☆第22話 まだ戦争は終わっていない

 その言葉に反応したのはミナの方だった。華奢な体がびくんと跳ね、どういうことなのかという風に、レイヤの後ろから顔を覗かせたのだ。


「ミナ」叱責すると、ミナは元のように顔を引っ込めた。「ここから出ろ。話なら外で聞く」


 男は素直に立ち退いた。テントの中で静かに待っているように告げると、ミナは答えを求めるようにレイヤを見つめたが、同じく素直にテントの中に引っ込んだ。

 男はレイヤの様子を見て口元を緩めている。レイヤは彼をきっと睨みつけ、テントを後にしてずんずん歩き出した。万が一にでもミナに聞かれてはならない。孤児街から悠に十分は離れた人気のない川原で、レイヤはようやく男に向き直った。


「誰だ、あんたは。何の話をしに来た」

「ロイズ・サミーダだ。初めまして、孤児のレイヤ」

 男は悠長に帽子を被り直し、お手本のような愛想笑いでレイヤに握手を求めてきた。それには応じず、男の差し出した手を忌々しく払いのける。

「御託はいらない。要件をさっさと言え!」

「おお、おお」ロイズと名乗った男は大仰そうに手のひらを見せ、レイヤを制止しようとする素振りを見せた。「落ち着いて聞きたまえ。君にとっても大事な話なのだから」

「大事かどうかはおれが決めることだ。早く話せ!」


 男は呆れたように肩を竦めた。テントの中で見せたのと同じ仕草だ。

「宗教戦争がどうして始まったか知っているか」

 この国に暮らす者が知らないわけがない。レイヤは男の問いに答える意義を見出せずに沈黙した。答えがないのをどう捉えたのか、男は低い声で笑って続けた。

「ある夜、一人のルクス教徒の女性が三人のユス教徒の男性に殺された。憤ったルクス教徒は報復のために、ユス教を打ち倒すことを決意した」

「……それが?」


 平静を装いつつレイヤは言った。ずきんと痛んだ頭を押さえながら。

 男がさっき言ったことはどうやら正しいようだった。『君のお母さんと宗教戦争との関わりを知っている』と、そういうことは。

 だがレイヤは、自分が当事者の息子であると誰かに話したことはない。ミナにさえも。何故、見も知らないこの男が知っているのか。


「争いは年々激化し、つい最近では火器も用いられるようになった」

「一年も前のことを最近というのならな」

「だが国王が聖断を下した。ルクス教を認めないことを法にしたのだ。今はまだ隠れルクス教徒がいるだろうが、そのうちに皆改宗するか、殺されるかするだろう」

 レイヤはぎくりとした。

 ミナは間違いなく、隠れルクス教徒の一人だったから。

「誰もが、争いは終わったと思った。賢い国王の下で、これからは平和な世が続いていくと」


 平和な世。それはルクス教徒から見るか、ユス教徒から見るかで意味合いがかなり変わってくるだろう。

 現在、街中で銃弾が飛び交うことはなくなったし、市の物価も格段に下がって食べ物は容易に手に入るようになった。楽かそうでないか、と聞かれたら、今の方が遥かに生きやすいに決まっている。

 しかしレイヤの妹にとっては……。まさか、ミナの信仰を知って彼女を捕まえに来たのだろうか。


 レイヤはすぐにその考えを打ち消した。隠れルクス教徒の摘発ならば、警吏に一言言えばいいだけだ。こんな回りくどいことをするはずないし、そうしたところで貴族である彼が利益を得られるとも思えない。

 彼がもってきた話はミナのことではない。

 ……レイヤたちの、母親のことだ。


「だが、本当にこれは終わったのだろうか」

 男はレイヤの瞳の奥を覗き込んだ。


「最初の話に戻ろう。世間はこの事件をどう見たか。殺されたルクス教徒の女性は身元不明でどこの誰か分からない。三人のユス教徒たちの素性を知っている者たちもいない。どう探しても彼らの情報が出てこないことから、ユス教の内部ではこれをルクス教の作り話だと考える者も出た。戦争を始める責任をユス教に押し付けるためにな」


 レイヤは耳を疑った。

 作り話だと?

