◉第28話 引き金を引かせたのは
何不自由なく食べさせてもらえる。衣服にも住むところにも困らない。それがどれほどありがたいことなのか、当たり前に与えられ続けた人間ほど気づかぬものである。
そして、親から無償で与えられる愛情がどれほどありがたいものなのか、与えられなかった人間こそ身に染みて分かるものである。
ミックや母親との交流はフィランの人格形成を根底から覆した。ややもすれば卑屈でねじ曲がった子どもになりかねなかったフィランは、人間的に真っ直ぐ成長していく道を得たのである。
屋敷の人間たちはフィランの変貌に目を見張った。彼が、周りに気を遣ってばかりで子どもらしく笑うことのなかった彼が、喜怒哀楽を素直に表現するようになったのだ。
彼の変化は柔軟にそして好意的に受け入れられ、周りの感情に敏感なフィランが嫌な思いをすることも減っていったのである。
次第にユス教つながりの友人もでき始めた。他で見ている子だと言って教育係が屋敷に連れてきた少年ゼンと、とりわけ親しくなった。ゼンはよくも悪くも真っ直ぐで、裏表のないさばさばした性格をしていた。口から出る言葉と心の奥の感情の相違がないこの少年と親交を深めている最中だった、ミックたちが何の前触れもなく川原に訪れなくなったのは。
昼食を抜いて日暮れまで待ったのに、二人が姿を現すことはなかった。あらかじめ来られないときは、前の週に事前に伝えてくれる二人である。そういうこともある、と片付けることができず、フィランは心をかき乱されて屋敷に戻った。周囲のものに当たり散らした結果、父の叱責には拳がついてきた。
「考えて動け。どこぞのルクス教徒のように、感情のままに行動するな」
ルクス教徒。父や教育係が侮蔑の意を込めて呼ぶその名前の本当の意味をフィランが知るのは、もう少し後のこと。城下で起きたとある事件が、それが引き起こした別の事件と共にフィランの耳に入ったときのことである。
きっかけとなった事件は、暖炉の奥で消えかけて燻っている火のような低い熱量で世の中に知れていった。事件を最初に語り始めたのは、それを目撃していた無宿人たちだった。
「三人のユス教徒の男たちが、一人の無宿人のルクス教徒の女性を殺してしまった」
口から口へ、噂話として広まっていったのだ。城下町の東から西へ伝わるまで、およそ一か月の時間がかかった。噂話の中に、四人の登場人物たちの素性は皆目含まれなかった。
ルクス教側も、ユス教団も、この噂話の真相を明らかにしようとした。殺された女性が東大通り沿いの貧民街に住んでいて、丘の上の神殿に通っていたらしいということまでは分かった。だが、計帳を調べても、教団内の人間を調べ上げても、当該人物の名前は出て来ない。
噂話が城下町全体に広まった頃、正義感に燃える一部のルクス教徒たちが、仇を討つためにユス教団の本部を襲った。彼らは武器を持っていた。「彼女を殺した三人の男を出せ!」
ユス教団は異教徒たちの突然の襲来に憮然とした。噂の出所が確かでないのにも関わらず、それを公然の正義として行使しようとするルクス教徒の論理に呆れてものが言えなかったのである。
「正当な裁きを受けさせよ!」
薄汚れ、栄養状態の乏しい生活を行っている無宿人が命を落とすなど、とりたてて話題になるような珍しいことでもない。まして、調べても調べても加害者である三人の男たちが出て来ないのだ。果てには、この事件は、ユス教団に敵対する理由づくりのためにルクス教側が作った作り話だという結論を出す者までいた。
ユス教徒とルクス教徒の関係は、それから一気に悪化した。
法衣を着て街を歩くルクス教徒に石を投げる者がたくさん出て、ルクス教神依士の姿はさっぱり目にしなくなった。
ユス教の根本理念は正義である。
ルクス教の弾圧とユス教の繁栄は正義の実行であると、多くの者が信じていた。誤った理念は淘汰され、正しいものが世を塗り替えていくのだと。
