⌘第8話 ルクスさまからの試練だ 戦え!

「ミック」自分を呼ぶ声を聞いた。「ミック、ミック!」


 うっすらと目を開けたミックは、そこに元神依士かむえしの顔を見つけた。白髭の、この神殿で一番偉かった祭司さま。息子の仇を討つために、娘を守るために、半年前にこの神殿を出て行った祭司さまだ。


 ミックはずきんという痛みを左腕に、そしてぴりっとしびれるような痛みを右耳に感じ、それらに自分の手をやった。そこに包帯が巻かれていることを知った。さらに、耳が歪な形に抉られていることも。

 口の中で血の味がする。殴られて腫れた頬とこぶのできた頭は、濡らした布で冷やされていた。


 ユス教徒は? ……フィランたちは? お父さんは?


 辺りを見回そうとすると、昼餐会にやってきた信者たちが一斉にこちらを振り向くのが分かった。

「ミック、よかった!」

 口々に叫んで駆け寄ってくる。

 代わる代わる彼のことを抱きしめた。


 信者たちがひとところに集まって、心配そうにささやき合っているのが目に入った。涙を流している者もいる。

 彼らが囲んでいるのは、その人が誰かということに気づいたミックは、傷の痛むのもとりあわずに跳ね起きた。

「お父さん!」

 父は横たわっていて、そのむき出しになった腹に包帯が幾重も巻かれていた。

 いつ巻かれたものかは知らないが、傷口からの出血は既に、白い包帯に赤黒い染みを浮かび上がらせていた。そして、その目は閉じられていた。


 がくっとくずおれそうになったミックの背を、信者の一人が支えた。

「神依士さん、起きてくれ。ミックは目を覚ましたぞ……」

と、父に呼びかけた。


 ミックは父の側に駆け寄って、その顔に触れた。

 息をしている。

 ああよかった、と思った瞬間、涙で前が曇って何も見えなくなった。零れ落ちる前に涙を拭い、父の傷に目をやった。腹が傷ついていて、たくさん、血が流れている。

「撃つのなら私を撃ちなさい。息子は、助けてください」

 そう言った父の言葉を思い返したミックは、自分が撃たれたあと何があったのかを考えた。

 あのとき死を覚悟したが、放たれた弾丸は側頭部を掠め耳朶を抉り取っただけで、ミックの命を奪うことはなかったのだ。

 気を失っている間、父とフィランの間にどんなやりとりがあったのか、想像するだけでも体の震えが止まらなかった。





「ミック、何が起きたか、話せるかい」


 祭司さまに声をかけられたミックは頷いて振り返った。


 ところが、口を開こうとした途端、さっきの出来事の場景が映像となってミックの脳裏を埋め尽くした。

「生きるか死ぬか選べ」

 そう言ったフィランの殺気、それを表象した恐ろしい銃口、自分の傷の痛み。

 そして何より、多量の血を流して動かない父の姿。


「うわああ」


 気づくと、悲鳴がこぼれていた。そんなミックをいたわるように白髭の祭司さまが背中をさすってくれた。その様子を見守る他の信者たちの間に、自然とすすり泣きが広がった。


「おしまいだよ」

 誰かが言った。

「平日は部屋の中に閉じ込められた。唯一の日曜がこんなんじゃ、もうおしまいだよ」


 ミックはその者を見た。

 彼は何かを堪えるように唇を噛むと、ミックの視線から逃げるように信者たちを振り返った。



「ルクス像を撃ち抜いたぞ、あいつらは!」



 ミックは顔を上げた。

 ルクス像の姿を自分の目に収めたとき、ミックの胸に悲しさと悔しさが一気に押し寄せた。

 神の慈愛に満ちた顔も、寛大な心を模した両腕と両翼も、元の姿を留めないほどに弾丸で穿たれ、ぼろぼろになっていた。

 守ることができなかった。ルクス教徒の心の拠り所を。


「私たちの象徴を汚した!」


「そうだ!」


「もう一日たりとも我慢ならない、そうだな?」


「そうだ、そうだ!」


 信者たちが沸くのを、ミックはまるで異世界の生き物を目にしているかのような気持ちで見つめた。

 彼らのように怒りの感情がふつふつと感情が沸き上がってくることはない。

 恐ろしくて、ただ、苦しいだけだ。

 早くユス教徒のいない世界へと逃げ出したい。




「お父さんが目を覚ましたら、すぐにここを離れよう。私たちの家に来るといい」


 信者の一人がそうミックにささやいた。


「そこは、安全なの……? ルクス教の神依士がいても、撃たれたりしないの?」


「安全とはいえないが……」


 なおも口を開こうとしたミックの耳に、聞き逃すことのできない言葉が飛び込んできた。




「蜂起しよう!」


「ああ、ならず者の邪教徒たちを、この国から一掃してしまえ!」


「革命を起こせ! 正義とは何か、あいつらに教えてやれ!」




 蜂起。蜂起だって?




