⌘第9話 そのまた次の日曜日
すべて夢であった。
そう言えたらどんなに心が楽になるだろう。
昨日起きた出来事を、朝から順になぞるように思い返す。
「
言い捨てたミナの兄。
乱暴に連れ去られたミナの縋るような目。
「改宗しろ。さもなくば命を取る」
そう脅したユス教徒のフィラン。
「ルクスさまの意思だ、蜂起しろ!」
いきり立った信者たち。
ミックに何ができただろう。
まだ神依士ですらない、神の意志を代弁することもできない、この自分に何が。
ミックは穏やかな寝息を立てて眠る父の顔を見た。
傷が悪化したりはしていないようだ。
ほっと胸を撫で下ろし、顔を洗うために洗面所へ向かった。
鏡に映った、片方の頬だけ異様に腫れた痛々しい顔。
耳と腕に巻かれた包帯。
それらが、ミックが戦争の中に身を置いているということを物語っていた。
昨日命を取られてもおかしくなかった。自分も父も。
今まで、神殿に籠ってさえいれば大丈夫だと、根拠もなく思っていた。
昼餐会に顔を出す信者の数が減り、彼らの顔がどんどん曇っていく様を見ていても、ルクスさまの教えを守ることを選んだ自分にはどこか無関係なものだと思っていた。
そう感じていた自分に気づいたとき、ミックは自分をひどく恥ずかしく思った。
同じルクス教徒なのに。苦しんでいるのは、誰もが同じなのに。
口の中まで腫れているせいで、物を口にする気にはならなかった。
怪我をしている身で食事をとらないのは賢明な判断とは言えないけれど、もう少しよくなってからでもいいじゃないか、と自分に言い聞かせた。
父の分だけ持って寝室に戻ると、父は既に目を覚ましていた。
「お父さん、よく眠れた? 気分はどう」
父は視線をめぐらせてミックを見つけた。
「ミック……どうしてここにいるんだ。皆と一緒に行かなかったのか」
ミックは耳を疑った。
「昨日のこと、覚えていないの?」
「私は、お前を皆に託したはずだった。そこまでは覚えているんだが……」
「ぼくは残る、お父さん。最後までルクスさまと共にいる、って決めたんだ」
父はそれ以上は何も言わなかった。
両目を手のひらで覆い、すすり泣くのを隠すだけだった。
ミックはしばらく待ってから、朝食をとるよう父に声をかけた。
ちょっとした動作もひどく怪我に響いたが、表情で気取られないよう気を払って、父が食べるのを介助した。
そうしながら、昨日の出来事をなぞるように、自分の心の傷をさするように、ひとつずつ話して聞かせた。
寝ているときに父がうわ言を口走ったことも話した。
「あのときだとか、あの子だとか。支離滅裂で、何を言っているのか分からなかった。それからお母さんの名前も呼んでいたよ」
父はよく覚えていないのか、それに関しても何も言わなかった。
包帯は毎日替えろと言われていた。
ミックはまず父の包帯を外し、傷口の周りにたっぷりと薬を塗った。まだ生々しい紫色をした傷口は、彼に一昨日の凄惨な出来事を思い起こさせた。
自分の左腕も手当てしなければならなかった。ミックは唇を噛み締めながら自分の包帯をとった。布が剥がれて傷が空気に触れた瞬間、痛みが突き上げてきて気持ちが悪くなった。父の傷を見るのと自分のそれを見るのとでは勝手が違った。さっさと治療を終わらせて元通りに包帯を巻き直したかったが、それらを片手でこなすにはじれったいほど時間がかかった。
全てが終わったときにはもう一片の力も残っていなかった。汚れた包帯は煮沸消毒をしなさいと言われていたが、神殿の封鎖で炊事場に入れないので、綺麗に洗って消毒代わりの酒をかけておくくらいしかできなかった。
ひいふう、二日目。
父も少し体を動かせるようになり、ミックの包帯を巻くのを手伝ってくれるようになった。耳の方は血が止まってかさぶたができれば大丈夫だそうだ。歪になって声が聞こえづらくなったが、痛みがひどいわけではないし、気にしないに限る。頬の腫れも二日経った今はだいぶ落ち着いてきて、ミックも多少は物を口にすることができるようになった。
ひいふうみいよお、四日目。
外から銃声がたまに聞こえてくる。先週までとは違い、そのひとつひとつに誰かの命が散らされているという実感がミックに襲い掛かった。
父は起き上がることはできないが、意識ははっきりしているようで、寝床の中で熱心にルクスさまに祈りを捧げている。ミックは身の回りのことをし終えた後は、父に倣って祈りの文句を唱えたり、経典を読み込んだりして修行に励んだ。
