☆第14話 母さんの名を呼ぶな!

 レイヤが初めての泥棒をした翌々日、居酒屋の近くの広場は、夜が明けるとともに、活気がつき始めた。日よけの簡易屋根を設け、たっぷりの野菜や肉や料理を荷車や荷台に広げ、ありとあらゆる種類の露店が軒を並べ始めた。

 日曜の朝に定期的に開かれる、市場である。

 城下町にある店のみならず、地方の農家や漁師もこの日に合わせて商品を運び込むので、広場はあっという間に露店で埋め尽くされた。後から来た者が店を広げられる場所はもうないので、広場からはみ出た道路に商品を並べることもあった。

 日が王城のてっぺんを越えるくらいの時間になると、客も来出して会場は賑やかさでいっぱいになった。





 一昨日の打ち身の痛みが全身に鈍く残っていて、レイヤの体は重い。

 昨日目覚めて兄の怪我に気づいたミナが泣きながら手当てをしてくれたが、川に浸した布切れで冷やすのが精一杯で、薬もないし気休めにしかならなかった。


 母が死んで五日目、レイヤの目に映る世界は、母が命を賭して守り抜こうとしたルクス教の理想とはほど遠いところにあった。

 物乞いをする孤児に大人たちが慈悲を見せることはない。

 泥棒をする孤児に大人たちは容赦しない。


 昨日、甘い果物と肉とパンを与えた妹は、空きっ腹もようやく落ち着いて人心地ついたようだったが、今日になってまたレイヤが一人で出かけてくるというようなことを言うと、泣きじゃくって兄に縋りついた。


「いや。いかないで。いっしょにいて」


 レイヤは唇を噛んで俯いた。

 自分がいない間、妹がどれだけ心細い思いをして待っているのかということは、レイヤには痛いほど伝わってくる。小さいミナを一人残していく不安はもちろんある。だが、孤児のレイヤに対する情け容赦ない大人の振る舞いを思い出すと、自分の側にずっといさせるのもまた不安なのだ。


 泣くミナをなんとか引き剥がして、物乞いをする他の孤児たちの近くに強引に座らせると、レイヤは一人で市場にやって来た。


「安いよ!」

と店主が叫んだ、野菜のごろ煮に目を落とす。

 錫貨六つ分。

 高い。


「まとめて買ったら割り引くぜ!」

 縛って燻製にした肉の塊。銅貨で五枚分。

 まとめて二つ買ったら銅貨九つ分だと。

 高い。


「搾りたてだよ。おいしいよ!」

 広場の土の部分に突き立てた杭につながれた山羊が、レイヤの方を見てメエと鳴いた。

 山羊の乳、錫貨五枚分、もしくは穴あき銅貨一枚分。

 高い。





 レイヤは店主がこちらを見ていない隙に、山羊の乳の入った瓶をさりげなく掠め取って走った。


 露店が見えなくなり、誰も追ってこないのを確認したところで、ごくごくとそれを飲み干した。

 僅かだけれど、力が湧いてくるのを感じる。

 空き瓶をその辺に打ち捨てて、また市場の雑踏へと目を戻した。




 身綺麗な服装をした中年の男性が、財布を手に商品を物色しているのが目に入った。革細工の店で、ぽこんと膨れたお腹にズボンをしっかり合わせるためのベルトを数本見比べている。それを自分の腹に試すために、商品の棚に一旦財布を置いた。

 レイヤは音もなく動き出した。

 黙って側に忍び寄り、店主からも客からも見つからないように屈みこんで、そうっと財布に手を伸ばした。

 財布に触れたと感じた途端、レイヤの手首は掴まれていた。


「何をしているんだ、薄汚い盗人め!」


 財布の持ち主は脂ぎった顔でぎょろりとレイヤをねめつけ、手首を捻り上げた。

 彼は悲鳴を上げ、残った手足をばたつかせ、手を離すよう乞うた。

 中年男はレイヤの横面を思い切り張り飛ばした。

 群衆の中に放り出されたレイヤを忌諱するように人々はさっと離れたが、彼がしばらく起き上がらないのを見ると、ぼそぼそと呟き始めた。

「汚いわねえ。孤児かしら」

「起きないな。くたばったのか」

「盗人なんてみっともないこと」

「罰があたったんだね」


 彼を突き飛ばした張本人は衆人の注目を受け、不服そうな様子で、地べたに伏せた彼を乱暴に起き上がらせた。

 レイヤはぼんやりしているふりをして、客の財布がどこにあるのかを見て取った。

 左のポケットに入っている。手を伸ばせば届きそうだ。

 そうしようとした右手首がずきんと痛んだ。さっき男に捻られたとき、関節を痛めたらしい。

 レイヤは顔をしかめ、そしてその痛みはそのまま、彼の怒りと憎しみになった。


 レイヤは無事な方の左拳に力を籠め、男の胸に叩き込んだ。

 レイヤは左利きである。昨日買った食べ物のほとんどを妹に与え、自分はさっき飲んだ山羊の乳以外は何も口にしていないのにも関わらず、その拳は的確に男の鳩尾に入って男に衝撃を食らわせた。

