第134話 針生紹運の挫折

 ●○●


 翌朝。僕は朝食を摂る。同じテーブルにつくグラが、心配そうにこちらを見ていた。

 彼女を安心させる為にも、僕はこれから、きちんと食事を摂らねばならない。


「…………」


 眼前にあるのは、比較的臭味のない白身魚に小麦粉をまぶし、オリーブオイルで焼いてから柑橘の汁で味と香りを整えた料理。なによりも、食べやすさを優先して作られたものだ。

 添えられた野菜の炒め物や、デザートのアンジーの実に食指を誘われるのをグッと我慢して、気合を入れ直し、魚に向き直る。

 大丈夫。僕は大丈夫……。自らに言い聞かせて、白身魚にナイフを入れた。震える手で、ゆっくりとフォークを口に運ぶ。そんな僕を、グラと主だった使用人――ザカリーとジーガと、料理を作ったキュプタス爺がじっと見守っている。

 口に含んだ白身はホロホロと崩れ、白身魚らしい淡白な味が口腔を満たす。微かな潮の香りに、柑橘の香りが乗って実に心地がいい。臭味などは上手く消され、魚介の旨味を上手に抽出した一品だった。


――絶叫が鼓膜に蘇る。


 パトロクロスがサディに噛み付き、思い切り彼女の腕の肉を噛み千切る。迸る鮮血と、こだまする絶叫。マグがリーダーを助けようと、再び仲間を手に掛ける覚悟を決めて駆け寄るが、パトロクロスは力持ちの前衛で、トゥレドとは違う。おまけに、彼女と違って、いまのパトロクロスは誰かに押さえられているわけではない。ただでさえ力持ちのパトロクロスが、脳のリミッターまで外れたバカ力でマグに逆襲する。喉笛に噛み付かれ、湿った断末魔をあげるマグ。どしゃりと押し倒され、ぐちゅぐちゅという生々しい咀嚼音が響く。

 冷静そうなバルモロがその表情に絶望を貼り付けつつ叫び、死霊術で生み出した【大骨獣ヒュージビーストスケルトン】をパトロクロスに嗾けた。そのせいで、彼らが支えていた前線は完全に崩壊してしまう。腕を負傷したサディも、魔力が切れるまで死霊術と拙い属性術を使い続けたバルモロも、五級冒険者に相応しからざる、ただゾンビの幻影を貼り付けただけのスケルトンの群れに呑まれ、死んでいった。

 彼らの死に様がフラッシュバックすると同時に、僕の脳裏に思い起こされるのは物言わぬむくろとなった遺体が地面に横たわる光景だ。僕はそれを、意識して食べ――ようとして、何度もえずいた。何度も何度も、胃の内容物がなくなるまで、いや、なくなってからも吐いた。それでもなお、食べようと試みる僕を見かねて、グラが一瞬で彼らをダンジョンに呑み込む。

 ずるずると、地面に呑み込まれていく彼ら。ずるずる。ずるずる。むしゃむしゃ。むしゃむしゃ。


 最後にもう一度えずき、そして僕は、人間を食べるという行為に、完全に失敗した。


 気付いたら、魚を吐いていた。心配そうに駆け寄ってきたグラが背を摩り、ザカリーはすぐさま後始末を行う。ジーガとキュプタス爺は痛ましそうな顔で、そんな僕を見ていた。

 あれから僕は、生臭が食せなくなった。別に、肉や魚を食べる事を罪深いと思っているわけじゃない。だがどうしても、動物や魚の命と人間の命を、等価とは思えない自分がいて、そんな自分が食物たち対しても、ダンジョンコアに対しても、あまりに非合理的な考え方をしているように思えてならない。その認知的不協和が、僕に肉食という行為を拒絶させる。

 命に感謝しているとかいないではない。勿論僕は、親父の躾もあって、食べ物には常に感謝している。それを採ってきてくれた人に対してもだ。だがこの思いは、単純に「いただきます」「ごちそうさま」を言うだけで解決するような話ではない。

 いってしまえば、僕はいま、完全に己の中の宗教が崩壊してしまっているのだ。針生紹運という人間の意識と、ショーン・ハリューという化け物の生態が、完全に拒絶反応を起こしてしまっている状態である。あの冒険者パーティの捕食に失敗したあの日から、僕は己の化け物としてのアイデンティティに、致命的な瑕疵を抱えてしまったのである。

 覚悟はしていたつもりだ。自らの意思で、彼らを食すと見定め、何度も何度も己に言い聞かせ、それから臨んだ行為だった。だが、付け焼刃の覚悟も薄っぺらな理屈も、本能的な忌避感からは逃れられず、僕はこの体たらくである。


