第1話 バカンス

 ●○●


「クヒヒ……」


 俺は嗤う。理由は簡単。眼前のバカの言葉が、まるで見当違いの的外れだったからだ。


「なにがおかしい!?」


 食って掛かるバカに、さらに唇がたわむ。公国群のどこかの国の間諜という話だったが、隠密という立場なのだからもっと落ち着けばいいのにと、どんどん嘲笑が深くなる。


「そもそも、先の計画は貴様の提案で始まった話であったはずッ! ならば、次なるこの策とて、貴様にもメリットがあるだろう!?」

「アハハハッ!!」


 ダメだ。もはや我慢ができない。呵々大笑する俺に、相手の男の表情は憤怒と羞恥に赤面していく。だがそれすらも嘲りを誘うのだから、当然哄笑が収まる事はない。

 こいつは勘違いしている。メリット? ゲラッシ伯爵領の混乱? 第二王国? ハリュー姉弟への攻撃? それが俺のメリットだと考えている、眼前の無能の滑稽さは、一流の道化にも勝る芸ではないか。

 俺の目的は、先の一件でおおよそ果たされたのだ。これ以上、俺が無駄な労力を割く蓋然性がない。


けだし! 貴様には疑わしい点が多々ある! 先の一件が失敗したのは、ハリュー姉弟の実力を見誤ったからだ!! その情報をもたらしたのは、貴様ではないかッ!! よもや、端から我らを謀るつもりで――な、がッ!?」


 いい加減うるさくなったので、俺は取り出しやすい場所に装備していたバターディア――要は鎧通しでソイツの腹部を突いた。まっすぐで細い刀身のせいで、それだけではいくら脆弱な人間であろうと、致命傷には至らない。

 まさか刺されるとまでは思っていなかった間諜が、信じられない者を見るような目で、ナイフの柄と血の滲む自らの腹部を見下ろしてから、ゆっくりとこちらを窺うように顔を上げる。その顔には、恐怖が貼り付いていた。

 いまさらになって、死の恐怖に打ち震えているのだろう。まったく、呑気な事だ。

 その頃には、俺は腰からこの地域に古くからあるノバキュラという鎌のような形状の短剣を振りかぶっていた。まったく、本当に呑気なヤツだ。


「なんで――ッ!?」

「もう用済みなんだよ、お前らは」


 まさか、自分たちにまだ利用価値が残っているとでも思っていたのか、自らを殺そうとする俺の行動に、心底信じられないとでも言わんばかりの表情を浮かべている頭が転がる。俺はすぐさまバターディアを抜き、それとノバキュラの血を拭ってから、バターディアを元の鞘に戻す。

 先の一件から、このアルタンの町は隠密の跳梁跋扈には目を光らせている。俺は問題ないが、コイツがけられていた惧れは否めない。このまま、こいつと同じ路地から出ていくのは、いささか以上に軽率だろう。

 跳躍した俺は、ノバキュラを建物の取っ掛かりに引っ掛けると、ぐるりと身を翻す。何度かたしかな足場や僅かな突起部分を、ノバキュラで手掛かりにし、俺は建物の屋根へと登る。

 屋根の上に気配はなし。どうやら、ここまでは監視していないらしい。まぁ、あんな木っ端スパイにどこまで本腰を入れて監視するのかという話だが、それでもいまのこの町では慎重になりすぎるくらいで丁度いい。


「さて、目的は果たしたものの……――」


 俺に任された務めは既に果たし、主に情報も渡している。以降は、往時のようにアルタンでの潜入を続行すればいい。だがしかし、先の任に関する事が、俺の脳裏によぎる。

 俺は建物の屋根から、夜のアルタンの町を俯瞰する。夜の闇に沈みゆく、人間の町。確認はできないものの、この視線の先には、現在改装中のハリュー邸があるはずだ。


「ハリュー姉弟、か……」


 独り言は夜の風に溶け、誰の耳に届く事もなく霧散する。

 先の任務の主なる目的は、最悪の危惧に対するもの。ハリュー姉弟がという確認は取れたものの、その真意に関して十分に浚えたかというと、いささか拙い……。

――もう少し、深く探りを入れるか。

 アルタンの夜景を眺めつつ、俺はそう決意した。当の姉弟がアルタンの町から離れている事を知ったのは、翌日のギルドでの事だった為、この頃はまだ格好を付けていられたのだ……。


 〈1〉


「ぉお……っ! 海だっ!」


 僕は思わずそうこぼした。眼前に広がる紺碧の海原は、この世界に生れ落ちて初めて目にするものだが、どうしてどうして郷愁を擽られてしまう。まぁ、それも仕方のない事だろうが。