ただ子どものフィランにとって、大人の語るそうした論理は机上の哲学の域を出なかった。彼がユス教青年団に入り武器を握る、正にそのときまで。
川原で会った三つ違いの友達が、急に姿を見せなくなった。
それが意味することは、と勘が働かなくもなかったが、フィランは無意識にそれを制止していた。母子が現れなくなった理由について、深く考えることを直感的に避けたのである。ゼンやクレメンティといった別の友人ができたことも、それに拍車をかけた。
**********
このことは吉と出たか凶と出たか。古い友人とは思いもかけないところで、最悪な巡り合わせで再会することになった。
肩から血を流し、涙ぐみながら自分を見上げる十五の少年。ルクス教の法衣を着たミック。
昔は愛らしさを放っていた黒くくりっとした大きい瞳は、隈のできた下瞼としわの寄った眉間とに囲まれ、とげとげしさしか伝えてこなかった。骨と皮ばかりになった細い腕。顔立ちの面影はあれど、フィランが好きだった子どもらしい純真さは、今のミックからは微塵も感じられない。
「どうした、兄貴?」
頭を抱えて考え込んだフィランを見て、スピネルが不審に思ったらしい。大丈夫だと首を振って示し、視線をミックに振り戻した。
昔ルクス教徒の少年と仲良くしていて、ましてやルクス教徒の女性に思慕の念を抱いていたなどという事実を、心のどこかで分かっていた気がしたのは本当に気のせいだったようだ。
現実は想像以上にフィランを打ちのめした。
次代神君である彼と、異教徒の友人。交わるはずのない人生。
フィラン一人だったらごまかしようもあったかもしれない。そもそも話し合いが決裂したら、適当に神殿を破壊し、ルクス教徒には手を出さずに帰るつもりだった。
だが、スピネルは既に相手を傷つけてしまった。今更銃を引っ込めても結果は変わらないし、今の彼は、教団を率いて信徒を導く立場にいる彼には、信徒に見せるべき姿というものがある。
「生きるか死ぬか選べ」
スピネルを押し退け、ミックの喉元に銃を押し当てて聞く。
ミックは瞳を歪めながら、それでもフィランの視線を真っ直ぐに捉えようとした。
なんで、なんで?
……ミックの心で渦巻いているだろう哀願の感情が、彼が声に出していないのに言葉として伝わってくる。
銃を下げて、フィラン!
銃でガツンと殴りつけた。ミックは再度、倒れた。
ルクス教徒と街中で行き会い、乱闘になって血を流させたことはある……今に始まったことじゃない。
鉛玉よりも痛い怨恨の感情をぶつけられたこともある……ミックだけじゃない。
けれどざわつき出した心は一向に収まる気配を見せず、動悸を押さえようと当てた手によって胸元はくしゃりと握りつぶされていた。
「改宗すると、言え!」
狂おしいほどの懐古の情。
ミックがルクス教徒をやめると言えば、全て丸く収まる。
ユス教を受け入れろ、俺にこの引き金を引かせるな!
フィランのその無言の懇願は、当然の如くミックには伝わらなかった。ミックは答えを求めるようにフィランを見つめた。昔のような、愛情にあふれた心の内がその眼差しから伝わってきたのはほんの一瞬のこと。
ミックは静かに瞳を閉じた。
受け入れたのだ、ユス教ではなく、自身の死を。
当てるつもりはなかった。
ただ脅かすだけのつもりだった。
怯えて頷いてくれればいいと思った。
弾が放たれ、ミックがゆっくりとくずおれたとき、フィランの脳裏をかすめたのはそういった言葉たちだった。
(参考:第七話「ユス教に改宗するか 死ぬか」
https://kakuyomu.jp/works/1177354054917654996/episodes/1177354054917658417)
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