☆第30話 ミナの翌朝

 工場に行く時間だ。

 そう悟ったレイヤの頭が勝手に覚醒した。


 体を起こして隣のミナに触れようとしたら、その手が空を掴んだ。

 はっとして辺りを見回す。頭の中がこんがらがっている。

 どこなのだろうか、ここは。

 少し考え、そして、ある男に声をかけられて孤児街を離れたこと、ミナと共に体験した貴族の世界の序の口全てを思い出した。


 顔のすぐ横にベッドの背の高い木枠が見える。昨夜、ちくちくして落ち着かなかったので、床の上でシーツ一枚にくるまって寝たからだ。

 ロイズの屋敷に与えられたレイヤの部屋はとても広かった。見慣れない家具や絨毯、昨夜は見ている暇もなかったそれらの物に、改めて目を奪われるのを感じた。

 自分の着ているものも、今までのようなぼろの服ではない。素材は分からないが、すべすべして肌触りのよいやわらかい生地の肌着だ。

 少し心細さを感じたレイヤはミナの名を呼んだ。けれどミナは答えなかったし、他に答える者もいなかった。誰の気配もしなかった。


 レイヤは立ち上がって、その部屋から外に出た。

 外には大そうな幅の廊下が続き、手すり向こうの吹き抜けの下に広い玄関があるのが見える。レイヤが持った家というものは孤児街の隅のテントただ一つだったので、人が住むのに何故こんなにも広い空間が必要なのかと不思議に思った。

「おおい、ミナ。どこにいる」

 レイヤが声を張り上げながら廊下を駆けて行くと、どこかから足音がした。ミナかと思って振り返ったが、立っていたのは一人の下女だった。

「こんな朝早くにどうされました、レイヤ様」

 その下女は困惑と迷惑の表情を二つ同時に浮かべていた。

「ミナはどこだ」

「ミナ様はご自身の部屋でお休みですが」

「どこだって聞いているんだよ」

 低い声を出すと、下女は体を硬直させてすぐに踵を返した。連れて行かれた部屋はレイヤのそれと同じような造りをしていて、ミナはベッドの中で頭まで布団を被っていた。


「ミナ」

 妹の名を呼ぶ。

「お兄ちゃん」

 ミナは震えるように顔を出した。そこにレイヤの顔を見つけると、今にも泣き出しそうな表情でばっと体を起こし、レイヤに抱きついた。

「どこにいたの」

「この屋敷の中にいたよ」

「どこにも行かないで、ねえ、お兄ちゃん」

 レイヤはミナの肩を抱き寄せて妹に寄り添った。扉の前に棒のように立ち尽くす下女の姿を見つける。レイヤと目が合うと、下女は体を強張らせて言った。

「下がってもいいですか」

「下がる?」

 下女があたふたしながら説明する意味をなんとか理解すると、彼女は心底ほっとしたような様子で下がっていった。

「まだ旦那さまはお休みです。どうか声を上げたりなどなさいませんよう」


 そしてレイヤとミナはがらんどうの部屋に二人残された。そこには物がたくさんあったが、ほとんどの使い道が分からない彼にとっては、文字通りがらんどうのように思われた。

「夢だと思ったの」レイヤの腕に抱かれたまま、ミナが言った。「でも夢じゃなかったわ。お兄ちゃん、これからどうなるの」

「分からない、まだロイズが何も言わないんだ」

「ロイズって、あの男の人?」

 ミナは聞き返して、俯いた。目を閉じて、じっと考え込む顔つきになった。

 薄く開いたまぶたから覗く瞳が憂いに濡れている。

 今ミナの頭の中で、様々な出来事が繰り返され反芻され溢れ返っているに違いなかった。

 そんな妹に抱いたレイヤの憐憫は、彼女が次に呟いた一言で、一瞬のうちにかき消された。


「ルクスさま」


 自分の肩を抱くレイヤの手に違和感を覚えたらしい、ミナが顔を上げて兄の顔を覗きこんだ。

 そして、自分が今何と言ったのかをはっきりと悟ったようだった。

 体が小さく縮こまって、ぶるぶると震え出した。

「お兄ちゃん」と許しを請うような、媚びるような声を出した。


「二度とその名を口にするなと言ったはずだ」

「……ずっと言ってなかったわ」

「お前のそれは信用できない」

 ミナはくしゃくしゃに顔を歪めた。すぐにわんわん泣き出した。

 レイヤはそのミナから顔を逸らした。昔から隠れて通っていた神殿があんなことになったというのに、少しも堪えていないかのようだった。

 あの神依士の身に起きたことは、いつ彼女に起こったとしてもおかしくないというのに!

