第121話 冥府そのものにして、死そのもの

 地面に広がった漆黒の闇はモートの巨体を形作る。地底世界の主に相応しく、闇の隆起に合わせてバキバキと大地は割れ、漆黒とともにその体を構成する一要素として編み上げられる。最終的に、腰から上だけで五メートルを超える身体が形成された。

 その身体を構成する地面が、次第に赤熱していき、赤々としたマグマへと変じていくとともに、砂漠の熱波を思わせる風がその身から吹き出した。

 また、いまだに地面に広がる漆黒が、蝋燭に照らされた領巾ひれの影のようにゆらゆらと、彼らの足元で揺蕩っている。まるで虎視眈々と獲物を求めているかのように……。

 そしてそんな闇の隙間から覗くありとあらゆるものは、モートの身体から吹き荒れる死の風によって風化していく。

 地面の土は砂と化し、建物の壁はボロボロと崩れ始め、道端の草は干涸びていく。夜の空を人知れず飛んでいたはずのコウモリは地面に落ち、その命を失うと同時に干涸び始め、最後はミイラのような残骸へと変わり、その後は砂の仲間入りをしていった。

 我々とて、その影響からは逃れられない。鎧は朽ち、武器は錆び、服すらもボロボロと風化していく。モートからの熱波が肌を舐める度にその変化は増し、喉の渇きが増していく。


「……ああ……っ、……――ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!!」


 なにかに絶望した男が、もはや形振りも構わず逃げようとした。まさしく這う這うの体。錆びた武器を投げ捨て、人波をかき分け、こけつまろびつ、四つん這いになりながら逃走する。

 だが、冥府そのものとすら表される死の神が、そんな愚者の遁走など許すはずがない。地面に揺蕩っていた漆黒から、闇色の鎖が放たれ、彼の動きを封じる。手足に闇色の桎梏しっこくを科された男は、身動きすら取れなくなり、やがてズブズブと地面へと沈んでいく。


「いや――いやだぁ! 助けて! 助けてぇ!! 死にたくない! まだ死にたくないぃぃいいい!!」


 その表情に絶望を貼り付け、男は泣き喚く。だがしかし、死の神がそのような愚者の無様に取り合うはずもない。

 鎖はモートの舌であり、地の底に引きずり込むのはモートがその者を食らうという事を意味している。彼を腰まで呑んだ漆黒が、まるで咀嚼するように蠢くのも、それをイメージしての事だ。

 やがて男は、泣き言とともにとぷんと地面へと呑み込まれて、その姿を消す。一人目と同じく、それはあまりにもあっさりと、躊躇も余韻もなく、当然のように嚥下された。その場にはしばらく、もごもごと蠢く唇が残されていたが、やがて白い歯を剥き出しにニィと笑ったのち、他の闇に同化し、再び揺蕩い始めた。

 男の魂はモートの喉を通過し、冥府に囚われた。それを理解したのか、混乱の喧騒がその場を起点に、急速に沈静化していく。誰もが、この場より逃げ出したいという共通の思いを抱き、しかし死の巨神の次の標的になるのだけはごめんだという思いもまた、一様に抱いていた。

 だからこそ場は静まり、誰もが身動きすら取れなくなっている。この場に響いているのは、モートから噴き出す熱波の風音と、彼の哀れな獲物である暴徒どもの、カタカタという歯の根の音だけだ。約一〇〇〇人もいると、歯の根の音もそれなりに大きなざわめきになるらしい。

 だが、これはいずれ限界を迎え、破綻する、嵐の前の静けさでしかない。なにか一つでも切っ掛けがあれば、極限まで高まった恐怖は彼らを恐慌に陥らせ、際限のない混乱が巻き起こるだろう。この静寂はその前兆でしかない。

 私はそこで、大きくため息を吐く。もしもいま、彼らが【死を想えメメントモリ】の影響下にあれば、その恐慌と同時に皆殺しにできただろう。

 勿論、一連の光景――風化や地面への引き込み、モートの姿等は、予め作り込んで【曼殊沙華】が発動すると同時に映し出された、幻影でしかない。モートに呑まれた者らも、見えないだけでその場に倒れているはずだ。主眼は、あくまでも彼らに死というものを実感させる為の幻だ。

 私の背後にあるハリュー邸すらも、いまや二階部分はほぼ崩れ去り、崩落は留まるところを知らない。だが【モート】の影響範囲外に出れば、我が家はいまだ健在である。

 だが、彼らは既にそんな当たり前の事に思い至る余裕がない。完全に、ショーンの作りだしたこの幻に呑まれてしまっている。もしかすれば、モートが彼らを呑み込んだ途端、【死を想えメメントモリ】の影響下にない状態であろうと、彼らは息絶えるかも知れない。

