第14話 隠隈魚

 生命力の理で抵抗レジストしたのだろう、数人の男たちが武器を抜いてショーン・ハリューに襲い掛かる。俺は一応、今日は護衛という名目で雇われているのだ。ここで仕事をしなければ、本当にただの付き人でしかない。付き人らしい仕事なんざ、なにもできやしないのに。

 短剣を抜いて、ショーン・ハリューを守ろうと駆けだしたそのとき――


「【恐怖フォボス――怯懦ディロス】」


 ショーン・ハリューの声が響く。右手を上に、左手を下に、両手がまるで、いままさに咬合する竜の顎門あぎとのように閉じられる。鼓膜を擽る声音――いや、そんな生易しいもんじゃねえ。それ以上になにか、感情の根源的な部分を、その小さな手で鷲掴みにされたような気分になる――そんなあどけない声が、否応なく耳の奥を撫ぜる。

 ああ、嫌だ……。怖い。どうしてこんなに怖いのか、まったくわからないのに、怖い……。わからないからこそ、怖い――

 それこそが、彼の幻術の効果なんだとわかってはいても、恐怖という原始的な感情が、俺の心というものを暗い檻に叩き込んで、鍵をかけてしまっている。不用意に、彼に近付き過ぎたのだと、いまならわかる。護衛なんていう名目にこだわらず、遠巻きに彼の新しい逸話が生まれる瞬間を、眺めていれば良かったのだ。


「ひぃぃぎぃぃいいい!?」

「あぎゃ!? あああああ!?」

「あ――」


 武器を取り落とした男たちが、他の男たち同様にへたり込み、幼子のように泣き喚く。あるいは、ぐりんと白目を剥いては気絶してしまう。

 いや、こんなものは彼の逸話にすらならない、彼にとってはただ小石を蹴飛ばした程度の認識だろう。他人から見ても、いまさらショーン・ハリューにこの程度の武勇伝が増えても、気にも留めないのではないか。酒場でも、明日には誰の口の端にも乗らない程度の、それこそ【ホープダイヤ】の噂の方が盛り上がる、つまらない話だ。

 俺は、怯え、蹲り、泣きべそをかき、失禁し、失神している連中を、見るとはなしに流し見る。誰もが、絶対的な恐怖の前に、無様に腰を抜かしている。そんな情景に、ついつい自分の姿をも重ねてしまう。


「――……ぅあ……、……あ……ああ……」


 口からは、意識せずとも言葉になる前の呻きが漏れていく。俺はまだ立っているし、失禁もしていない。それでも、歯の根は合わないし、構えた短剣はブルブルと震えて、いまにも取り落としそうだ。しかし、寄る辺はこの短剣しかないのだという思いから、しっかりと把持しようと手に力がこもる。結果として、さらにブルブルと震えを強くするという、悪循環に陥る。

 震えているのは、剣だけではない。体も震え、視線も泳いでいる。とてもではないが、ショーン・ハリューを直視できない。怖い……。怖すぎる……ッ。

 勿論、この状況に至ったのは白昼堂々、強盗紛いの目的で襲ってきた連中が悪い。その口上をショーン・ハリューが遮った為に、まだ彼らの目的も判然とはしていないが、碌な目的でないのは明らかだ。恐らくは、ショーン・ハリューとチッチが言ったように、【ホープダイヤ】が狙いなのだろう。

 あまりに軽率。あまりにも浅はか。このような状況に至ったのは、全面的に彼らに非がある。非があるのだが……――


「ひぃぃいいッ!?」


 ショーン・ハリューと目を合わせた男が、魂消るような悲鳴を発し、バタリと倒れる。まるで死んだように気絶する男を見据え、フンとつまらなそうに鼻息を吐くショーン・ハリュー。

 才能のない人間を見下す、才能のある人間の姿。それがどうしても、俺とラスタたちの姿に被る……――

 彼が、こちらを振り向いた。ビクりと肩が震え、目尻には涙が滲む。ああ、嫌だ。嫌だ――。

 歯はカタカタと音をたて、震える切っ先はもはや、剣の心得のない女子供が、勘気に任せて振り回しているようですらある。全身から噴き出た汗が、服を湿らせて全身がじっとりと重い。まるで、地の底に引きずり込まれているような錯覚すら覚える。

 俺を見ないでくれ。失望しないでくれ。蔑まないでくれ。嘲笑わないでくれ。憐れまないでくれ。

 怖い。怖い。怖い。

 この少年に――見られるのが怖い。


「うわ!? もしかして、ラベージさんも範囲に巻き込んでしまいましたか? ごめんなさい。ちょっと待ってくださいね――【平静トランクィッリタース】」


 ショーン・ハリューはこちらを見た途端、驚きの表情に罪悪感を滲ませて、慌てて駆け寄ってきた。それから使ってくれた幻術によって、恐怖に支配されていた俺の心は、ようやく平常心を取り戻す事ができた。

