第三章 地下へ

◉第23話 王家の動乱とユス教の台頭

 神君しんくん。ユス教の経典を読もうとするとき、まずはこの単語が目に映る。

 これは当代のユス教徒たちを束ねる指導者のことを指していて、初代神君は教祖ともいうべきガガラ・ユストゥスその人である。

 ガガラの生き様と考え方を間近で見てきた孫のノイマン・ユストゥスが、祖父の教えを後世に残そうと興した団体がユス教団である。ノイマンは祖父のことを神君と呼び、自らをその二代目と名乗った。そしてその二代目亡き後は、ガガラとノイマンの直系の子孫がその役職を継いでいた。


 ユス教は王都から南に遠く離れたハイタス領と呼ばれる貴族領で、細々と信者を集め、教えを粛々と若者たちに伝えていた。九代目までは、当たり前のように受け継がれてきた指導者の役割を、当たり前のようにこなしてその生を終えていった。ユス教団の気運が変わり始めたのは、十代目が二十五歳という若さで当主になった頃合いからである。


 きっかけは、王家からの視察団がハイタス領にやってきたことだった。

 ハイタス領主と懇意にしていた十代目神君は、視察団の接待を行う重大な役割に自ら志願し、それが叶えられることになった。視察団長として来ていた王国の第一王子ガートルヴィに拝謁する機会を得たのである。


 第一王子は伝統と秩序を重んじる王家の血筋とはかけ離れた思想を持っていた。彼は革新的であり、言い方を変えれば王家の異端であった。彼は大して賢くもない世襲貴族たちが大臣として威張り散らし、政治に口を挟み国力を削いでいくのをよしとせず、彼らと馴れ合おうとしなかった。

 通常は末子が行うべき遠方への視察にこの第一王子が送られたのも、その性格が父王や貴族たちから疎まれたからであった。そしてその一件は、厄介者の第一王子に灸を据えるどころか、結果的にこの国を根底から揺るがす出会いを生み出してしまうことになった。


「私たちハイタス領の領民は、ガガラ様の教えを信仰しております」


 十代目神君の言葉に、第一王子は眉根を上げて聞き返した。

「ガガラ?」

「ガガラ様でございます、殿下。神の真理を追求し、より高みを目指す者の生き方でございます」

 第一王子の心を捉えたユス教の教えはこうだった。神という名の真理を知れ。真理を追い求めよ。人間が生まれた意味を追究せよ。恒久的な理想の世を創れ。


 第一王子は一週間の滞在の間、公務の他はハイタス領を飛び回り、多くのユス教信者たちと語り合い、父王の死後にユス教を繁栄させると密かに約束した。

 若干二十歳の第一王子は、この旅の最中に一人の女性と知り合った。彼女は決して美人ではなかったが、敬虔なユス教徒であり、心はとても清らかで澄んでいた。彼女の口から紡がれるユス教の教えは柔らかく彼の心を包んでいき、また彼女の方も王子の持つ情熱に惹かれ、二人は恋に落ちた。

 第一王子は視察を終えてからも、お忍びで何度もハイタス領を訪れた。始めは身分の違いを気にした女も、熱心に通い続ける王子に次第に心を許すようになっていき、やがて二人は結ばれることになった。

「時が熟したら、そなたを迎えに来る。そなたにふさわしい身分と共に」

 女はその言葉を信じ、来るべき時を待ち続けた。お腹に宿った新しい命と共に。


 王子は他の地方への視察にも積極的に赴くようになった。彼は城下町の貴族たちには人気がなかったが、民衆たちには受けが良かった。王権が彼に渡った暁には、身分を問わずに力のある者を重用すると説いて回り、経済的強者である大商人や軍事工場の社長、血気盛んな若者たちを味方につけた。そうして父王が老齢により崩御する頃、国は第一王子ガートルヴィ派と第二王子ディヴェルディ派とに分断されていた。


