第120話 モート

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 それから三〇分くらい経っただろうか。秘かに【扇動者】と思しきスパイを一名、冒険者だか傭兵だかわからないヤツを三人ふん縛って路地に転がしながら、流石にこれ以上は連行できなくなると思っていたところで、ハリュー邸の方で動きがあったようだ。


「……誰か出てきた……――あれ、ハリュー姉弟の姉の方……」


 サイネリアの言葉に、身を隠している屋根へと上り、そこからハリュー邸方面を見れば、たしかに家の前に小柄な少女の姿があった。片腕には私と同じ得物であるハルバード、腰に大きな丸盾、黒に赤の差し色が入った鎧姿の少女。ハリュー姉弟の姉――グラ・ハリューだ。

 暴徒たちは完全に二分されており、単に八つ当たりを目的としていた連中は既に、ほとんどが広場へと踵を返しており、残っているのは完全にハリュー家にちょっかいをかける腹積もりの連中だけだ。


「どうすんのかしら……」


 カメリアの言葉に、私も同じ疑問を抱く。一応、暴徒たちを分断した以上、最低限町に対する配慮はしたと言い張る事はできるだろう。ここにいる一〇〇〇人以上の人間を焼き払っても、領主から一方的に非難される事はない。そもそも、今回の一件は領主側にも非がある事態なのだ。

 ハリュー姉弟の立場に立ってみれば、官吏側の不手際の尻拭いをさせられているようなものだ。なにが楽しくて国家規模の謀に、ただの冒険者の身で巻き込まれねばならないのか。私が彼らの立場なら、領主側から文句を付けられても、どの口で言っているのだと返したいところだ。

 だから、場合によってはあそこにいる全員を、グラ・ハリューが皆殺しにしたっておかしくはない。できるかできないかはともかく、やりかねないとは思っている。

 あのバスガルの一件に携わった冒険者の多くは、どこか彼女を崇拝しているようだが、私たちが集めた情報を精査するに、彼女は非常に矯激で、弟以外を虫けら程度にしか思っていない節がある。そこにあるのは、益虫か害虫かだけだ。

 そして、いま、彼女の前にいるのは、彼らにとっての害虫に他ならない。


「できるだけ離れて観察しましょ」


 ハリュー邸からは十分に距離を取っていたが、それでも心配になった私は、メンバーにそう言ってから、路地裏に捕虜たちを放置したまま、三軒程建物を離れてグラ・ハリューを観察する事にした。


 ●○●


 私の眼前には、一〇〇〇人以上もの地上生命どもが犇めいている。人間もいれば、獣人や妖精族も紛れていて、実に雑多な印象を受ける。共通点は、どれもこれも薄汚いところか。

 できればここで、【死を想えメメントモリ】を使ったあとに【曼殊沙華】

を用いて、根こそぎ絶やしてしまいたい。だが、ショーンにも注意された手前、ある程度は手加減をしなければならない。ショーンの策によって、領主とやらに因縁を付けられそうな連中を遠ざけたというのに、さらに配慮しなければならないというのは、あまり納得はできないが……。

 暴徒化した地上生命どもは、私が現れた事に当初は動揺していたようだが、すぐに手間が省けたとばかりに、ジリジリと距離を詰めてきている。前面には傭兵と思しき連中が、好色そうな下卑た視線を湛えて。その後方にも、私の装備を見て舌なめずりをしているような、下級冒険者と思しき連中が揃っている。

 色欲と物欲に滾った視線を一身に浴びてなお、恐怖は一切ない。当たり前だ。眼前にいるのは、人間の中でも下から数えた方が早い有象無象だ。英雄と呼ばれる輩が混じっている可能性は、極めて低い。

 であれば、私の敵にはなり得ない。蚊柱がごとき、羽虫の群れだ。


「おいおい、こいつがハリュー姉弟の妹の方か?」

「姉じゃなかったか? にしたって、えれぇ別嬪じゃねえか」

「お嬢ちゃん、どうして出て来たんだい? 危ないよぉ」


 間抜けな地上生命どもが、下卑た視線のままに私を嘲弄しようと声をかけてくるが、反応を返してやるつもりはない。ハッキリ言って、同レベルに会話を交わす価値すらない輩だ。

