第89話 不通の廊下
〈9〉
翌朝、陽が登ってすぐに、俺たちは姉弟の工房の探索を再開していた。探索の再開は、早ければ早い程いい。あの【扇動者】たちにちょっかいをかけられる前に、ハリュー邸攻略を終わらせなければ、どんな口出しをされるかわかったものではない。
とはいえ、この工房の構造上、戦力は逐次投入せざるを得ないのが難点だ。恐らくは、それもあの姉弟の狙い通りなのだろう。
入り口付近の、吊天井、吊り橋、貯蔵庫の並びが厄介なのだ。ここを大人数で攻略するのは、得策ではない。
一番まずいのは、物理的に人数の入らない吊天井と吊り橋ではなく、ある程度の人数が収容できてしまう貯蔵庫だ。下手にあそこに人が溜まると、被害が拡大してしまう。集団の中に錯乱した者が現れるという状況を想像するだけで、その厄介さに辟易としてしまう。
なので、そこに仕掛けられている罠とその対抗策を授けて、各パーティごとに一定間隔で冒険者たちを進ませるしかない。メンバーが欠けてしまっているパーティも、同じような連中を寄せ集めて、臨時のパーティを形成して、後詰をさせる予定だ。
そうして、姉弟の工房を探索する事数時間。そろそろ昼になろうかという頃合いで、鏡の部屋を探索していた俺たち【
「まだ下があるのか……」
「まぁ、これまであったのは、侵入者を撃退する施設ばかり。地上の屋敷の敷地を思えば、本来の工房としての役割を持たせた施設は、さらなる地下へと作るのが道理だ」
俺の呆れたような呟きに、パーティメンバーの一人がそれも仕方がないと肩をすくめつつそう返した。
たしかに、これまでは侵入者の撃退の為の仕掛け部屋ばかりであり、魔術師の研究用の部屋は皆無だった。本来、魔術師の工房というのは、その研究を守る為に防衛機構を整えているものだが、その研究の為の施設がないのは本末転倒でしかない。
では、この工房はどこまで続いている……?
昨日、落とし穴の下に派遣した【大盾】のパーティからの音信が途絶えた件もある。俺は、途端に先が見えなくなったせいで抱いた不安を、なんとか表情にださないよう努める。
「まさか、どこまでも果てがねえ奈落でもあるめえ。いずれは姉弟の元に辿り着くんだ。冒険者相手にダンジョンの真似なんざ、上等じゃねえか。さっさとダンジョンの主気取りの魔術師の元に行って、上級冒険者の実力ってヤツを見せてやんぜ!」
俺は畏れを掻き消すように虚勢を張ると、仲間を鼓舞して報告者に案内をさせる。鏡の衣裳部屋の一角にある、石造りの階段。あの【地獄門】から続く広い階段とは違う、狭く螺旋を描く階段だ。
そこに待っていた報告者のパーティと一緒に、俺たちは階段を降りる。既に、いくつかのパーティは先行しているらしいが、この先は石造りの狭い通路のようだ。
「あん? なんだこりゃ?」
螺旋階段の途中に、なにかが書かれたプレートがあった。首を傾げて呟いた俺に、パーティメンバーの斥候が、呆れたように答える。
「これまでもあったろ。この先のエリアの名称だ」
「【
「さてな。なにかの謎かけか、あるいはヒントか……。いずれにしろ、進んでみなければわかんねえよ」
「そうだな……」
螺旋階段はすぐに下階に辿り着く。そこは、なんというか……――
「なぁ、これって本当に、ダンジョンの真似か?」
「どうだろうな」
斥候は苦笑するが、それはどこかに姉弟に対する畏怖が混じっていた。
当然だろう。人類にとっての最大の敵とも呼べるダンジョンを模倣するという悪趣味さは、ハッキリ言って常軌を逸している。もしもこんな事が公になれば、それだけで姉弟は大顰蹙を買う事になるだろう。
まぁ、そこに盗みに入る俺たちも俺たちで、褒められた事ではないんだろうが。おっと、違う違う。今回は、姉弟と話し合いに来たんだった。
「しかし狭ぇな……」
