第61話 魔術師、針生紹運
ビッグヘッドドレイクは、そのある種コミカルな三頭身の巨躯を揺らしながら、こちらへと向かってきている。だが、その間には多くのモンスターが群れており、あのときのようにこちらに突進してくるという事はない。また、僕とヤツとの間には、心強い味方もいる。
距離も状況も、僕が有利。だからもう少し黙れ、心臓。鎧のうえからでは意味がないと知りつつも、僕はドンと胸を叩く。首や額には、実に人間らしいじっとりとした汗が滲む。
「ふぅ……」
心を落ち着ける為に深く息を吐くと、僕は杖を構える。そろそろこの杖にも名前が欲しいところだが、あまりしっくりくるものが思い付かないな。
そんな事を思いつつ、僕はここ数時間練習し続けた属性術ではなく、すっかり手にも口にも馴染んだ幻術を魔力に刻む。
「【
まずは苛立ちを煽る。幻術の第一プロセスだ。案の定、目に見えて敵意をこちらに向けたビッグヘッドが、明確に僕に向かって雄叫びを発する。ナイフのような鋭い歯が生え揃った顎門をがばっと開いた様は、近くでやられたなら恐ろしかったかも知れない。だが、僕らとの間には絶望的な程に距離がある。これでは、よくできたフィギュアと変わらない。
僕は巨頭の竜の咆哮を意に介さず、第二のプロセスに入る。
「【
続けてビッグヘッドの怒りの感情を喚起する。既に【憤懣】で苛立っていたところに、怒りの感情だけを逆なでしたのだ。いかにモンスターといえど、否、むしろ非知的生物だからこそ、この二段構えで感情を揺さぶられれば、もっとも原始的かつ枢要罪にも数えらる致命的な感情に、意識を支配される。ここまでくると、いっそ知的生物でない方が、幻術は効くだろう。
僕は少々複雑な術式を刻みつつ、ビッグヘッドの動向に注視する。
ビッグヘッドドレイクは、いよいよ怒髪天を衝いた様子で、前方にいるモンスターたちをなぎ倒し、踏み潰してこちらに突進を開始した。何度も何度も威圧するようにあげる咆哮に、ビリビリと振動する自分の肌の感触で、そいつがどんどん近付いてきているのを感じる。
たまったものじゃないのは、ビッグヘッドの周囲にいたモンスターたちだ。それまでは群れの一部だったビッグヘッドの巨体は、ここにきて完全に異物になった。それはあたかも、渋滞していた高速道路で、いきなり走り出した十トントラックのような有り様である。
弾き飛ばされる普通自動車や軽自動車のようなモンスターたちにとって、既にビッグヘッドは敵と同義だ。しかし、密集した彼らに回避の余地などない。当然、ビッグヘッドの周囲では混乱が巻き起こっていた。
あそこに、【混乱】の幻術を打ち込みたい……。きっと、かなりの数のモンスターが術中に陥り、同士討ちや迷走を始めるだろう。だがそんな誘惑をぐっと抑え付け、いまは眼前の敵に集中する。
杖の先、大きな黒い嘴の先に、バチバチと赤い光が迸る。こういう派手な【魔術】は、あまり使った事はない。しいていうなら、さっき成功した石雨くらいだ。幻術は、基本的には地味な【魔術】だ。
「個人的には、こういうエフェクトがない方が、玄人っぽくて格好いいと思うんだけれど、ね」
誰にでもなくそう言うと、僕はその嘴をビッグヘッドへと向ける。ブルーダイヤのバイザーが、赤雷を反射しながら標的を睨む。嘴とバイザーが照準を合わせ、術式は十全に完成した。あとは、僕の詠唱のみである。
「【
赤雷が迸り、まっすぐに竜種へと向かう。ビッグヘッドはその巨体が災いし、回避など能わない。だが当然、赤雷は本物の雷などではない。巨頭の竜を焼く事もなければ、その動きを鈍らせる事もできない。
それでも、変化は劇的だった。
それまでの、こちらを威圧する目的で放っていた咆哮と違い、ビッグヘッドがあげたのは誰が聞いても明らかな悲鳴だった。それどころか、その巨体を横に倒して転がり始めた。周囲のモンスターたちを挽肉にし、霧消したあとに残っていた魔石を粉々に砕きながら、なおもビッグヘッドはのたうち回る。
「えっげつな……」
自分で使っておきながら、ついついそう言ってしまった。いや、自分で使ったどころか、実をいうとこの幻術は僕のオリジナルだったりする。効果は単純で、対象の脳の許容量を超えても、怒りという精神状態を加速させるというもの。
いってしまえば【憤怒】や【忿懣】、あるいは【混乱】の幻術と表面上の効果は然して変わらない。だがしかし、一点だけ違うのは、その効果が一定時間の間、ずっと
本来ならば、過剰過ぎる怒りなど、どんな生物の脳でも抑制が働く。だがしかし、この幻術においては、そんな当たり前の生体反応は阻害されてしまう。するとどんな事が起こるのか。
脳という繊細な臓器は内部からズタズタにされ、精神という非常に脆い自我はボロボロと崩壊してしまう。古代の詩人、ホラティウスの名言を冠した、実にえげつない、オリジナルの幻術である。
だが、下級といえど流石は竜種とでも呼ぶべきか、ビッグヘッドは直接脳を焼かれる苦痛に耐えながらも、僕を睨んできた。きっと生命力の理で、抵抗しているのだろう。
いまだ戦意は衰えておらず、むしろ怒りに触発された敵意はあまりにも絶大であった。
——咆哮。
ビッグヘッドの「お前だけは絶対に許さない」とでも言わんばかりの雄叫びに、僕の心の弱い部分が怖気付く。だが、それと同時に、僕のなかの向こう見ずな部分は、あの竜を一人で倒してみたいと躍っていた。
「——来い……っ!」
僕の言葉を理解した訳ではないだろう。聞こえてすらいないかも知れない。だがビッグヘッドはその巨体を起こし、亢進され続ける怒りという病に脳を焼かれながらも、僕を殺そうと突進を始めた。
僕もまた、ビッグヘッドに向かって駆け出していた。
かつての敗北を塗り替えるように、あのとき自分を殺した巨頭へと駆け寄っていく。あのとき僕を噛み砕いた顎門にも、もはや怯む事はない。
恐怖も不安も、なくなったわけではない。それでも、これまでまるで役立たずだったせいか、己の発揮できるすべてのパフォーマンスをだしきり、生存を賭けて戦うという行いに、僕は高揚感を覚えていた。それは化け物らしい感情といえるのか、あるいは人間らしいといえるのか、僕にはわからない。
それでも一つ確かなのは、このとき僕は、戦う事を楽しいと思っていた。
戦闘狂の心なんて、わからないと思っていたんだけれどなぁ……。
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