 あの、悪魔のような暴虐の時間が作り話だったと?


 レイヤの鳶色の瞳に憎悪の光がともったのを感じ取らないはずはないだろうに、男はレイヤの感情の変化を面白がるかのようにその後もゆっくりと言葉を紡ぐだけだった。


「だが本当に聡い者たちは知っている。これは本当に起きた出来事で、情報は意図的に隠蔽されたのだと。その隠蔽工作の裏に、その女性と家族の苦しみがあったことを。争いには強引に終止符が打たれたが、家族の中ではまだ戦争が終わっていないことを。不運な死を遂げた彼女はどうなっただろうか。国の税金で簡素に葬られただけだ」


 確かに、男の言う通りだった。

 母が死んだ後、役人がやって来て、レイヤに「どけ」だとか「誰だお前は」だとか言いながら、有無を言わさずに母の遺体を連れ去った。そして無宿人の死にふさわしく、葬式も何も行わないまま共同墓地のどこかに埋めただけだ。

 頭の痛みはどんどん強くなっていった。


 ミナを守るために。封じ込めたはずだった、全ては愛しい妹のために。男の言葉はさり気なく、だが着実に、そして無遠慮に、レイヤの心の薄皮を剥がしていった。気づいたときには、彼は男の前で怒りを露わにして打ち震えていた。


「今さら何の話だよ!」

 レイヤは憤る声と気持ちを必死に抑えながら、男に詰め寄った。

「一体誰だ、あんたは、え? ルクスの関係者か? おれの母親が死んだことはあんたに何の関係もないだろう!」


 ルクス、の名前に男の目はきらりと光った。

 が、動揺は微塵も感じられなかった。


「そうだな。私には何の関係もない」

「なら何でおれのことを呼び出した? 何で事件との関わりを知っている?」

「まあ落ち着け、レイヤ。私には何の関係もないが、君には大いに関係のある話だ」

「さっさと言え! それでさっさと消えろ!」


 噛みつかんばかりのレイヤの剣幕に男はたじろぐようでもなく、レイヤの神経を逆撫でするようなゆったりとした口調で次の言葉を紡ぐだけだった。


「ところで、三人のユス教徒の男たちはどうなったのだろう」

「おれの知ったことか!」

「そうか。やはり知らないか。私は知っているんだがな」


 レイヤの次の言葉は出て来なくなった。

 心臓がレイヤの心を置き去りにして、ドッドッと早鐘を打ち出した。

 男の視線から甘さが急に抜かれ、鋭い、射抜くようなそれになる。

 どことなく浮かべていた余裕ある微笑は消え、口元にはピンと張り詰めた緊張感が表れた。


 レイヤの目に雫が伝わり、彼はそれで、自分が汗をかいていることを知った。

 母が死んだのはちょうど五年前のこのくらいの時期。冬の終わりのまだ肌寒さが残る頃。冷や汗をかくほど体が火照っていることに気づいたが、額の汗を拭うこともできなかった。

 少しでも動いたら、この男から視線を離したら、たちまち呑み込まれてしまう。


「この事件はルクス教徒の無宿人の女がに殺されたというだけの事件として処理された。計帳にもそう記されたんだ。三人は特に罪に問われずに釈放された。有名になったのは、この事件を目撃した無宿人たちが口から口へ語り継いで広めたからだ」


 あの場にいた者。関わり合いたくないと目を逸らした者。母が死んだと知ってレイヤたちの住処を競うように奪った者。……そんな彼らが、レイヤの知らないところで、レイヤの母の話をそんな風に……。