 規範に則れば、王位は第一王子である兄のものである。だが貴族院はそれをよしとせず、第二王子を王座に据えることを主張した。また、神の代弁者であるルクス教の長、光導士長こうどうしちょうも、次の王に第二王子を指名した。


 兄弟は兵を挙げて王位を奪い合った。政権争いは城下町とその隣にある貴族領とで繰り広げられ、ほんのひと月ほどで決着がついた。第一王子が金にものを言わせて用意した軍隊が、弟のそれの倍に上ったのである。

 弟は自分と妻子の命を保障するという情けない約束と引き換えに、兄に白旗を上げた。弟を担ぎ上げた首謀者が代わりに処刑され、彼に賛同した多くの貴族たちの領地は召し上げられ、弟自身は城の離れの一室に軟禁されることになった。


 そして執り行われることになった戴冠式。

 ルクス教の実質的な長である光導士長から王冠を授けられ、神の命により王位に就くのがならわしである。

 だがその式の最中、新王は光導士長の前に跪かなかった。

 自分の手で王冠をもぎ取り、たじろぐ光導士長をその腕で突き飛ばしてバルコニーに立ち、新王の誕生を心待ちにする民衆たちを見下ろしてこう言った。


「国教をユス教に変える」


 民衆がその言葉の意味を理解するまでには随分と時間がかかった。


 まず始めは、城の中で甘い汁を吸って生きてきた光導士長の追放だった。

 光導士長という者は聖職にありながら、莫大な富と権威を持ち、ルクスさまの意思という脅し文句で王族をも従える力を持っているものである。だが、この光導士長の持つ力は既に失われていた。彼が擁した王弟は、政権争いに負けているのである。

 城内の政治を担う面子は一新された。領地と爵位を奪われた元貴族たちは、多額の財産を持ち出してこの国を去った。一部の者は改宗を受け入れて新王の下に就いた。穴が開いた多くの大臣職に、ハイタス領出身の純然たるユス教徒たちが新興貴族の名をもって就くことになった。

 城下ではユス教徒であることが義務とされた。国との取引が途絶えると商売成り立たぬ者たちは、高い金を払ってユス教の経典を買い、自身は国王の忠実な家来であることを主張するしかなかった。


 差別は経済の面から、少しずつ生活の面へと広がっていった。

 ユス教という教えが世の中と自らの生活の質を変えていく様を目の当たりにした若者たちは、ユス教を天下に広めるという国王陛下の尊い使命を自分のものとして感じるようになった。

 彼らはユス教の青年団を立ち上げ、理念を民衆に知らしめる活動を始めた。古来から人々の中にあったルクス教の信仰は、次第に古いもの、未熟なものとして排斥されるようになっていった。


 王座に就いてから二年後のことだった。

 国王は、ユス教の聖地となったハイタス領から、ある母子を呼び寄せた。恋人として何度も逢瀬を重ねたあの女性である。そのとき身ごもった子は男児で、王城に来た時には既に七つになっていた。

 国王は国教を変えた際の国の動乱を予期し、自分の妻子を危険の及ばぬところに隠しておいたのである。国王はその女性を正妻として王城に迎え入れ、盛大な結婚式を挙げた。

 異を唱える者はいなかった。

 いや、正確に言えば、異を唱えられる者などいるはずもなかった。

 王妃となったその女性は、やがて二人目の子供を身ごもった。王子が十二歳のときである。国中が新しい子の誕生を心待ちにしたが、それが叶うことはなかった。王子の弟もしくは妹は死神と共に生まれ、母の命と共に天に昇っていってしまったのである。

 ひどい悲しみに襲われた王子のために、彼の側にいる者が必要だった。神君の息子がそれに適していた。王子と一つ違いの神君の息子は、足繁く王城に通い、王子を慰め、今後のことを語り合った。二人の立場は、君主と臣下であり、また信徒と教祖であったが、長い時をともに過ごした結果、身分も立場も超えた結びつきが二人の間で生まれることになった。


 王子クレメンティと次代神君フィラン・ユストゥスとの間に確かな絆があるというのは、こういうわけだ。

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