え、第二王国内の王侯にも伝手を持っているんだぞ。それがどうして、こんな片田舎の港町で、こんな野卑な男の世話役などさせられているのか……。
いや、理由など問うまでもない。【白昼夢の悪魔】だ。あの者の我々に対する態度に、陛下も余程ご立腹であられたのであろう。故に、ネーメト様も私にこのような閑職を回さねばならなかったのだ。
「いい加減にしろ。他領でまでこのような蛮行に及びやがって。この事が露見すれば、陛下の御威光の翳りになるとなぜわかんねえ? それとも、陛下の禄を食んで生きていながら、その恩すらも忘れたか? もし忘恩の輩であるならば、いまここで貴様を誅罰してくれるぞ!!」
「はっ! テメェみてぇな貧弱な野郎に、なにができんだ? 俺はこの体勢からでも、片手でテメェを縊り殺せんぞ? やってみっか? お?」
「……ッ!」
クソっ! 腕っ節でしかものを判断できぬ愚物の分際で! 分限というものを弁えぬ輩は、これだから……ッ!
「ただまぁ、たしかにあの大公には世話になったからな。飯代分くらいは働いてやらぁな。ただ、それとこれとは別の話だ。いくら世話になってるからってなぁ、閨の事情にまで口を出される謂われはねーぜ?」
「その事情が問題だっていってんだ! 手の者が他領の娘を
このゲラッシ伯爵領は、当然ながら陛下の麾下にはない。せめて派閥の貴族領であれば、揉み消しも不可能ではなかっただろうが、ゲラッシ伯は王室と王冠領との間を揺蕩っているような立ち位置だ。この事を知られれば、即座に陛下の瑕疵として、どちらかの、あるいは両方の耳に入るだろう。
「はぁ……。ったく、わかったよ。これじゃ、落ち着いてヤってらんねえ……」
「落ち着くもなにも……」
元の顔の判別も付かなくなった少女の遺体には、所々青黒くなった痣が浮いており、手足もあらぬ方向に向いている。この男の異常な性癖が窺える光景だ。虫唾が走る。
「姉弟との交渉は順調なんだろ? だったら戻ってくるまで待ってればいいじゃねえか」
部屋の隅にあった椅子に、全裸のままどっかりと腰掛けたチューバは、手拭いで汗を拭いながらそう言った。その言葉に、私は歯を食いしばり、唇を引き結ぶ。
姉弟との交渉は、既にラヨシュに引き継ぎ、その後は特に問題は起きていないと聞く。それも当然だろう。ラヨシュは本来、使者に立てるような教養もない、ただの間諜だ。
ラヨシュがやっているのは、単に注文した器の仕様や納入時期を、事務的に詰めているに過ぎない。新たにこちらの要求を通したわけでもなければ、陛下の傘下に収めたわけでもない。ラヨシュには、そのノウハウがないのだ。
「ハハッ」
私の方を見て、チューバが嫌味ったらしく笑い声を発する。異常者のくせに、私を見下しているその目が気に入らん。
「姉弟の増上慢は、いずれ我らと決裂する。それは間違いない。その際に、迅速に手を下せるように整えておくのは、陛下の幕下としての当然の責務だ」
そう思ったからこそ、陛下もネーメト様も、この男をこの地に送り込んだのだ。いざというときに、姉弟がドゥーラやラクラの手に渡らぬように、と。
「取り繕うなよ。単にお前自身が、気に入らねえ姉弟をぶっ殺してえってだけだろ? 正直にそう言った方が、わかりやすいしスッキリすんぜ?」
「黙れ。我らはあくまでも――」
ニヤニヤと嗤うチューバの視線が、私に問う。『自分のような者を相手に、なにを取り繕う必要があるのだ?』『空虚なお為ごかしこそが、己の
私はもう一度だけ、暗く冷たい地下室の床に横たわる、少女の遺体を瞥見し、ため息を吐く。
「――そうだ」
糖衣を脱いだ言葉で表すなら、私はあの姉弟に対して隔意がある――否。隔意というのもまた糖衣だ。これは純粋に、憎しみ、敵意、恨みといった、敵愾心に他ならない。
「私は――俺は、あの姉弟に、目にものを見せてやりたいと、思っている」
「いいねぇ。そういうわかりやすい殺意は好きだぜ? 少なくとも、辺幅を飾り立てて意味わかんなくなった言葉より、よっぽど聞き心地がいい」
「だから島に渡る。文句があるか?」
「ないね。ないとも。現場ではなにが起こるかわからねえ。例えば、その姉弟が他所の誰かに掻っ攫われそうになったら、どうする?」
面白くもない問いだ。その場合、俺の立場では本来、姉弟に助太刀して、良好な関係を築く為の努力をすべきだ。だが、それを口にするのは、いまの心理状態では憚られた。
「まぁ、お前の立場だと、小難しい事情をいろいろ考える必要があるんだろうな。だが、俺の立場でその状況だったら、他所に連れて行かれるくらいなら殺してしまえって命じられてる。そしていまのお前は、俺の世話役であって、姉弟との交渉役は下ろされている。違うかい?」
「…………」
チューバの言葉は、俺の耳に実に魅力的に響いた。陛下に忠誠を誓い、四方に配して君命を辱めぬ臣下たらんと努めてきた俺にとって、それは己が存在意義を否定しかねぬ言葉だというのに。
「いいぜ。お前は大公の御意思と御立場を考慮して、必死に俺を止めた。だが、俺はその制止を振り切って、姉弟を殺しちまった。そういう感じで、上には報告すればいい。ネーメトの旦那や大公様だって、俺が徹頭徹尾自分の思い通りに動くだなんて、思ってねえよ」
「…………」
それはその通りだろう。だからこそ、俺がお目付け役として配されたのだ。だがそれでも、俺がこの男を完全に制御できるだなどと、ネーメト様や大公陛下も考えてはおられない筈だ。
制御できていれば、ここに少女の死体など転がっているはずもないのだから。
「……わかった」
思っていた以上に暗い声音に、自分でも驚いた。
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