 男がよろめいた隙に、ポケットの財布を抜き取って走り出した。

 男も、周りにいた人間も、一瞬目を疑い、呆気にとられた。その一瞬のうちに、レイヤはその場から姿を消していた。


 男の怒号、それから正義感にかられた無関係の人間たちが彼の後を追ってくる。

 レイヤは走りながら、財布を開けて中から金を半分ほど抜き取った。そして、今にも追いつきそうな追手に財布をポンと投げ返した。追手があたふたとそれを拾おうとする隙に、レイヤは妹の下まで逃げ帰ってきた。


 銀貨! 銀貨がある!


 レイヤは横領品を確認してほくそ笑んだ。

 これだけあればどれほど楽ができるだろう……食べ物もたくさん買えるし、ミナに新しい肌着や服を買ってやれる。

 そうだ、その前に水浴びをしよう。

 今まで二日に一回はしていた水浴びも、母が死んでからこの五日間一回もしていない。


 ほくほくした気持ちで銀貨をミナに見せてやろうとしたとき、彼女の異変に気付いた。兄の声に気づいて顔を上げたが、その瞳に兄を捉えることすら難しいくらい衰弱していて、呼吸が浅かった。

 朝彼女の下を離れたときは何ともなかったはずである。

「ミナ、ミナ?」

 レイヤは彼女に呼びかけたが、返事はなかった。

 体が熱い。

 兄に触れられた彼女は、急にゴホゴホと咳き込んだ。


 レイヤは四日前、物乞いをしていたときに、妹が今のような咳をしていたことを思い出した。咳が止まったように見えても、息をする度にぜいぜいと胸が鳴る。

 あのときは、抱き締めて声を掛けているうちに症状は消えたのだが、同じようにすれば治るだろうか。

 彼女を抱き上げたレイヤは、くたりと力なく倒れたミナから伝わる高熱に、冷静に考える力を失った。


 手元には銀貨が……一枚。銅貨以下の小銭が数枚。

 これだけあればミナを医者に診せてやることができるだろうか。

 妹を背負って立ち上がったレイヤのことを、何人もの孤児が見やった。その視線は彼の中に憎しみの感情を生んだ。これだけたくさんの人間が側にいたのに、レイヤの妹に声を掛けてやる奴が一人もいなかったとは。


 レイヤは城下町を歩いて回り、医者を探した。

 道行く人に尋ねて回ったが、背のミナの病状を見て流行り病だと思ったのか、口元を押さえて立ち去ってしまう人が多かった。レイヤは誰の助けも得られなかった。

 彼の脳裏によぎったのは、「薄汚い盗人の孤児なんぞ、どこで野垂れ死のうが知ったことか」という、酒場の男の言葉であった。


 ついに行き会ったのは、医者ではなく薬屋だった。

 レイヤは銀貨を薬屋の前に差し出して、「熱があって、咳が止まらないんだ! 治す薬をくれ!」と嘆願した。

 薬屋は兄妹をちらりと見下ろすと、「医者に診せたのかね」と冷たい声で言った。

「医者は探しているけど見つからない。どこにいるんだ?」

「まあお前らじゃ相手にしてもらえないだろうな」

 フンと鼻を鳴らし、レイヤの手元にポンと丸薬を放った。

「こ、これだけ?」

「それだけだ」

「銀貨だぞ! もっとたくさん薬を買えるはずだ!」

「どうせ盗んできたやつだろう。文句があるなら返してもらおうか」


 レイヤは恨みがましく薬屋を睨みつけ、丸薬を受け取ってぱっと駆け出した。






 昨日まで寝床にしていた川原へとやって来て、妹を草むらに横たえた。

 丸薬を口に含ませ、手で川の水をすくって口元に持って行った。捻った右手首の痛みなどまるで気にならなかった。何度もそれをやって、なんとか薬を飲み込ませたが、ミナの咳はなかなか止まず、薬を吐き戻してしまわないか心配になった。