そして翌日、金曜日。信者たちはこの日の夜に武装蜂起すると言っていた。成功した暁には、日曜の朝に神殿の扉を叩く、とも。だがそれは、皆がどうなったのか日曜の朝まで分からないということだ。ミックは床に膝をつき、ひたすら無事を祈るしかなかった。
「今日がその日なのか」
父に話しかけられ、ミックははっとした。
「何のこと、お父さん」
「隠さなくていい。皆の会話は聞こえていた」
ミックは俯いた。父には知ってほしくなかった。
たとえそれでミックたちが苦しさから解放されるとしても、信者たちがルクスさまの教義に逆らって武器を手に蜂起したということは。
父は答えようとしないミックに温かい眼差しを送って、自分は身を起こそうとした。
「だめだよ、お父さん、じっとしていなきゃ」
ミックが慌てて止めようとしたが、父は笑って首を振った。
「こっちに来るんだ、ミック」
「うん」
ベッドに腰かけた父はミックの肩を抱き寄せた。温かく広い腕がミックの背中を包み込む。こうして父に抱かれたのはいつぶりだろう。母が死んでからは特に、こうした温もりを感じることはなかったのではないだろうか。ミックは父に安心と愛情を覚え、涙がこみ上げてくるのを感じた。
父はゆっくりと言葉を紡いだ。
「明日、お前の
「神依の儀だって?」
ミックは耳を疑った。神依の儀とは、見習いの神依士が一人前と認められる儀式のことだ。見習いになってから少なくとも十年は修行を積まねばならず、幼い頃から修行に励んでいるミックのような住み込みの神依士見習いでも、通常は十八で成人するまで本職の神依士になることは認められていない。
「ぼくは、まだ十五なのに……」
「お前はもう、立派なルクス教の神依士だ。一生仕え続けることを神に誓い、ルクスさまの祝福を頂こう」
ミックは少しためらった。そしてすぐに、ぶんぶんと首を振った。
「お父さん、ありがとう。でもいいよ。ぼくは自分では思わない、自分が立派な神依士だとは」
父は慈愛に満ちた目で息子を見やった。
父は、時折ルクスさまのようだ。ミックのどんな思いでも受け止めてくれるだろう。一度話し始めたら、止まるところを知らなかった。
「どうしたら皆を救える? 苦しませずに済む? ぼくたちは何か悪いことをしたの? 今まで死んでいった人たちは?」
どこどこで撃たれた、一家全員でやられていた。
そうやってしか名前を聞くことのなくなってしまった信者たち。
「ルクスさまの教えは絶対だ。人を愛し、信じること。それができない人は、生きていても幸せになることなんてないのに」
脅し、痛めつけることが優先のユス教。
愛を知らない、許すことを知らない、そんなかわいそうな人たち。
「ぼくには何もできない。何の力もないんだ……」
父は優しく肩を抱き、嘆く息子の側に居続けた。ミックの嘆きは、日が暮れても夜が更けても続いた。
「人として間違ったことをしていない限り、神の前で何も恥じることはないんだ、ミック」
そう言われたのが印象的だった。
泣き疲れてそのまま眠ってしまったミックが気づいた時には、もう土曜の正午時を過ぎていた。
ひいふうみいよおいつむう、土曜日。
この五日間寝込んでいた父は体力を取り戻し、体を起こせるようになっていた。お互いの包帯を取り替えて傷に薬を塗り合う。治りかけの傷は怪我を負ったときよりも痛むものなのか。耳と頬は問題ないが、左腕の傷は日に日に増してずきずきと痛んだ。包帯できつく固定してあるせいか、指先の感覚もなくなってきていた。
「大丈夫だよね?」
寝る前、ぽつりと父に尋ねた。言わずとも、何を案じているのか父にはきちんと伝わった。
「信じるんだ。ルクスさまが奇跡を起こしてくれることを」
ひいふうみいよおいつむうなな。また巡ってきた、日曜日。
ミックたちはゆっくりと身支度を済ませ、法衣を身に纏って、毎週と同じように神殿の封鎖を解いていった。
バン! という銃声が鳴らないかどうか、不安で仕方なかったが、父の言う通り、信じるしかなかった。
どうか成功していますように。誰も死んでいませんように。
すがるようにそう祈ったミックの心を折るかのように、神堂のルクス像は、銃弾に撃ち砕かれた見るも無残な姿で彼を出迎えた。
気を落としたミックの背を父がさすった。その顔を見て、ミックはもう一度自分の足を奮い立たせる。「成功した暁には、日曜の朝に神殿の扉を叩く」信者たちはそう言った。
叩かれるはずだ、きっと。いや、必ず。
信じて待つんだ、ミック。
どれほど待っただろうか。
やがて、荒っぽくドンドンと扉が叩かれた。
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