長方形の石積みの壁が延々と続く通路は、横に三人並ぶのがやっとという狭さだ。ここを、二パーティが一緒に探索するというのは、いかにも窮屈だろう。こんな所にも人数制限かよと思うが、仕方ない。
「ここからはまた、別行動で探索だ。抜け駆けでも構わねえが、できれば次のエリアに行くときは連絡、ないしは目印を残してくれ。あと、先に姉弟の工房を見付けても先走んなよ? 相手はあの【白昼夢の悪魔】と【陽炎の天使】だってのを忘れんな。たぶん、俺たちじゃなきゃ勝てねえからな」
報告者たちのパーティにそう釘を刺して、俺たちは二手に分かれた。
ここからは斥候が羊皮紙を取り出し、地図を作りつつ進む、いつもの探索といえる。とはいえ、ここはあくまでも魔術師の地下工房。ダンジョンと違ってモンスターなんて……――
「おいおい……」
思わず絶句してしまう。通路の曲がり角からひょっこりと顔を覗かせたのは、グラットンスラグ――要は、バカでかいナメクジだ。そしてそれは、紛う事なく、正真正銘、どこからどう見ても――
「モンスターじゃねぇか!!?」
どうしてハリュー姉弟の工房に、本物のモンスターなんぞが放たれているッ!? わざわざ外で捕獲して、工房に引っ張り込んで放し飼いにしてるとでもいうのか? いくらなんでも、それはやり過ぎだろ!?
思考を巡らせた隙に、グラットンスラグはこちらに気付いて行動を開始する。だが、あまり恐れる必要はない。このグラットンスラグ、足はそれ程速くない。
とはいえ、ヌルヌルとした表皮は斬撃が効きづらく、ブヨブヨとした体は打撃もあまり効果が薄い。倒すのに手間取ると、取り付かれて身動きができないようにのしかかられて、人間や牛馬であろうと溶かして食らう、大食いナメクジだ。
「どけ、俺がやる」
先頭の斥候を下がらせて、俺が前に出る。
グラットンスラグへの対処は、割と確立されている。といっても、動きが遅いのをいい事に、囲んでタコ殴りにするだけだ。物理攻撃が効きにくいといっても、まったく効かないワケじゃねえ。まして【魔術】は普通に効く。
なので定石は、正面に魔術師をおいて両側面から総攻撃を仕掛ける、なのだが……。この通路はその戦法を取るには狭すぎる。
仕方がないので、定石とは真逆に、俺が一息に斬り捨てる事にする。
「――っふゥゥゥ……」
グラットンスラグの動きが遅いのをいい事に、真正面に立った俺は剣をフルークに構えて深く息を吐き出してから、少しだけ息を吸う。ベストの自分を意識したら十分に頃合いと間合いを測り――地を蹴る。
一瞬で迫る化け物ナメクジの正面から、右斜めに抜けつつ剣を振り抜く。
「――あ?」
が、あまりの手応えのなさに俺は、思わずたたらを踏んだ。グラットンスラグを振り向けば、俺が剣を振り抜いた部分から、霞のように消えていく。たしかにダンジョンでモンスターを倒せば、それは霧のように消えるが、これはそれとも違う。ダンジョンのそれとは違って色はないし、なにより魔石すら残さない。
「どういう事だ?」
「エルナト、ハリュー弟は幻術の使い手だ。つまり、これもまた幻って事はないか?」
なるほど。たしかにそれはわかりやすい。そして同時に、流石にあの姉弟でも、モンスターを町中に引き入れるなんてイカれた真似はしないのだと、安堵の息を吐く。
「だが、一つだけわからない事がある……」
俺の言葉に、パーティメンバーたちは一様に首を傾げた。
「吊天井、吊り橋、貯蔵庫、鏡部屋ときて、この廊下にあるのはあの幻だけか? いくらなんでも、危険度が下がり過ぎじゃねえか?」
「たしかに。あんな幻で、人が死ぬとは到底思えねえな」
そう。あんな幻は、最初の一回だけ、ちょっと相手を驚かせるだけの仕掛けでしかねえ。これまでの、命の危険を伴うトラップと比べれば、オモチャみたいなもんだ。
この【
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