 それくらい、私の弟が作り出した世界は、彼らの心を恐怖で満たし、現実と遜色のないものとして、その精神に刻み込まれている。

 我が弟の生みだした幻について考え、ほくそ笑んでいたら、幾人かの連中がこちらを窺っていた。どうやら、隙を突いて私を殺す腹積もりのようだ。術者である私を殺せば、この【モート】も解除されると思っているのかも知れない。

 あるいは、私の装着している【曼殊沙華】を奪い、【モート】の主導権を奪おうと考えているのか。残念ながらこの幻影は、発動した術者に頓着せず影響を及ぼす。

 そんな男の一人が声を発する。


「――いくぞ!」

「「「おうッ!!」」」


 タイミングを合わせて、五、六人の男どもが私に飛び掛かってくるが、私は両手でなにかを構える仕草を取ると、口を開いた。


「狩れ――【頬白鮫】」


 ぶわりと、モートのものとは別の熱波が噴き出し、私がなにかを振る軌道に合わせて炎の斬撃が襲撃者を両断し、燃やし、消し炭へと変える。幾人かの男は、その痕跡すら残さずにこの世から消えた。

 そう。この光景は結局のところ、幻だ。地面も、建物も、鎧も武器も風化しているこの光景は、あくまでもそう見えているだけでしかない。私の目には、既に朽ち果てて地面で枝と鉄屑になり果てている【頬白鮫】も、実際にはこの手に握られているはずなのだ。たとえその感触が、私の手になかろうとも。


「「「――――!!!!」」」


 私に襲い掛かった男どもがあっさりと殺され、残骸すらも残さず燃え尽きた事が、最後の一押しになったのだろう。暴徒どもはいよいよ限界に達し、各々に思うまま悲鳴なのか怒号なのかわからぬ声を発し、三々五々に逃走を始めた。ビリビリと肌を震わせる轟音が、彼らの声だと思うと、なかなかに驚くものがある。竜種の咆哮ハウルもかくやの絶叫だ。

 混乱で倒れる者、踏み付けられる者、同士討ちを始める者、様々な光景がそこここで散見される。懲りずに私に襲い掛かってきた者もいたが、そんな連中は先程の連中の二の舞でしかない。

 十数人をこの世から消した段階で、連中はモートと同じように私の事も避けるようになった。そのモートはといえば、その巨大な口を開き、哄笑を上げながら逃げ惑う連中を呑み込んでいく。

 地面から放たれる鎖に囚われ、地面に呑み込まれていく者。モート自身が掴み上げ、一呑みにしていく者。腕の代わりに舌で絡め取られ、カエルに呑まれるように食われる者。様々だ。

 それで死んでなかったところで、彼らはそこに倒れているはずなので、逃げ惑う暴徒どもに踏まれ、無事にはすむまい。というか、まず助かるまい。


「ああ、本当に勿体ない。やはり本来の形で、この【モート】を使ってみたかった……っ」


 あの子が作りあげた死の世界が、どれだけ素晴らしいものだったのか、やはり本領を発揮する形で確認したかった。とはいえ、ショーンとは宗教観の違う彼らにも、この【モート】が十全に恐怖を与えられるのかという実験は成功だ。

 ショーンの言う通り、軍隊として意思が統一できなくなった群体など、蹴散らすまでもなく散り散りになっていく。なるほど、人間の心理というものにおいては、やはり私の理解はまだまだ足りないようだ。

 どう考えても、ここでの最適解は全員で私に吶喊する事だろうに……。まぁいい。もはやこれ以上、手を加えるまでもない。

 私は振り向くと、朽ちてバタリと倒れた我が家のドアの向こうで腰を抜かしているラベージを見下ろす。彼はこの事態の一部始終を、そこから見守っていたはずだ。

 真っ青な顔で腰を抜かし、眼前で逃げ惑う連中を見ているラベージに、私はその頭上から告げる。


「私たちに敵対するというのは、こういう事です。あなたはそのラインの上で反復横跳びをして遊んでいるようですが、少しでも踏み外せばあの者らと同じ轍を踏むという事を忘れぬよう、その心胆に刻み込みなさい――本当に、次はありませんよ?」


 いい歳をした大人が、ベソをかきながらブンブンと頭を振って頷く姿を後目に、私は家へと入る。

 背後の狂騒がどうなろうと、もはや興味もない。どうせ全滅させるつもりはないのだから、これ以上関わるのも時間の無駄でしかない。

 私は、この幻影の中にあってもどういうわけか一向に風化する気配のない【地獄門】を開き、我らの住処へと戻る。愛しき地底へと……。



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