「ここがウワタンですか。噂通り、寂れていますね」


 僕とは対蹠的に、淡々とした口調と冷たい目でウワタンの町を睥睨する、我が姉グラ。まぁ、彼女の言う通り、いま現在このウワタンはあまり活気があるとは言い難い。

 かつてはナベニ共和国からの舶来品が、帝国を目指してスパイス街道に合流する為に、それなりに賑わっていた町なのだが、いまやナベニポリスと帝国は犬猿の仲だ。ナベニポリスとしても、せっかくなら商売は手広く行いたいだろう。少なくとも、ベルトルッチ平野では、同じ海洋国家であるジェノヴィア共和国という競合相手がいるのだ。

 だがむべなるかな、帝国がパティパティア越えをしてナベニ共和国を侵略してからというもの、ナベニポリスは帝国との交易の一切を閉ざしてしまった。帝国としても、わざわざ二重で関税がかかっているナベニポリス由来の舶来品よりも、ウェルタンの港町が仕入れる第二王国産の舶来品がある。そこまでナベニポリスに固執する理由はなかった。

 結果、煽りを食らったのがこのウワタンというわけだ。いまでは完全に、ゲラッシ伯爵領のミソッカス扱い。スパイス街道からも外れ、たまにその存在すらも忘れられるような町になってしまったわけだ。


「まぁ、元々アルタンやシタタンよりも下の扱いだったんだけれどね」

「そうなのですか?」

「うん。ナベニポリスからの交易品って、基本的に船の方が早いんだよ。だから、第二王国にとっては、わざわざウワタンを経由する意味って、あまりないんだ」


 第二王国内に商品を流通させるなら、あらゆる意味で交易都市ウェルタンの方が使い勝手がいい。ウワタンも港町だが、ウェルタンよりも小規模な町である。当然、訪れる船の数もウェルタンやナベニポリスとは比べ物にもならない。

 わざわざナベニポリスから然程離れていないこの町を経由する意味は、然してないのである。なにより、ウェルタンはアンバー街道につながる水路まであるのだ。文字通り、比べ物にもならない。

 まぁ、ウェルタンが直轄領になっている現状では、ゲラッシ伯爵領にある唯一の港町という存在意義はある。実際、ウワタンだって完全に寂れ、困窮しているわけではない。とはいえ、交易を円滑にする為に、それなりに税制を優遇しているスパイス街道の方が、あらゆる意味で使い勝手がいいのである。その為、ますます存在感が薄くなってしまっている町なのだ。


「まぁ、端的に言っちゃえば、ナベニポリスとウェルタンの間にあるせいで、影の薄い港町って事」


 正直、航路としてもあまり魅力的ではない。なにせ、すぐ南にウェルタンがあり、すぐ西にナベニポリスがあるのだ。わざわざウワタンに寄り道する意味は、スパイス街道に荷を送る際に、多少の時間を節約できる程度である。その為に船便を使う意味はあまりない。

 だからこそ、港町なのに交易の中心はなんと陸路。ベルトルッチ平野から、第二王国や帝国に向けて運ばれる馬車や旅人が、アルタンに向けて通過する宿場町のようになっているのだ。


「では、なぜこちらに来たのです? 行き先にはウェルタンも含まれていたでしょう? 海が見たいという事なら、そちらで良かったのでは?」

「まぁ、候補にはあったけどね」


 グラの言葉に、僕は大海原を眺めつつ答える。そう、候補にはあったのだ。普通に考えれば、町の規模も、そこで手に入れられるものも、すべてがウェルタンの下位互換であるウワタンに来る意味はそれ程ない。

 しかしそれでも、ウワタンにはあってウェルタンにないものだって、たしかに存在する。それが――


「――ゴルディスケイルの海中ダンジョン」


 僕がその名を口にすると、グラの顔が真剣味を帯びる。この町のさらに西、ナベニ共和圏と第二王国との間にある離れ小島に存在する、中規模ダンジョン。一応は係争地であるものの、その騒動は普通の『この島は自分たちの領有地である』という主張ではなく『その島はそちらの領有地である』という、押し付け合いに他ならない。

 まぁ、ゴルディスケイルの特性を思えば、それも仕方がないだろうが……。


「お隣だしね。挨拶は必要だろう?」

「挨拶ですか?」


 いまは周りに使用人や、シッケスさんとィエイト君もいる為、主語をぼかしつつ会話する。これならまぁ、ダンジョン研究の一環と言い張れる会話だろう。

 まぁ、やる事は文字通り挨拶だし、その目的はバスガルのときのように、こちらのダンジョンの拡大と向こうの先行きがかち合わないよう、事前に話し合いの場を設けるというものだ。

 このウワタンにはバカンスで訪れたのだが、完全に遊興というわけではなく、一応仕事もある。

 とはいえ、久々に目の当たりにした海と、潮の香りに、僕の胸は高鳴っていた。



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