第61話 汝こゝに入るもの一切の望みを棄てよ

「はっはっはっはっはっは」


 息が切れる。剣を抜いたまま走る。走る。走る。

 興奮と恐怖で、頭が痺れている。

 やってしまったという思いと、やってやったという思いが、同時に湧いていた。

 どれだけ頑張っても六級どまりだった俺が、あのフェイヴを斬ったのだ。飄々として、なんでもできそうで、いけ好かねえあの五級冒険者をだ。

 やっぱり、俺には五級になれるだけの力はあったのだ。いつまでも六級だったのは、ギルドの連中の目が節穴だったからだ。

 不意打ちだったなんて、冒険者にとっちゃ、言い訳にもならねえ。森でもダンジョンでも、罠やモンスターは不意打ちしてくるもんだからだ。

 だから俺は間違っちゃいねえ。絶対に、間違っていねえ。


 このクソッタレな鏡部屋の入り口に到着する。近くには、フバの骸が横たわっていた。そういえば、フバは緑碧玉をいくつもガメてたな。

 それを思い出し、ヤツの懐をまさぐる。


「なんだこりゃあ?」


 フバが碧玉を入れていたはずの皮袋の中には、ただの小石が詰まっていた。最初はわけもわからず呆気にとられたが、そういえばいまの俺は、自らに【強心】をかけて、幻術に対抗しやすくなっている。だが、あのときはまだ、幻術に対して無警戒だったと思い出す。


「クソがッ!!」


 床に袋を叩きつけ、さらに腹いせにそれを踏みつけた。ガラス鏡なら割れかねないような踏み付けだが、小石が擦れたというのに、傷一つない床の鏡が腹立たしい。

 とはいえ、いつまでも怒ってたって、また不意打ちされるだけだ。俺は、フェイヴ程索敵能力は高くないし、一人になった以上は休息もままならない。もうここに用はない。

 俺は意を決し、暗闇の部屋に繋がる扉を開く。

 そこかしこから悲鳴が聞こえた。どうやら、後続がここに残っているらしいが、既に手遅れな程に錯乱してしまっているようだ。そんな連中に構わず、俺はいま一度自らに【強心】をかけると、一気に室内を駆け抜ける。誰かにぶつかればそれを斬り捨て、気配を感じればそれに対しても剣を振る。

 フェイヴがいなくなったせいで室内を見通す事はできなくなったが、それでもあのとき属性術の光に照らされた室内の光景は覚えている。それ程広くはなかったはずだ。壁伝いに扉を探せば、戻る扉を見付ける事は難しくない。

 程なくして、扉を見付けてさっさと開く。運のいい事に、吊り橋には誰もいなかった。


「しかし、クソ……。生命力が……」


 鏡部屋、暗闇部屋と、生命力を使いっぱなしなせいで、体が怠くなってきた。この吊り橋を渡る為には、さらに生命力を使わねばならない。

 正直ギリギリではあるが、それでももうこんな場所からは、一刻も早くおさらばしたい。


「大丈夫。この先は、あの吊天井の廊下だ。戻るだけなら、あのレバーを戻すだけだ……」


 俺は自らに言い聞かせつつ、生命力の理【ガイ】を発動する。あとは、吊り橋が揺れて投げ出されないよう、注意して進むだけだ。程なくして、渡り切る。

 ようやくだ。ようやくここまで戻ってきた。

 俺は扉を開き、壁に碧玉の埋まった廊下に続く扉を開いた——はずだった。


「ようこそ、地獄へ」


 俺を迎えたのは、そんなあどけない声音だった。だが、その声にはまるで感情がこもっておらず、こちらを睥睨する視線にも、一切の温度がなかった。

 そこには、上等なシャツのうえにダークブルーの革鎧、腰には剣、黒いハーフパンツ姿の子供がいた。右手には大きな爪の指輪……。間違いない。件の子供だ。

 どうして、こんなところに、このガキが?

 俺の思考は、一瞬でその疑問に押し流され、周囲の異変に気付くのが遅れた程だった。


「一つだけ、この迷宮の主から質問があります」


 淡々とした口調で、ガキが宣う。やはりそこに色はない。ただただ冷徹に、まるで屠殺する豚でも見るような冷めた目で、俺を見ている。


「あなたは、この【強欲者の敷石パッショネイトアプローチ】 の入り口にあった文言は読んだはずです。それならばどうして、いまさらになってあなたは、たった一つの宝を惜しんでいるのですか?」

「ぅあ……」


 俺は狼狽えて、後退った。そのときになってようやく、そこが最初に通ったはずの、吊天井の廊下じゃなくなっているという事に気付いた。

 グニグニとした床も、ぬらぬらと光る壁も、血色のいい真っ赤な肉だった。天井はどういうわけかドームのような形状になり、まるで肋骨のようにアーチを描いている。

 パッショネイトなんたらなんざ知らないが、このガキがなにを問いたいのかは即座に理解した。この先の扉に刻まれていた文言は、謎解きにも使った言葉だからよく覚えている。


『ここより先、命の保証は一切なし。たった一つの宝を惜しむ者、より多くを欲さず、その先に進むべからず』


 つまり、より多くを欲して先に進んだのに、どうして命を惜しむのか。なにもかも投げ出して、仲間を裏切って、たった一つの、命という宝を惜しんでいるのか、と。


「あ、ああ……、あぁあ……」


 俺はなおも下がろうとするも、そこにある壁に阻まれた。壁? そんなバカな。俺は、扉を開いたところで立ち止まっていたはずだ。振り返れば、吊り橋があったはずの足場はなく、上下に閉じた肉のシャッターが、俺の退路を絶っていた。


