⌘第32話 父の告白
ミックと父が逮捕されたのは、ルクス教徒撲滅の法が施行された日の翌日だ。
投獄の晩、ユス教徒に撃たれた傷が悪化して高熱が出て、二人とも会話をすることができなくなった。逮捕日が早かったにもかかわらず、彼らが尋問を免れていたのはこういう訳だ。
ルクス教徒だという理由で満足な手当てもしてもらえない。死を待つばかりの部屋に入れられたミックは、熱にうなされ、地獄のような悪夢を毎夜見た。
改宗するか、死ぬか。神殿を襲撃したユス教徒たちが迫った選択。ミックは夢の中で何度もその場面に出会い直すことになった。
自分は毎度、フィランの要求を突っぱねてルクスさまといることを選ぶ。しかしその後、ミックは無数の暴力に滅多打ちにされるのだ!
「偽善者! お前は神を捨てようとした! 今もそうしようとしている!」
頭をかち割らんばかりに響き渡る声。
それは自分の声か、神の声か、それとも違う誰かが耳元で叫んでいるのか。
「違う、違う! ぼくはルクスさまを裏切ってなんかいない! 決して!」
ミックが耳を塞ごうが目を瞑ろうが、構うことなしに、鉛玉のような罪悪感は体のいたるところを突き抜けていく。ユス教徒に撃たれたあの日のように。
自分を苦しめているのはユス教徒の悪意だろうか、それとも神の天罰だろうか。
身体は業火に見舞われているかのように熱く、ミックを罪の意識から離そうとしない。
「多くが死んだ。お前に力がなかったからだ! 何故お前だけ生き延びているんだ? さっさと命を手放せ、この罪人め!」
命を落としたルクス教の信者たち。顔も思い出せない面々がたくさんいる。詫びを口にしようとしたミックの喉がひりつくように焼ける。言葉だけの詫びなど彼らに届くわけもない。分かっているのに。
悪夢に打ち克つこともできずにどのくらい過ぎただろうか、一度だけ、目が冴えたことがあった。左腕はまるで重たい木の棒をぶら下げているかのように感覚がなく、彼を苛んだ痛みも今は鈍い疼痛を残すのみだった。
妙にはっきり醒めた頭で、ミックは辺りを見回した。明かりも点いておらず真っ暗だった。夜中のようだ。
部屋の中には、ミックの他に二十人ほど。皆ルクス教徒だろうか。総じて青白い顔で、流れる血がそのままの者もいるのを見て、ミックの心臓がきゅうと痛んだ。
自分の苦しみなど、彼らに対する免罪符になりはしない。
部屋の隅で横たわる父の姿を認めたとき、ミックは我も忘れて駆け寄った。萎えた四肢はふらつきかけたが、それでもなんとか父の下へ辿り着いた。
父の名を呼ぶと、父は微かに目を開いた。ミックを目に留め、その表情が少しだけ柔らかくなる。そしてすぐに目を閉じてしまう。
意識が混濁している最中なのか、父はうわ言を言うようにものを口にした。
「無事か、ミック」
「ぼくは大丈夫。お父さんは?」
父はしばらく何も言わなかった。まるで息を引き取ってしまったかのように見えて、それがミックの胸を締め付ける。何度も名を呼ぶと、ようやく父は息を継いだ。
「聞いて欲しいことがある、ミック」
「何、お父さん。どうしたの」
父が押し黙ると不安で堪らないくせに、言葉を喋らせたらそれが父の命を縮める気がしてならなかった。心なしか焦燥感に駆られていく。
「五年も昔の話だ」
「うん」
「酔ったユス教徒に殺された女性が誰か知っているか」
「ユス教徒に殺された女性?」
五年前と聞いて、ミックの頭に思い浮かんだ事件があった。
一人の敬虔なルクス教徒の女性が、酔った三人のユス教徒の男たちに、ルクス教に対するひどい侮辱とともに殺された事件だ。
ミックは当時十歳。「危ないから外に出るな」と言われ、大人たちの目つきが険しくなり、子どもたちの生活も目まぐるしく変わっていったときのことだ。
「宗教戦争の発端になった事件のこと? どこの誰かっていうのは……」
ミックが聞いたのは概要だけだ。
そもそも、事件は要素でしか語られなかった。
