第81話 降下部隊の末路
ゆるゆると上昇する俺とアラタは、追撃を警戒していたものの、あの水ムカデがもう一度襲撃をかけてくる事はなかった。やがて空中交叉路まで戻ってきたところで、往路と同様に一旦そこへ着地する。
理由は、アラタの魔力消耗が限界だったからだ。上昇は下降の比ではない魔力消費だというのに、地下へと降り立ってからほとんど間をおかずに上昇をしたのだ。魔力が枯渇寸前になるのも仕方がない。
空中交叉路に膝をつき、辛そうに表情を歪ませているアラタが、懐から
魔導術を用いて作られた、液状のマジックアイテムであり、体液に反応して【魔術】が発動する。その為、傷を治す類の水薬は傷口にかけても飲んでも効果がある。まぁ、体液の量的に、飲んだほうが効果が高いらしいが……。
いまアラタが飲んだものは、彼女が常備している、生命力から魔力を生成するタイプの水薬だ。ただし、当然ながら急速に生命力を消費するこの薬は、非常時でもなければ使うのを躊躇うくらいには、危ういものだ。
「…………」
俺のせいで夫を亡くしたというのに、アラタはあれから俺を面罵する事もなく、ひたすらに生きる為の行動を続けている。それが逆に、胸にズシリとくる。
「……スマン……」
そんな罪悪感から逃れるように、俺は謝った。アラタは生命力回復の為に、甘い携行食料を齧り、十分に咀嚼してから嚥下してから、俺の謝罪に対して言葉を紡ぐ。
「……バカにしないでちょうだぁい。盾役の妻として、こんなときの心構えがなかったとでもぉ?」
「…………」
「あの人からも散々言われていたわ。『自分が誰かの身代わりになって死んでも、絶対にそいつを恨むな。それは、そいつを守った俺に対する侮辱だ』ってねぇ。だからぁマス、アタクシはお前にぃ、恨み言なんてぇ言わないわよぉ。そんなみっともない姿ぁ、あの人にぃ見せられるわけがないでしょぉ?」
「そうか……。ありがとう……」
俺は項垂れつつ、礼を言う。あそこで油断しなければ、俺がカスの代わりに死んでいれば、という自責の念は消えない。きっと、これからもずっと消えないだろう。
それでも、これ以上ここでこの夫婦の矜持を侮るような事は言うまい。
俺は唇を強く噛んで、表情を引き締めてから顔を起こした。携行食料を食んでいるアラタを真正面から見つめながら、俺は現状を確認する。
「ともかく、上に戻ったら報告する事がたくさんある。まず、この道は決して順路なんかじゃなく、さらなる罠でしかねえって事だ。この空中交叉路は、どこへ繋がってどんな罠があるのかもわからねえ。次に、底の溜池とモンスター。特に、モンスターに関しては最重要だ。足場の悪い状況で、あれと真正面から戦って勝つのは難しいだろう」
携行食料を食べながらも、アラタはコクリと頷いた。水中にいるモンスターへの対処というものは、非常に厄介であるというのが冒険者の常識である。
水嵩が腰までしかなく、水が澄んでいたあの場所は、戦場としてはむしろ恵まれていた部類といえる。
だが、そんなものがなんの気休めにもならないくらい、あのモンスターの戦闘能力は高すぎた。それに加え、慎重にこちらの隙を突くあの狡猾さだ。
戦闘を想定すると、あのエルナトのパーティですら、全滅もあり得るようなヤツだ。事前の情報がなければ、その確率は跳ねあがる。
「幸か不幸か、重要な情報は得られた。これ以上の貢献は、流石に求められねえだろうぜ。間違っても、この交叉路の先の調査とかは、別のヤツに回せるはずだ」
「……そうね」
口にはしなかったが、さらなる仕事を求められたとて、いまの俺たちにそれは不可能だ。なにせ、パーティが半壊してしまっているのだ。
「できれば一眠りしたいんだけれどぉ、それは無理よねぇ……」
「生命力を回復する為にはその方いいんだろうが、この空中交叉路だってなにがあるかわかんねえ。流石に、それはやめた方がいいと思うぜ」
「そうよねぇ……」
「【上昇】の為の魔力はまだ溜まらねえのか?」
「うーん、ギリギリってところかしらぁ。もしも足りなければ、真っ逆さまに落ちる事になるけれどぉ、それでも良ければ飛ぶわよぉ?」
「勘弁してくれ……」
俺が苦笑すると、アラタもクスクスと笑う。どちらも空元気ではあるが、それでもなんとか笑える程度には、お互い精神を回復できたのだとわかり、安堵で笑みが深くなる。
「だいたいぃ、あと一、二分くらいかしらぁ。それくらい経ったら、もう一度とべるぶらぁ——」
——俺の眼前から、アラタが消えた。同時に、ピシャリと顔に、なにか温かい液体がかかった。
たったいままで、顔を合わせながら笑っていたアラタが、瞬きすらしていないというのに、視界から消えたのだ。否。完全に視界からいなくなったわけではない。正確には、少し視線を下げたら、そこにアラタの下半身は残っていた。それに加え、携行食料を把持したままの右腕も、二の腕から先が床に転がっていた。
あの化け物に殺された、カスと同じだと察した瞬間、遅まきながら俺の背筋に強烈な悪寒が走った。
「ひぁ——」
微かな悲鳴にそちらを見れば、アラタの上半身を、あの四枚の歯でガッチリと咥え込んで空中にのたうつあの水ムカデの姿があった。アラタの臓物がこぼれ、ボタボタと穴の底へと消えていく。
「ふざけんなッ! あの溜池からここまで、どれだけの高さがあると思ってやがるッ!?」
言葉が通じるわけもないというのに、俺は水ムカデを怒鳴りつける。あの溜池からこの空中交叉路まで、少なく見積もっても十メートルはあるはずだ。おそらくは、一五メートルくらいあっただろう。
だというのに、あの化け物は平然とそんな深淵の底から、その貌を覗かせているのだ。
信じられないという思いは当然だった。
だが、当然そんな俺の思いなど歯牙にもかけず、水ムカデはアラタの上半身を咥えたまま、スルスルと闇の中へと帰っていった。深淵の闇に呑まれる瞬間、化け物に咥えられたアラタと目が合った気がした。
——逃げなさぁい。
ほとんど生気の残っていない顔で、アラタの口がそう動いた気がした。あるいはそれは、俺の弱い心が見せた幻だったのかも知れない。彼女を見捨てる、理由付けだったのかも知れない。
だがしかし、俺にはもう、あの水ムカデに対峙する方法すらも、残っていないのだ。アラタがいなくなったいま、あの溜池に降りる事も、また上層に戻る事すらも、できなくなってしまったのだから。
もはや、俺に残されている選択肢は二つだけ。
ここに残って、またあの水ムカデが襲ってくるのを待ち受け、この狭い足場しかない空中交叉路で対峙するか、四つの内の一つの道を選んで進むかだ。
そして、前者はただの自殺でしかない。戦闘能力ではチーキャンに劣り、探索能力ではカスに劣る。当然、アラタのように【魔術】なんて使えやしない。
そんな俺が、こんな狭い足場であの化け物に勝てるわけがない。
「ちくしょうッ! ちくしょぉぉおおッ!!」
俺は、いまにも暴れ出しそうな屈辱と憤怒を腹に蟠らせながら、一つの出入り口に飛び込んだ。
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