「……だがあんたの知ったこっちゃない。そうだろう?」

 苦し紛れにそう切り返す。

 レイヤが丁寧に慎重にくるんできたものを、愛しい妹に見つからないように隠してきた感情を、この男は飄々と剥き出しにしてきた。

 これ以上踏み込まれたくない、レイヤの握り締めた両手には汗が滲み、踏み締めた両脚は男から逃げ出そうとするかのように後ずさった。


「だが私は知っている。お前も知りたくないか」


「知りたいも何も、ずっと知らずに生きてきたんだ! 母親のことなんか忘れた! 話は終わりだ、とっとと消えろ!」


 叫んで吐き捨てて、踵を返した。ざくざくと草を踏み締め、レイヤは心臓の辺りを押さえる。

 ドッドッドッ。激しく脈打つ鼓動は、自分の背中に注がれる男の視線を浴びてさらに動きを速めていた。まるでミナが発作を起こしたときのように、レイヤは自分が浅く息をして肩を上下させていることを感じ取った。


 ……ミナ。ただ一人の妹の、ミナ。彼女は一人で、兄のことを心配して待っているだろう。早く帰って、何も心配はいらないことを伝えなくては。いつも通りの自分に戻らなくては。


 ミナ。母親といるときには、あんな咳をしたことはなかった。

 ミナ。いつも胸を押さえながら、苦しそうに話している。

 ミナ。彼女が病になったのも、彼女のルクス教信仰を許してやれないのも、全て、すべて……。


 気づいたらがくりと膝が折れていた。誰もいない川原の草むらで、レイヤは膝と両腕を地につけて、汗だか何だか分からないものをぼたぼたと流していた。

 背後には彼を罠に落とそうとしている男がいる。それを分かっていながら、レイヤは拳をドンドンと地面に叩きつけるのを止めることができなかった。

 口からは、言葉の形をとらない叫び声が漏れる。


 母を殺した三人の男たち。

 幼い兄妹の希望を一夜にして奪い取った男たち。

 それが誰だか知りたいか、だと。


 ……知りたいか、だと!


 頭は割れそうなくらいの痛みを発していた。レイヤは呻き声を上げながら、自分を守るかのように頭を抱え込んで体を丸めた。

 置き去りにしたはずの、遠き日の感情。

 母の思い出と共に葬り去ったはずの、あの日の憎しみ。

 それらは彼を食らいつくさんばかりに牙を剥いて、彼の心の繊細な部分をずたずたにしていった。


 ミナを守るために……その命題は終わった。平和な世になったのだ。

 ……まだ戦争は終わっていない。哀れな被害者の女性と、その家族にとっては。


 ざく、ざく、ざく。男が自分に歩み寄ってくるのが分かった。肩に手を置かれたのを、乱暴に払いのける。はあ、と男がため息をつくのが聞こえた。レイヤは男が自分の側にしゃがみ込んで影を作るのを、絶望の気持ちで見下ろした。


「復讐を望んだことはないか」


 カチリ。罠に捕らえられる、その瞬間の音さえ聞こえたような気がした。


 どちらもしばらくそのまま動かなかった。レイヤは自分の心が荒れ狂い、行き場のない衝動とともに暴れ出すのをただ見つめていた。

 一度と言わず二度も三度も抑え込もうとしたこの感情。

 何のためか。他ならぬミナのためだ!

 だがその結果、どうだ。妹は母を死に追いやった邪教を信じるようになった。レイヤの思いなど踏みにじるかのように!


「……その男たちを教えてもらえるんだな」

 男は頷く。「ああ、教えよう」

「……なぜ、あんたが知っているんだ。誰も知らないはずなのに」

 男はレイヤの顔を覗き込み、意味ありげに笑った。

「誰も知らないなんてはずはない。現にお前は見ているのだし、これは実際に起きた出来事なのだから」

「あんたに何の利益がある。おれにそんなことをそそのかして、あんたは一体何がしたいんだ?」

「お前はお前の思う通りにやればいい。私のことなど考えずにな」


 男は契約だ、と言った。レイヤの顔の近くに、真っ直ぐに腕を伸ばす。

 レイヤの全身は、まるで業火に焼かれているかのようにかっかしていた。顔を上げ、ぎらぎらと瞳を燃やしながら、挑戦的に男を見やった。

 差し出された手を掴む。


「……ロイズとかいったか。おれは何をすればいい?」


 男はにやりと笑った。


「そうだな。……まずは、『父上』と呼んでもらおうか」

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