一人のルクス教徒と三人のユス教徒。
一人の女性と三人の男性。
夜。男たちは酔っぱらっていた。
「ああ、アンネ……私たちは間違っていた。許さなければいけなかったんだ。それであの子たちは……」
五年前。戦争が始まった年であり、ミックが母親を亡くした年でもある。
母の名を呼ぶ父の声に、ミックは思わず嗚咽を漏らした。
「何が間違っていたというの。どうすればよかったの。何を許せって」
愛せ、そして理解しろ。
何を理解すれば、ユス教徒とうまくやっていけたというんだ。
慈しみの心など欠片も持たない彼らと、どうやったら。
ユス教徒に撃たれた晩、父が今のように母の名を口にしたことをミックは思い出した。そのときも同じ言葉を呟いていたことに気づく。
「……あの子たち?」
父は瞼をこじ開けるようにしてミックのことを瞳に捉えた。
「お前に言ってなかったことがある。私たちの罪……」
そこに込められた父の真意を知らぬうちでも、罪という言葉はずしりとした重みを伴ってミックの心に響いた。
悪夢の残響が鼓膜の内側から彼の脳を揺さぶってくる。
それらがミックの心の内を涙として押し出そうとするのを、必死に堪えて彼は父に聞く。
「あの子たちって、誰のこと」
「ミナと……レイヤ」
「ミナだって?」
信者で孤児のミナ。神を疑うことを知らぬ、純粋で健気なミナ。
思い返せば、父はずっと彼女のことを気にかけていた。彼女が覚えていないと言った母のことをよく話して聞かせていたし、兄と共に神殿に来るよう、何度も誘っていた。ミナがそれに頷くことはなかったが。
ふと、直感がミックに語りかけた。母を亡くした孤児の少女。
気づいたときには、さっき懸命に押し止めようとしたものが堰を切ったように溢れ出していた。
「もしかして……ミナのお母さんが……」
「あの事件を本当に知っているのは、あのとき見ていた者たちだけだ。犠牲になったのは、金色の髪の女性だったと……まさかと思っていた……だが……レイヤの顔を見たときに……」
いや、違う。ミナだけじゃない。
母を亡くしたのは、兄妹だ。
なぜ今まで考えてこなかったのだろう、ミナの兄がルクス教を毛嫌いしていた理由を。
神依士は嫌いだ。そう吐き捨てたミナの兄の姿が蘇ってきた。
兄はなぜ憎んでいたのだろう、妹は心からルクス神を慕っていたというのに。
妹は母がどうして死んだのか知らないと言っていた、だがもし、兄にそのときの記憶が残っていたとしたら?
「あの子に会うために、いつかミナの後をつけていったことがある。そこでミナが、神殿に行ったことをあの子に咎められ、殴られているのを見た……。神依士の私が姿を見せたらミナをもっと苦しめることになると思い、時間を置こうとした。間違っていた……もっと早く向き合うべきだった……きちんと誠意をもって……もう一度現れたあの子は……」
父の瞳に宿る光が遠のいていく。父の命が失われていく。
お前はおれたちに何をしてくれるんだ。……ミナの兄はミックたちのことを、何もしてくれなかった、と罵りたかったのか?
父が今際になってこの話をした意味を、理解しなければいけない。
分かっているのに、心がそれを受け付けようとしなかった。
父をこの世に繋ぎ止めるための叫びが自分の耳に空虚に響く。
「ミック……あの子に贖罪を……」
神依士として神殿を守り続けた父の矜持、その裏にずっとあった苦しみ。
「復讐よりもすべきことがあった……恨んではいけなかった……それで多くの人たちが……」
「お父さん」
「あのとき許していれば……皆がこんなに苦しむことは……」
「お父さん!」
父の焦点はミックを通り越して遥か遠くにずれた。その向こうに何を見たのだろう。一筋の涙が父の頬を伝う。
「お許しください、ルクスさま……」
それが父の、最期の言葉だった。
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