「蜂起って何。どういうこと」


 信者を鼓舞していた男が挑戦的な表情でミックを見つめてきた。

 何人かがそれに倣ったが、同じだけの数の人間は気まずそうに顔を逸らした。


 だが、全員が待っていた。

 まだ見習いだが、ルクス教神依士として最後まで神殿に残り続けたミックの言葉を。


「戦っちゃいけない。殺し合いなんてこと……」


 しかし、言葉は途中で遮られた。


「理想ばかり語るな、ミック!」


 突然恫喝された。

 ひっと短い悲鳴を上げて怯んだミックに、信者たちはさらに詰め寄った。


「ルクス教徒である俺たちが、普通に暮らしていける場所はもうこの国にはないんだよ!」


「ルクスさまの教えを無視した結果がこれだ。悪いのはユス教徒たちだ。奴らに天誅を与えるんだ!」


 信者たちの叫びは若い神依士見習いの胸を鋭い刃で切り裂いた。

 ミックは耳を塞ぎたい気持ちをやっとのことで堪えながらその場にいた。

 野蛮なユス教と同じ土俵に立つことを、彼らによしとしてほしくはない。

 かといって、他に身を守る術を伝えてやることもミックにはできない。


「命を捧げるのは覚悟の上!」


「これはルクスさまからの試練だ。そうだな?」


「俺たちは戦わなければ!」


「ユス教徒に次の日曜を迎えさせてなるものか!」






 昼餐会は取りやめとなった。

 金曜の夜に蜂起してルクス教徒を地獄から解放すると言い残し、あらかたはお互いを鼓舞し合いながら家へと帰っていた。

 数人の信者たちが父に付き添うように残ってくれたが、日が暮れ始めるのを見て、眠ったまま運ぶことを検討し始めたときだった。


「お父さん」


 ミックが呼んだ声に、信者たちが集まってきた。めいめいに父の名を呼ぶ。

 父はうっすらとまぶたを開けると、首を動かしてミックを見つけた。ミックと父の視線が絡む。

 そこに父の生気を感じ取って、ミックはようやく胸を撫で下ろした。


「神依士さん、ここはもう危険だ」


 信者の一人がミックに代わって一部始終を説明したあと、そう切り出した。


「まだ体なんか起こせないと思うけど、でも日曜のうちに、ここを離れなきゃいけない」


「ここ……神殿をですか」


 父が小さい声でそう言うと、無理矢理にでも体を起こそうとした。

 それを支えようと、ミックは腰を浮かせた。父がミックの視線を捉える。何かを伝えようとする。

 ミックははっと目を逸らしてしまった。まるで、自分の心の中の恐れを見透かされたかのようで。

 顔を伏せている時間はわずかだった。彼は父の言いたいことをはっきりと受け取っていた。


「……ぼくたちはどこにも行きません」


 信者たちが驚きの声を上げた。

「ミック、何を言っているんだ」


「ここに残ります。戦争が終わるまで」


「ミック……。お父さんも君も、ひどい怪我をしているのに」


「国王が死んだら争いは終わるって言っていましたよね?」


 信者はばつが悪そうな顔になった。


「そんな、神しか知らないようなことには頼れない。それに、君たちの怪我が悪化したらどうするんだ。次の日曜まで、誰も助けには来られないんだぞ」


「分かっています。それでもぼくたちはここでルクスさまに祈りを捧げるしかありません……ルクス教の神依士だから」


 自分の信じたものを口にするとき、人はこんなにも震えるものなのだろうか。


「ミック、この神殿と心中する気か?」