 少し考えれば、質問する内容はいくらでもあるだろうに、下劣な地上生命ではそれすら思い至らないのだろう。例えば、先んじた冒険者たちの安否などに、だ。それを気にするような頭があれば、そもそもこんなバカ騒ぎに参加してなどいないだろうが。


「そろそろ十分でしょうか……」

「あん? なにがだよ?」


 十分に引き付けたと判断した私は、独り言ちる。その言葉を聞きとがめた間抜けが問うてくるが、当然返す言葉などない。

 私は、本来盾を持つ右手に装着された、プラチナ製の【曼殊沙華】を掲げる。目敏くこの装飾品の価値を感じ取った間抜けどもから、強欲などよめきが流れてくるが、頓着する事なく、私は詠うように言の葉を紡ぐ。


「【暮夜ぼやに生まれ、深更しんこうを謳歌し、残夜に死せ】」


 この【曼殊沙華】には、【死の女神モルス】と同じく【死を想えメメントモリ】のとどめ用の幻術である【モート】が付与されている。それは嵐と豊穣の神、バアル・ゼブルの兄弟にして敵対者たる地底世界の主であり、冥界ホロンそのものともされている死と乾季の神の名だ。その名は、セム語という言語では死そのものを意味するという。


「な、なんだこりゃ!?」

「闇ッ!?」

「バカ言え! 周囲はとっくに闇の中だ!!」


 騒がしい冒険者どもが、プラチナ製の【曼殊沙華】から流れ出した、夜闇よりもさらに濃い地底世界の闇が地面へと垂れ、広がっていく事に動揺し、口々に激しい口調で喚いている。

 瞬く間に地面に広がっていく闇は、一定範囲に広がったところで、その動きを止めた。この【曼殊沙華】で発動できる【モート】の限界距離まで広がった証だ。

 準備はこれで終わり。私は一応、己に【平静トランクィッリタース】をかける。ショーンの作った幻術を、ただ漫然と受けるなど愚かである。例えあの子にその気がなくとも、私がショック死しては元も子もない。

――あの子の幻術であれば、下手をすれば【死を想えメメントモリ】を使っていなくても、事はあり得る。ノーシーボ効果というのはなにも、幻術でなければ起きないような精神作用ではない。


「うわぁぁぁああああああ!?」


 暴徒のいた一角から、盛大な悲鳴が上がる。どうやら始まったようだ。

 モート神の逸話といえば、バアルですら滅ぼすには能わない不滅の神であり、その喉が冥府の門であり――そしてなにより、ウガリット神話における主神たるバアル・ゼブルすらも、一呑みにするという逸話である

 バアルが消えた世界からは、すべての実りは失せ、大地は砂漠化した。豊穣神たるバアルと、死の神モートは、つまりは雨季と乾季のメタファーであり、雨季と乾季が繰り返される限り、この二柱の神は常に不滅であり、殺しても復活する。だが、モートがバアルを呑み込むと、その均衡が崩れてしまうのだ。つまりは、凶作を意味する。まさしくを象徴する神である。

 悲鳴の元では、赤々と燃え盛るマグマが走る漆黒の巨腕が、暴徒の一人を捕えていた。そしてその足元からは、人間を何十人も呑み込めそうな巨大な――口腔。長い舌。

 そう、それこそが冥府の門にして、遍く生き物はそこから逃れられぬという、死の神モートの喉だ。


「ああああああああああああああああああああああ!?」


 かつてバアルの身代わりすらも呑み込んだという、そのモートの喉に冥府を覗いた男が、絶叫する。だが、もはや逃れる事などできない。そして、あっさりと一人目が呑まれる。

 断末魔すら呆気なく失せ、本当にあっさりと、まるで一粒煎り豆でもつまみ食いしただけとでも言わんばかりの光景。そしてそれは、ある意味で正解である。

 その漆黒の肌にマグマの文様が走るモートは、一人の命ではまるで足りないとばかりにニヤリと笑った。

 モートは、神々の王になった事を知らせるバアルの宴に、自身の好む人肉が供されない事に激怒したという逸話も残っている――食人の神でもある。



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