☆第13話 薄汚い盗人の孤児なんぞ

 母が死んでからの三日間、兄妹が口にしたのはパン一切れだけだった。

 パン屋の店主は、薄汚い身なりの兄妹に、足元を見たものしか売ってくれなかった。昨日の売れ残りの、ぱさぱさした、大して量のない味のしないパン。ミナはそれでも美味しそうに頬張ったが、レイヤの腹はちっとも満たされなかった。

 三日目が終わる頃、レイヤは物乞いとしてやっていくのでは二人とも食べていけない、ということを悟った。


「ミナ。じっと待っておいで。動いちゃだめだ」


 ミナは目を丸くして頷いた。

 レイヤは一抹の不安を抱えながらも、妹を川原に置いてそっとその場を離れた。






 昨日行ったパン屋にもう一度行ってみる。

 売れ残ったパンはそのまま売り棚に並んでいる。

 中に人気はない。

 試しにドアノブを握ってみたが、ガチャガチャという音が鳴るだけで中に入ることはできない。


 レイヤの得物は、道端で拾った太い木の幹だった。

 ずしりと重いそれを手に、ごくりと生唾を飲み込むと、ちらりと辺りを伺った。

 人通りはない。

 腹を空かせたミナのことを考える。レイヤは覚悟を決めた。


 得物を持ち上げて、思いきり振り抜いた。

 バシンと鈍い音を立てて木の幹はガラス窓にぶつかったが、びりびりとした変な振動が腕を伝わっていっただけで、窓が割れることはなかった。

 もう一回。結果は同じ。

 ミナが待っているのに。焦るレイヤが三回目をしようとしたとき、道から女の悲鳴が聞こえてきた。


「ど、どろぼう!」


 レイヤはぎくりとして木の幹を取り落とした。

 さっきまで誰もいなかった通りに、一組の男女が足を止めてレイヤの方を見ていた。


 レイヤは脇目も振らずに走り出した。

 男が後を追いかけてくるのが分かったが、小柄なレイヤは小道を抜け、障害物を飛び越え、命からがら逃げた。

 やがてレイヤの後を追ってくる者はいなくなったが、そのことに気づいたとき、疲れ切った両足はがくがくと震えて力が入らなかった。


 妹の待つ川原から、だいぶ離れた場所まで来てしまっていた。

 妹のことを考えたレイヤは、今すぐ彼女のところにとって返したい気持ちにかられた。

 でも、妹は腹を空かせている。

 何か食べ物を手に入れるまでは、戻るわけにはいかない。

 レイヤは震えてしまって言うことを聞かない足に鞭打ち、よろよろと歩き出した。







 夜になっても明かりが灯るのは、大人が酒を飲んで騒ぐ居酒屋である。

 賑やかな笑い声が生み出す陽気な雰囲気は、母を失ったレイヤの心をちくちくと刺した。

 母と言い争いをした男たちもこういう店から出てきたことを、彼ははっきりと覚えている。


 四、五人のグループが宴を終えたのか、勘定を机に置いて席を立とうとした。

 店主がにこやかに客を見送ろうとしたとき、レイヤはぱっと飛び出して机の上に置かれたお金を引っ掴んだ。


「おい、こら! 盗人め!」


 レイヤはいくらも逃げないうちに捕らえられてしまった。

 右も左も分からぬところからたくさんの手が出て足が出て、レイヤは文字通り袋叩きにされた。

「おい、足りないぞ。どこに隠しやがった!」

 下着の中までまさぐられたが、握りしめた拳は絶対に開かなかった。

 二人掛かりで羽交い絞めにされ、指を一本ずつ剥がされたとき、レイヤは歯を食いしばりながら必死に逃れようとした。

 だがまるで歯が立たなかった。


 握られていた硬貨を取り返すと、客はぼろ雑巾のようになったレイヤを足蹴にして裏の路地へ追い出した。


「おい、大丈夫か。さすがに……」


「どうせ孤児だ。盗人の孤児なんて、どこで野垂れ死のうが気にする奴はいねえよ。おい坊主、警吏を呼ばれなかったことに感謝するんだな」


 大人たちがそう言うのを、レイヤは鼓膜の遠い向こうで聞いた。









 やがて店の明かりが落とされ、辺りがしんと静まる頃、レイヤの体はむくりと起き上がった。


 近くに誰もいないのを確認してから、口の中に隠しておいた物をぺっと吐き出す。


 それは銅貨だった。

 錫貨の二十五倍の価値で、昨日口にしたぱさぱさのパンだったら両手で抱え切れないくらい、大きめに切った肉とたっぷりの野菜を挟んだ柔らかいパンだったら二人前買ってもおつりがくるくらいの額だった。

 男たちはレイヤが握り締めた銭貨を奪ったことで満足し、金を全部取り返したかどうか確認しなかった。

 ……レイヤの勝ちだ。


 立ち上がろうとしたときに腰が抜けそうになったが、何とか真っ直ぐに立って、レイヤは心許ない歩みで一歩ずつ歩き出した。

 骨は折れていないようだが、頭は割れそうなくらい痛かったし、数歩進むだけでも戻してしまいそうなほど気持ちが悪かった。

 それでも足を止めずに歩き続ける。







 深夜を過ぎてどれだけ経ったか分からない。


 ひょっとしたら明け方の方が近いんじゃないかというくらいの時間に、レイヤはようやく妹のところに戻って来た。


 ミナは子うさぎのように体を丸めていたが、草を踏む足音の主が兄だと気づいた途端、ぱっと跳ね起きた。


 彼女に抱きつかれ、ふわっとした温もりを感じた途端、レイヤは大事に握り締めてきた硬貨を取り落とすほどの脱力を感じた。



「おにいちゃん、おにいちゃん……」



 ミナはそこに本当に兄がいるか確かめるように、ぺたぺたと手のひらを兄の顔に押し付けた。


 レイヤは妹を抱いたまま、足から力が抜けるのに任せて草むらに倒れ込んだ。

 ミナも一緒に倒れる。

 彼女の頭を撫ぜてやる。

 怪我が治ったわけでもないのに、不思議と痛みが気にならなくなってきた。


「明日はおいしいもの買いに行こう。ミナ、うんと食べられるぞ」


 二人のお腹がきゅうっと揃って鳴った。

 ミナは泣き止まず、息苦しそうにしていたが、その声はだんだんと細く弱くなっていって、眠りに落ちたのを感じた。

 自分が帰ってくるのを寝ずに待っていたのかもしれないとレイヤは考えた。




 子守唄を歌ってくれた母はもういない。

 妹の寝息をその代わりにして、兄の意識もすうっと閉じていった。

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