 心配そうに俺の顔を覗き込んでくるショーン・ハリューに、俺はもう大丈夫だと頷いてみせる。とてもではないが、笑いかけられるような余裕はない。ショーン・ハリューは俺の無事を見届けて、安堵するように口元を綻ばせた。

 そんな顔にも、劣等感と憤りがジクジクと胸を突いてきやがる……。こんな自分が、心底嫌いだ。

 恐ろしい事に、俺はこれでも生命力の理を用いて、最大限幻術に抵抗していたのだ。しかも、俺が食らったのは二回目だけ……。二度も幻術に囚われた連中の心中を慮れば、逆に同情すらしてしまう。

 見ればそこには、地獄というにも悲惨な光景が広がっている。あらゆる汚物がぶちまけられ、男たちが倒れ、蹲り、気絶したり泣き喚いたり呆けて空を仰いだりと、事情を知らなければ彼らの方を被害者と勘違いするだろう。

 共にあの恐怖を味わった身からすれば、事情を知っていてなお、彼らに同情してしまう程なのだ。この連中が悪いのだと、頭ではわかっていても、今日半日で培ったショーン・ハリューに対する好印象が、ガラガラと崩れていく思いだった。


「さぁ、鶏舎の様子を確認しに行こうか!」


 そして彼は、まるで何事もなかったかのように、そう言った。いや、本当に彼にとっては、何事でもなかったのだ。この程度の連中では、彼の前に立ち塞がる事すらできない。

 やっぱり、この人は【白昼夢の悪魔】なんて、物騒極まる異名を付けられるに相応しい気性と実力の人なんだと、改めて認識させられた。どれだけ穏健な性格をしてはいても、悪魔はやはり悪魔だったのだ……。

 そんな彼の元へ、当然のように歩み寄る影がある。執事のジーガだ。眼前の光景に、やや顔をしかめたものの、主であるショーン・ハリューに対する畏れや忌避感などは、その表情からは窺えない。きっと彼は、ショーン・ハリューの魔の手は、絶対に自分に向かないと、確信しているのだろう。

 そんなジーガのあとを、執事見習のディエゴもまた、ついていく。流石に多少の怯えの表情を浮かべつつも、足取りには躊躇がない。彼もまた、ショーン・ハリューの元へと向かう事を恐れてはいないようだ。あの、気の弱そうな子供が、である。

 ああ、やはりこの二人は、ショーン・ハリューの使用人であり、配下であり、庇護下にあり、恭順している立場なのだ。だからこそ、悪魔の元に馳せる事にも、臆さないのだ。

 対する俺は、とてもそんな事はできない。あの背を、即座に追う事はできない。己の立場が仮初のものであり、その爪牙がこちらに向かないなどとは、到底思えないのだ。あんな思いをするはもうごめんだと、足が地面に根を張っている。

 こんな少年に、俺がなにを教えればいいのかと、また思った……。

 ふとそこに、聞こえてくる馴染みの声があった。


「なぁこれ、もしかして俺たちの招待って、もう決まった感じなのか……?」

「……行きたくないんだけど……」


 チッチとラダの二人が、慄きつつも話しかけてくる。その顔には、おそらく俺と同じであろう、恐怖と畏敬が浮いている。彼らの存在を認識した事で、俺はようやく心が寛解していく思いだった。無意識に止まっていた息を、どばっと吐いた。すっかり冷たくなった肺に、暖かい空気が気持ちいい。

 ハリュー邸という異世界の住人たちといるよりも、顔馴染みの冒険者という存在に、強く親近感を抱いているのだろう。


「なぁ、お前の方からちょっと断ってきてくれよ……」

「アタシも、ちょっと遠慮したい……」

「いや、それはダメだ」


 そんな親近感を覚える彼らの願いを、俺はバッサリと切って捨てる。なぜならその晩餐とやらには、いま現在ハリュー邸に滞在している俺は、確実に出席させられるのだ。せめてこいつらがいなければ、俺はハリュー姉弟と【雷神の力帯メギンギョルド】の面々の中に、ポツンと一人混ざらなければならない。

 そんな未来は、絶対に回避するに如くはない。

 俺はなおも縋ってこようとするチッチとラダを無視する形で、ショーン・ハリュー一行の背を追った。


 いまの俺は、名目上は彼の護衛だからな。……本当に、ただの名目でしかない事が、明らかになったところだが……。



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