「大丈夫ですか?」


 優しい声音で心配してくれるグラに、僕は力なく笑いかける。


「ああ、大丈夫。ただ、どうやらまだダメみたいだ……。もう少し時間をおけば、いつも通りになるから、ちょっとだけ待ってて」


 これは別に強がりじゃない。いまはまだ、あの光景が鮮明に脳裏に焼き付いているから『食』という行為に際してフラッシュバックし、こうなっている。だが、記憶とは時間とともに薄れるものだし、なにより食欲とは本能だ。

 この依代は生命力の消費に伴い、きちんと空腹を覚える。その欲望に急き立てられれば、いずれ命に対する罪悪感よりも、空腹という本能が勝る。そして、だからこそ食に感謝するという、僕本来の宗教を取り戻せるはずだ。

……そう、そこに人間が絡まなければ、きっと大丈夫……な、はずだ。


「旦那……」


 そこで声をかけてきたのはジーガだった。


「少し、心と体を休めた方が良くないですか? 正直、いまのあんたは、見ていて痛々しいぜ?」


 乱暴な口調だが、非常に心配そうなジーガの言葉に、少しだけ意表を突かれた。心身を休める、か……。そういえば、生まれ変わってからこっち、休みらしい休みはあまりとっていなかったな。

 まぁ、生誕直後はもとより、対バスガル戦は生存競争だったのだから、ある意味当たり前だが。しかし、思えばそれからもいろいろと忙しくて、休むという事はしてこなかった。そうか、休暇か……。

 たしかに、いまの自分の状態を鑑みるに、ここで変に気張り続けるよりは、ある程度の休息期間を設けた方が得策かもしれない。少なくとも、自分に【尸刑】をかけて無理矢理食欲を高めるよりかは、よっぽど健康的だ。勿論それは、最終手段として用意していた案だが……。


「私も、それがいいかと思います。幸い、いまは喫緊の要件というものはなかったはずです。しばしの間、あなたには療養期間が必要です」

「そうじゃのう。グラ様のおっしゃられる通り、いまの旦那様はかなり厄介な状態じゃ。本当に最悪の場合、いつまでもこのままという事も、あり得ぬ話ではないかも知れぬ……」


 グラが優しげに語りかけ、その背後では席についたままのキュプタス爺が深刻そうな表情で頷いていた。ジーガもその意見には同意のようで、やや逡巡したあとに付け加える。


「最悪、【神聖術】の治療を教会に頼むべきかもしれません……」

「それは勘弁して欲しいな……」


 教会による【神聖術】の治療には、結構な額のお布施が必要になる。まぁ、この場合、お金を払うだけでこれが治るのなら、ある程度までは許容できるのだが、問題は僕らがダンジョン側の陣営であるという点だ。なにせ、この体からして作り物の依代である。

 流石のグラも、人間の【神聖術】までは使えない。信仰が鍵になる魔力の理なので、ある意味当然だが。だからこそ、【神聖術】にはなにができ、どこまでできるのかが、不明確な点がある。故に、できる事ならあまり教会には近付きたくないのだ。触らぬ神に祟りなし、君子危うきに近寄らず、だ。


「わかった。しばらくお休みを取ろう。この家は、ジーガとザカリーに任せていれば大丈夫だろうし」

「ああ、任せてくれ。幸いと言っちゃなんだが、乗っ取り計画の方はカベラに譲歩する分、急ぎの案件はあまりない。勿論、交渉なんかは必要だが、それは俺に任せてくれりゃあいい」

「そうだね。任せるよ」


 ジーガが必要以上に力強く請け負ってくれる姿に、流石に苦笑してしまう。彼もまた、グラと同じく現状を深刻に捉えすぎているきらいがあるようだ。まぁ、それは、ここにいる全員に言える事か。


「お屋敷の改装においても、主のご迷惑になるような工程がいくつかありました。この機に、その改修や修繕を進めておきたく思います」


 ザカリーも、積極的に留守居役を請け負ってくれるらしい。その背後では、キュプタス爺が、まるで孫を見守る好々爺のような顔で頷いている。もはや、僕が嫌だと言っても、強制的に休まされそうな雰囲気だ。

 いやまぁ、休むけどさ……。


「そうだな……」


 休むとなれば、なにをしようか……。正直、生まれてからこっち、勉強と訓練とダンジョン作りしかしてこなかったしなぁ……。


「とりあえず、海が見たいな……」



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る