「な、なんで……」

「返答はなし。元より私は、愚者の愚行になど興味はありません。速やかに処理され、永久に口を閉ざしなさい。さぁ、蠢きなさい――大王烏賊ダイオウイカ


 氷柱のような声音に振り向けば、ガキは小剣を抜き放ち、真下に振り下ろした姿勢で止まった。その柄から、勢いよく飛沫しぶきが迸る。

 やがて水滴はより集まり、四本の触手となり、ガキの右腕に絡み付く。そして、右肩から生えたように、外へと伸びる。

 それはもはや、触手というよりも——……。


「て、天使……?」


 そう、天使のようだった。水でできた、美しい片翼の天使……。そう思えたら、あの無機質で無感情な表情も、実に神々しく思えた。

 なにより、あんな小さな体だというのに、その子供から放たれている存在感が、尋常のそれではない。

 もはや、なにからなにまで、意味がわからない。子供がここにいる事も、吊天井の廊下が肉の壁に包まれた、気色の悪い空間になった事も、退路がなくなっている事も、子供に天使の翼が生えた事も。


「それでは、処理を開始します」


 だが、そんな俺の混乱を一顧だにせず、片翼の天使は剣を構えて、一気に駆ける。咄嗟に、俺は剣を振った。

 体が覚えていた防御の動きで、子供の小剣を弾き返す。思わず安堵したところを、水の触手に打ち据えられた。

 子供の肩から生えた触手が、真上から俺を地面に叩き付けたのだ。吹き飛ばされる程に高威力というわけではないが、意識していない頭上からの攻撃に、一瞬だがわけもわからず激しく動揺した。

 だが、一瞬でも大きな隙だった。水の触手は四本もあったのだから。

 二本の触手が両足に絡み付くと、俺の体はそれに引っ張られ、背後にあった壁とは反対方向へと投げ飛ばされた。

 ゴロゴロと、湿っぽい肉のうえを転がった俺は、追撃に備えてすぐに体を起こす。だが、子供はだらりと剣を下げた姿勢のまま、さっきまで俺が立っていた場所に佇んでいた。


「最後に、この空間のコンセプトを教えて差し上げましょう」

「コ、コンセプト?」

「我らは所詮、マンイーター。人を食らい、糧とし、生きる者。この幻覚げんじつは、そんなあの子の覚悟の具現」

「な、なにを……」

「理解しなさい。愚鈍な地上生命であろうと、そのくらいの事はできるでしょう?」


 ぐらりと、肉でできた地面が揺れる。まるで隆起するように——いや、これは隆起しているというより、蠢いている?

 それに、この形、どこかで……。


「あ……」


 そこで俺は、この先、階段を降りたところにあった、扉の模様を思い出した。

 それは——口。

 ゾロリと牙の生え揃った、獣の口腔を表したモザイク。その奥に進まんとする俺たちを食らおうとするように表現された、化物の顎門。

 ぬらぬらと光る肉の壁、ざらざらとした質感の、蠢く肉の床、アーチ状の天井、上下に閉じられた肉のシャッター。


 ここは——口。


 だが、それには一つだけ、要素が足りない。その部位の目的は、たった二つ。そのうちの一つ、威嚇は既に役割を終えた。

 俺たちは、それを無視したのだから、威嚇の段階はとっくの昔に終わっている。ならば、もう一つは——咀嚼。


「最後に、もう一つ伝言です」

「あ……。ゆ、許し——」

「——いただきます」


 ガブリ。

 足りなかったものは、歯。ゾロリと生え揃った、獣の歯。それが上下から現れ、ようやくこの部屋が完成する。

 当然、そこに喜んで入ってきた食物オレを食う為に。

 ガブガブ。ガブガブ。

…………————




「どうやら死んでいるようです」


 グラが、目を見開いたまま倒れている男を見下ろしながら、そう言った。僕は彼女のなかで、それを聞いている。


「うん、そうみたいだね」

「本当に、幻覚だけで人は殺せるのですね」

「そりゃそうさ。いや、幻覚なんてなくても、本来人ってのは、思い込みだけで死んじゃう生き物なんだ」


 ブアメードの水滴実験という、悪魔のような話があってね。いや、これを詳しく説明し始めると、ただでさえ低いグラの人間に対する評価が、さらに下がるのは明白だ。あとで、ノーシーボ効果の概要だけ教えておけばいいだろう。

 いうまでもないが、ここは吊天井の廊下【強欲者の敷石パッショネイトアプローチ】 だ。さっきまでの、まるで口腔のような内装は、ほとんどはグラの作った幻術だ。幻覚だけじゃ足りない部分は、ダンジョンを変化させて対応した。

 あの男は、噛み砕かれるという幻覚を信じ込み過ぎて、本当にショック死してしまったのだ。

 これにて、口封じは完了した。


「なんとかなって良かったね」

「そうですね。流石に、ここがダンジョンだと疑われるのは、現段階では尚早に過ぎます。せめて、いまの十倍、いえ、二〇倍は大きくならねば……」

「先は長いなぁ……」


 とはいえ、別に急ぐ必要はないだろう。急いては事を仕損じる。今回の襲撃に乗じて、三階層までダンジョンを深くできたのだ。現時点でこれ以上を望む必要はないだろう。

 ところで、二〇倍っていうのは、広さって意味だよね? まさか、六〇階層って意味じゃないよね?


「それにしても……」


 グラが操る僕の体が、男の死体に向けられていた視線を、携えている剣へと移した。そこには、水の触手を生やす、まさに魔剣といった感じの大王烏賊があった。


「あの幻覚のせいで、またも大王烏賊が、ほとんど活躍できませんでしたね……」

「…………」


 不憫な子。



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