 胸に優しく手を当て、彼女の意識をこの場に留めておけるよう、何度もミナの名前を呼んだ。

 薬の効き目はあまりないようで、ミナの苦しそうな様子はいくら経ってもちっとも収まらなかった。


「どこ……どこ……」


 ミナが微かに目を見開き、兄を探すように瞳を動かした。


「ミナ、ここだよ。おれは、ここにいるよ」


 優しい声で呼びかけた。だが彼女は聞こえていないのか、繰り返してこう言った。


「どこ……おかあさん……」


 金色の睫毛を掻き分けるように、大粒の涙が一つ、二つ三つ、溢れ出た。

 レイヤの心は、その言葉と涙にぐらっと揺れた。

 最初は聞こえないふりをしてやった。


「ミナ、だよ。お兄ちゃんは、ここにいるよ」


「おかあさん……くるしい……たすけて……おかあさん……」



 次は、心がぐらぐらと揺れただけではなく、素手で乱暴に鷲掴みにされたような気がした。

 今の自分たちのような、水浴びもろくにできず、餓えて細くなった、垢と泥のついた汚い手で。

 レイヤは不愉快なその感触を払いのけるために、思わず大声で怒鳴っていた。


「母さんの名を呼ぶな!」


 顔のすぐ際で罵声を浴びたミナはびっくりしたように、目を大きく見開いた。

 その瞳から、ぽろ、ぽろ、涙が零れ落ちる。


「お、おかあさ……」


「いいか、お前に母さんはいない! 最初からいなかった! おれたちに母さんはいないんだ!」


 怒りに脳みそを支配されたレイヤは、勢い余って妹のことを放り出しそうになった。

 それをせずに済んだのは、目を見開いたミナが、それ以上何も言おうとしなかったからだ。

 ぜいぜいと苦しそうに息を継いだミナは、震える手を兄の胸に伸ばして、服を掴んだ。そのまま金の睫毛を伏せ、目をつむった。兄の胸にもたれかかるようにした。


 レイヤの高まった鼓動は、それからようやく落ち着きを取り戻していった。冷静になった彼の心に、これで永遠に妹を失ってしまうかもしれないという恐怖が湧いてきた。

 ミナは熱い息を吐き、苦し気に息を吸うばかりで、兄と目が合うことも言葉を発することもない。

 ミナは、あどけないこの娘は、夢の中で母に誘われたら、兄のことなど忘れてついていってしまうのではないだろうか。

 恐ろしくなったレイヤは、「ミナ、ミナ」と彼女の名を呼び続けた。

 睡魔に意識を奪われそうになりながら、レイヤは唇を噛み締め、その血の味で空腹をごまかしながら、彼女に声を掛け続けた。


 彼女の呼吸が穏やかになり、危機を脱したと気づいたころには、もう夜半を過ぎていた。丸薬が効いたのか、もしくは、そもそも命を奪う伝染病の類ではなかったのだろう。翌朝、熱も下がった妹は、久方ぶりに目を開け、穏やかな表情で兄のことを見た。

「おにいちゃん、おはよう」

 レイヤはほっと胸を撫で下ろして微笑み返した。「ああ、おはよう」






 ミナはその日以来、とんと母の名を口にしなくなった。

 お兄ちゃん、とレイヤの名を呼び、かつて母にしていたように彼に甘えるようになった。妹のそうした態度は彼の閉ざし切った心を綻ばせた。

 レイヤはあるとき、それとなく聞いてみたことがある。

「母さんのこと、覚えていないのかい」

 ミナは首を傾げて考え込んだ。

「私、お兄ちゃんしか知らないわ」


 その妹の姿を哀れに思うのと同時に、レイヤは安堵の気持ちを覚えていた。

 母のことを思い出そうとすると、レイヤですら頭がずきんと痛む。あの夜の凄惨な出来事の母の姿が邪魔をして、それより昔の記憶をどう頑張ったって呼び起こすことができない。

 妹にあの残酷な晩の出来事の記憶が残っていないのなら、それに越したことはないと結論付けた。









 母が死んでからしばらくの間、レイヤは泥棒をして生計を立てていた。

 だが、そうそううまくいくときばかりではなくて、失敗してあざや切り傷を作って帰ってくることも多かった。

 ミナは、傷を負った兄の手当てをする度に、まるで自分が切られたかのような表情で泣いていた。


 ……盗人の孤児なんぞ、どこでくたばったところで知ったところか。


 相手に滅多打ちにされ、そのまま殺されるかもしれないと思ったとき。

 切られて血を流し、薄れゆく意識の中でそのまま死ぬのかもしれないと思ったとき、必ずミナのことが頭をよぎった。

 自分が死んだら、ミナはどうなる。あのかわいそうな哀れな娘は、自分の助けなしでどうやって生きていける。


 皆、どうやって食いつないでいるのだろう。レイヤは知らず知らずのうちに周りを観察するようになり、そして、孤児たちが様々な方法で生計を立てていることを知ることになった。


 物乞いをする者もいる。

 レイヤのように、追い剥ぎをする者もいる。

 だが、貧民街の奥に捨てられるごみの中から鉄くずを拾い集めて金物屋に売りに行く者や、川原や野原に生えている花を摘んでは束ねて道で行商する者や、山に根菜を採りに行って日曜の市場に持っていく者や、大人に混じって雇われて働いている者もいた。


 レイヤは生きるための糧を違う方法で稼いでいくことを考え始めた。

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