 その問いには答えられなかった。


 先ほどまでの言葉を全部ひっくり返して、やっぱり連れて行ってとすがろうとする気持ちが脳裏を掠めた。

 その葛藤を振り払おうとしたとき、静かに話を聞いていた父が、急にミックの袖を引っ張ってこう言った。


「行くんだ、ミック」


 ふいに背中を押されたミックは、その言葉を信じられずに父を振り返った。


「私は残る。だが、お前まで犠牲になってほしくはない」


 父はとっくに覚悟を決めている。今この場での話ではない、きっとずっと前からそうだったのだろう。

 父の愛情は、息子を案じ思いやる父の言葉は、ミックの逃げ腰な態度を逆に封じ込めてしまった。

「お父さん、ぼくも一緒だ」

 そう繰り返す度に、ミックは自分の覚悟が本物になっていく気がしてならなかった。 

 どうせ、どこへ逃げても同じこと。なら、自分に誇りをもてる方法でユス教徒たちに抗いたい。








 信者たちはなおもミックたちを説得しようとしたが、それが叶うことはなかった。

 ついには諦め、父を奥の部屋まで運んで布団に寝かせると、各々帰り支度を始めた。


 白髭の祭司さまがミックに声をかける。


「薬の処方は覚えたね」


 頷くと、祭司さまはミックの頭に手を載せ、くしゃくしゃと髪をなでた。

 ミックが顔を上げると、祭司さまは目に涙をいっぱい浮かべ、彼のことをきつく抱きしめた。


「祭司さま、痛いよ」


 それが腕の傷を指しているのだと気づいた祭司さまは、慌てて力を緩め、今度は優しく肩を抱いた。


「生き残るんだよ。ユス教の輩に負けてはいけない」


「祭司さまも」


 左腕を庇いながら片腕だけで神殿を封鎖して回リ、奥の小部屋に戻ってくると、父はまどろんでいる様子だった。


「あのときに」


「あのとき?」

 ミックが聞き返す。


「あのときに、許していればよかったんだ」


「あのときって?」



 だが、ミックの声は父には聞こえていないようだった。

 父は同じ言葉を二、三回繰り返して、薄く目を開いた。


「なあ、そうじゃないかい……アンネ」


 母の名前だ。

 ミックははっとして父の名前を呼んだが、声はやはり届いていないようだった。


「あの子たちもあんな風にはならなかっただろうに。あのとき許していれば……。ミックもかわいそうだ……」


 あの子たち?

 ミックは傷に障らないよう注意しながら、父の肩を揺すって名前を呼んだ。

 しかし父はまた気を失ったのか、それとも単に眠りに落ちたのか、もううわごとを口にすることはなかった。







 ミックはその夜、また夢を見た。

 誰かに左手を引っ張られる夢だった。

 ミックがそれを振り払うと、誰かは肘を掴み、肩を掴み、すぐに全体重をかけ、さらにミックを強く引っ張った。

 左に倒れたミックは奈落の穴に飲み込まれていった。


 怪我をしたところに鋭い痛みが走って、それでミックは跳ね起きた。

 寝床に入ってからまだ一時間も経っていなかった。


 汗だくになっていたミックは水を口に含んだ。

 ベッドから下り、自由にならない腕をなんとかしながら服を着替えようとしたところで、張っていた糸が急にぷちんと切れた。


 ミックはその場に座り込み、右腕と膝をついておいおいと泣き出した。

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