 ミナはしばらく泣くままにしていたが、すぐに持病の発作が表れ泣き声も次第に小さくなっていった。代わりに激しい咳の山がミナを襲った。


「お前ももう分からない歳じゃない。いい加減にルクス教は捨てろ。もう一度でもそう言ってみろ、警吏に見つからなかったとしても、おれがお前を警吏の前につき出してやる」

 ミナの咳が一層激しくなった。「なんで」と声を絞り出す、ミナの瞳から涙が零れる。

「ルクス教は邪教なんだ。もう何度も言ってきただろう、何で分からないんだ」

「ルクス教は邪教じゃない」ミナは喘ぎながら言った。「ルクスさまは間違ってない」


「まだ言うのか!」

 レイヤはミナの肩から手を離し、その手でミナの左頬を張り飛ばした。

 哀れなミナはどさりとベッドに倒れこんだ。

 まだ発作は収まらず、ミナはぎゅうとシーツを握り締めた。がらんどうの部屋の中に、ミナの咳だけが響き続けた。

「……殺されるぞ。もうここは孤児街のテントじゃないんだ。お前の信仰心を隠せるものか」

「……許して、お兄ちゃん」

「殺されるんだ!」


 叫んだせいで、レイヤの方も息が切れてしまった。昔から相変わらずのミナの泣き声に煩わしさを感じる。

 鬱陶しさをかきむしって、レイヤはベッドに向かって後ろ向きに体を倒した。ミナの震えが振動となって直接レイヤに伝わってきた。


 レイヤも、ここに来てから全てが違うという感覚にとらわれていた。

 暮らしぶりも価値観も、言葉遣いも歩き方一つをとってみても、孤児街で当てはまるような常識がまるでなかった。

 そしてこれは、おそらく宗教にも拡張されるだろう。異教徒であるということがこんなにも頼りないものであるとは、テントに隠して守ってやれる孤児街では感じたことのない感覚だった。

 何を言っても、何をしてもこの妹は動かない。

 どうすれば、レイヤの声を聞かせてやれるのだろう。

 ロイズは貴族だ、レイヤよりずっと深く宗教に関わってきただろうし、一目でミナがルクス教徒であることを見破ってしまうかもしれない。そうなったらどうしようか。どうすればいいのか。


 ふと、焦るレイヤの心に魔が差した。


「なあ、ミナ。お前は、ルクス神とおれと、どっちの方が好きだ?」


 途端にミナの咳が止んだ。

 ミナは涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔を上げて兄を見た。

「何て言ったの」

 ミナがきょとんとする。

 その顔を見てレイヤはしまったと思ったが、今さら質問を引っ込めるわけにはいかなかった。


「おれとルクスと、どっちのがいいかって聞いたんだ」


 ミナは呆然として答えなかった。レイヤが待ちかねて名を呼ぶと、今まで忘れていたかのように再び大声で泣き出した。

「ごまかすな。はっきり答えろ」

 声を大にして迫ったところで邪魔が入った。ガチャリという音がしてミナの部屋の扉が開いたのだ。そこには下女を従えた男が一人立っていた。


「兄妹喧嘩か?」


 にやにやと二人を見つめる一人の男。

 ロイズ・サミーダと名乗った貴族の男。

 きちんとした佇まいのロイズの姿に、表情に、レイヤは奇妙な警戒感を感じた。自分の着ている衣服も貴族の子弟のもののはずなのに、比べ物にならないくらいみすぼらしく思えた。

 こちらに近づいてくるロイズに気を取られて、レイヤはミナにした質問をすっかり忘れてしまった。


 ただ、レイヤはぼんやりと、いつかミナは自分の信仰心に取り殺されてしまうだろうことを予感していた。

 それはあながち間違ってはいない。

 レイヤに対する愛情を除けば、ミナの中にはルクス教への敬意しか残っていないからだ。

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